第31回 謎解き「シクラメンのかほり」 - 金谷武洋の『日本語に主語はいらない』 (original) (raw)

前回「赤ちゃんの名前」で、女の子の名前には、平成の今に至るまで、依然として花に関する言葉が好んで使われることに注目した。例えば「花、萌、凛、咲、菜」などの字である。今回はそれを受けて「シクラメンのかほり」という題でひとときのおつき合いを。ただし今回は謎解きである。

シンガーソングライターにして現役の銀行員でもあった小椋佳が作詞・作曲。本人よりもむしろ布施明の声で大ヒットした「シクラメンのかほり」だから、読者にもお馴染みの歌であろう。だが、この曲は題名に謎が隠されていることは御存知だろうか。先ず初めにその謎をご紹介し、それから謎解きを試みよう。

「シクラメンのかほり」という題名は二重の意味で間違っているという指摘が以前からあった。それは次の2点である。

(1)「かおり(香り・薫り)」の旧かなは、「かをり」で「かほり」ではない。
(2)シクラメンはそもそも匂わない。つまりシクラメンに香りはない。

(1)は国語学者や(旧かなをよく使う)歌人や俳人が直ちに指摘した。今は「かおり」だが、旧かなでは「かをり」であって「かほり」ではないことは、語源を考えてみても分かる。「かをり」は実は「香+居(を)り」から来ているからだ。「名詞+をり」で女の名前になる例では、他に「緑(みどり)」がある。これには「水(み)+鳥」など様々な語源説があるが、私は「水(みづ)+をり」だと思う。和語の「みどり」が色としての緑(英語のGreen)と対応していないことは以前から指摘されている。「嬰児(みどりご)」(green baby!?)とか「緑の黒髪」(green black hair!?)などの用法があるからだ。これらは「緑色でないみどり」の例である。「みどり」の語源が「水鳥」であったとしたら「みどりご」や「みどりの黒髪」が説明しにくくなるだろう。私は、「みどりの黒髪」は「つやのある黒髪」、「みどりご」は「ぴちぴちした赤ちゃん」の意味であって、水の存在(みづ+をり)が故の生命力を言ったものと思う。わざわざ「鳥」を持って来る必要は感じない。「みどり=水(みづ)+をり」と考えてみると同じ和語の「みづ」が「瑞々しい」とか「瑞穂の国」などの表現にも使われている理由が分かる。逆に水がないと生命は死ぬ。「死ぬ」の語源は「しなびる」や「しなる」と同源の「撓(しな)ゆ」から来ているとされることも「水」と「生命」の深い繋りの傍証だろう。

さて、「シクラメンのかほり」に話を戻そう。「かほり」という表記が歴史的に間違いであり、加えてこの花が「かほり」もしないことを長年指摘されて来たのに、何故小椋佳はこの題名を一向に直そうとしないのだろうか。それがこの歌の謎なのである。私もどこかでこの題名の謎を知って、それ以来何となく気になっていた。

それがある日、謎が一気に解けたのは、ネット上で小椋桂の奥さんの名前を偶然に知った時だった。何と、佳穂里さんというではないか。佳穂里なら、発音は「かおり」でも表記上では「かほり」だ。その瞬間、旧かなの間違いを指摘されても小椋桂は「極めて意図的に」これを直さないのだ、ということが分かった。

そう思って、再度「シクラメンのかほり」の歌詞を読み返してみて驚いた。名詞で「シクラメンのかほり」とは言っても、動詞で「シクラメンが香る」とはどこにも言っていないのである。1番に「真綿色したシクラメンほど清しいものはない」2番に「うす紅色のシクラメンほどまぶしいものはない」そして3番に「うす紫のシクラメンほど淋しいものはない」とあるだけだ。しかもこれらの後にはそれぞれ「出逢いの時の君のようです」「恋する時の君のようです」「後ろ姿の君のようです」とあって、シクラメンに「君」が見立てられている。つまり、この曲は自分の妻に捧げた愛の讃歌だったのだ。小椋桂にとっては妻の佳穂里さんは「シクラメンの君」であり、それならばこそ題名は「シクラメンのかほり(=佳穂里)」でなくてはいけなかった。

3番には確かに「暮れ惑う街の別れ道にはシクラメンのかほりむなしくゆれて」という箇所がある。我々をはぐらかそうとする小椋桂の意図をここに感じるものの、「別れ道」で揺れていた「かほり」は「香り」ではなくて「佳穂里」さんだったのだろう。結局、小椋桂に誤字はなく、「かをり」は「香り」、「かほり」は「佳穂里」と使い分けたのだ。

何で「かほり」なんだろう、シクラメンは匂わないのに、と我々はこれまで首を傾げてきた。妻と2人だけの小さな秘密を分け合って、小椋桂は背中で笑っているに違いない。愛とは秘密を共有することだから。成程、これでは題名は直らない。作者が直すはずがない。香らないシクラメンをわざわざ持って来たのが謎解きのヒントだったというわけか。周到に仕掛けられた謎がやっと解けた。

こんなことを考えながら板張りのテラスをを見ると、ちょうど拙宅にも白いシクラメンが咲いている。因みに俳句では「シクラメン」は春の季語。その姿はまるで白蝶が羽を休めている様に見える。ふと思い立って鼻を近付けてみたが、やはり香りは、ない。

蝶の来て飛び行きてなほその白き姿残せりシクラメン咲く
(2004年6月)

応援のクリック、よろしくお願いいたします。