書くという再帰性 (original) (raw)

書くという再帰性

雑記

2010.06.25

書くという行為は不自由だなと思う。商売で文章を書いていると、書くという行為は、常に誰かの求めに応じてなされるものになる。その時点で、相手と自分との間に生まれた社会観や時代観というものが、文章に反映されることになる。ワールドカップで盛り上がってた若者たちは、不景気のせいで世の中に不満を持っている層なんですか、と聞かれれば、不満の表れならもっと酷いことになっていたろう、と答えるけれど、雇用の問題で社会に対して怒っているのはごく一部の若者ですよね、と言われれば、そんなことはないですよと返すだろう。

それは、ブログや本のように、自分の内発的な動機で文章を書く場合でも同じだ。ある社会観というか、前提として持っている想定があって、それに対する距離感が文章のトーンを決める。特にアカデミックな知識を用いながら一般に向けて書く場合には、異化効果というか「意外な驚き」みたいなものを盛り込もうとすることが多いので、その「意外」の反対側、つまり「世の中の人はこれを当たり前だと思っているだろう」という想定が、何を書くかを決めてしまうことがままある。

フリーターは自己責任でなったものではないんです、と主張する文章は、社会の多くの人がフリーターを怠け者だと考えているに違いないという前提を強く持つほど、熱のこもったものになるだろう。経済学って、ロジカルなアプローチでビジネスに十分役立つんですよ、と書くときには、きっと世の中の人なんて、経済学は現実に役に立たない空理空論を並べ立てるうさんくさい学問だと思っているに違いない、という筆者の社会観がにじみ出てくることになる。

最近ではその辺のことも巧妙になっていて、その社会観が思い込みでないことを示す材料が、ご丁寧に提示されることが多い。雑誌や新聞の記事、テレビでの「識者」のコメント、その文章を書く少し前に売れた本。そうしたものが筆者自身の社会観を補強する形で引用され、「こんなことを言う人がいるが、実際は違っている」と論が展開する。かくて主張の責任はそうした「間違ったこと」を言ったことにされた相手の方に帰され、筆者はそれに対して「中立的に」議論をしたという体裁ができあがるのだ。

再帰性という概念は、ギデンズがしつこくヴェーバーを引用していたことを考えても、ここまで述べてきたような個人の社会観=主観性の揺らぎを勘定に入れることを目指して提起されていると思われる。言い方を変えれば、その人が無自覚に前提にしている社会観は、どれだけ「客観的」な証拠を集めようと、それだけでは揺るがないのであって、むしろ重要なのは、自分がどのような「偏り」の下で書こうとしているのかを自覚し、「書く」という行為そのものがよって立つ足場を「選ぶ」ことなのだ、ということになる。再帰性が、私たちが日常的に行う「反省」と少し違うのは、こうした点にある。反省して別の道を選ぶことだけが求められているのではない。選びようもなかったその立場を「選んだもの」として引き受けることも、また再帰的な振る舞いなのである。

再帰的に書く、ということは、僕の社会観を反映させて言えば、いまの日本社会にこそ必要とされていると思う。選挙シーズンということもあり、多くの政党代表や候補者が「弱者の味方」であることを強調しようとしている。その場合の「弱者」も、それぞれの社会観や目指すべき社会に合わせて設定されているのだけど、彼らはその呼びかけが、弱者を「弱者」というカテゴリーに固定化し、弱者を再生産することに寄与するかもしれないという風には思っていない。

殴った者には、殴られた者の痛みは分からない。それは、気づかずに殴ってしまった相手を、実は助けたいと思っていたという彼の気持ちを否定することとは違う。というより、助けたいという気持ちがあるのに殴ってしまうのならそちらの方が問題だ。殴る側であることを自覚し、そこから殴られる者を助ける手立てについて考えることと、殴る側でありながら殴られる側の気持ちに同情して「私たち」を助けよ、と主張することとの間には、大きな隔たりがある。同じ意味で、殴る人に対して、あなたは殴る側だから私たちの気持ちが分からないのだ、殴られる側はいったいどうすればいいんですか、となじることも、お門違いな物言いになる可能性がある。「気持ちのわかり合い」を重視するあまり、問題の解決が置き去りにされてしまうのだ。

殴る側と殴られる側が「わかり合う」ことがあるとすれば、それは、殴る側が時に殴られる側になり、殴られる側が別の場面では殴る側であるということを、互いに理解することから生まれるのではないか。それを可能にするのは、相手への非難ではなく、それらを含めた相互行為の結果生じる再帰的な自己認識だろう。相手に応答することではなく、相手に応答するために自分について考える瞬間にこそ、相互理解の芽生えがある。

ネット上では理想的な熟議が可能になるとか、それは一部の高尚な人々の理屈に過ぎないといった議論がある。僕自身の考えを言えば、ネット上での「議論」は、おそらくそれ自体で何かすばらしい効果を生むということはまれで、相当に前提の共有できた間柄でない限り、すれ違いや期待はずれや徒労感ばかりを残すだろう。しかし、自分には理解できない前提を有した相手の主張に対して想定反論を試みているとき、そこには新しい自分への認識が生まれる可能性がある。討議の結果ではなく、過程において生じる自己認識の変化や、それによって生じる関係性の変化こそが、そしてそれを生み出すために何かを「書く」という再帰的な行為そのものこそが、熟議の意義なのではないか。

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