筆不精者の雑彙 (original) (raw)
「皇国史観」平泉澄 晩年のインタビューのエピソード オーラルヒストリーは大変という話
※記事に追記しました(2013.6.19.)
つい昨日ですが、ツイッター上で長谷川晴生(@hhasegawa)氏の以下のコメントに接しました。
平泉澄「私はプロレスが好きでね。猪木がさんざん負けて、これはあかんかと思うと、彼は逆転する。それは何とも言えぬ楽しみですわ。」内容面もさることながらこの発言に目が留まらざるを得ない。そして維新の会へ。 / “平泉澄と仁科芳雄と石井…” htn.to/PHYGYj
— hhasegawaさん (@hhasegawa) 2013年6月6日
ここで紹介されているのは、『「皇国史観」という問題 十五年戦争期における文部省の修史事業と思想統制政策』『地図から消えた島々 幻の日本領と南洋探検家たち』を著された(小生もどちらも読みたいとかねてから思っているのですが、いまだに果たせていないのは残念でなりません)長谷川亮一氏のブログ「日夜困惑日記@望夢楼」の、以下の記事です。
こちらの記事では、『東京大学史紀要』第17号の「東京大学旧職員インタビュー(3) 平泉 澄氏インタビュー(6)」の内容を紹介、論評されています。
これらの記事の主役・平泉澄(1895~1984)といえば、当ブログの読者には説明不要でしょうけれど、戦前・戦中に「皇国史観」(本人がそう称したわけではないですが)のイデオローグとして活躍し、政治家や軍人などにも少なからぬ影響力を振るったといわれる歴史学者です。そのため戦後は一転、激しい批判の対象となりましたが、同時に今でも一定の支持者を持ち続けています。その特異な行動のために評価は今なお難しい人物ですが、最近ミネルヴァ書房のミネルヴァ日本評伝選から、若井敏明氏による評伝が出ています。
平泉についてのエピソードは以前から様々に語り伝えられてきておりますが、おそらくもっとも有名なのは、門下の学生だった中村吉治が平泉に「百姓の歴史をやりたい」と言ったら、「百姓に歴史がありますか。豚に歴史がありますか」と言われた、というものでしょう。
で、そんな平泉に対して、東大が百年史を編纂する際に、元東大教授ということで1978年にインタビューを行いました。インタビューの中心は、日本近代政治史の重鎮で、当ブログでもその「『革新派』論を紹介したこともある(明後日の方向でしたが・・・)、伊藤隆先生でした(当時はまだ東大の助教授だったようですが)。そのインタビューの模様が先にあげたリンク先に引用されていますが、これが率直に言って無茶苦茶で、そこが面白いものとなっています。何しろ、仁科芳雄が欧州に留学して原爆開発を決意したとか、石井四郎が「化学」兵器で国を守ろうとしたとか、戦時中は特攻兵器で一発逆転しようとしたとか、事実関係がぜんぜん違うでしょう(その辺は長谷川氏が指摘されています)、ということを延々と述べており、あまつさえ最後にこんなことまで言い出します。
・・・(核兵器ができなくても)石井さんのほうは(化学兵器?細菌兵器?が)用意しておったが、これは陛下のお許しがないので、とうとう行われない。そこで何とかしてふつうの兵器で戦って、いわゆる逆転を私はやりたい。私はプロレスが好きでね。猪木がさんざん負けて、これはあかんかと思うと、彼は逆転する。それは何とも言えぬ楽しみですわ。それはどんなに負けても最後の一戦で勝てば、終わりよければ万事よしなんです。それで回天でも何でも一生懸命やった。
・・・平泉先生に誰も、プロレスは演出だということを突っ込まなかったのでしょうか。平泉はインタビューの続きを読むと、「ワシの言うことを聞かなかったから日本は負けた」くらいの勢いですが、プロレスをガチと思い込むような精神で国を指導されては、敗戦はまぬかれないでしょう。
で、ここまでが前置きなのですが、このインタビューの際に録音されなかったエピソードがありまして、十年ぐらい前に聞いた小生もいまだに忘れられない話なので、ここに記しておきます。これは、当時九州大学教授だった有馬学先生が、東大の集中講義の際にされた話で、聞いたものはみな講義の内容は忘れてもこの話は忘れられなかったというものです。
それは、伊藤隆先生が大学院生を何人か手伝いに連れて、はるばる石川県に平泉澄をインタビューに訪れたときのことでした。伊藤先生一行に会った平泉は開口一番、こういったそうです。
「わたくしが日本を指導しておりましたときの話をいたしましょう」
ちょっと待て。お前が指導しとったんかい! と伊藤先生は平泉の吹きぶりに内心呆れたそうですが、そこは抑えてインタビューを始めました(追記:本記事をご覧くださった長谷川亮一氏のツイートによりますと、平泉はインタビュー本体でも「実質上、日本の指導的な地位に立ち得たんです」と語っていたそうです)。その内容は、先に長谷川亮一氏がご紹介されているとおり吹きまくりなのですが、とにかく録音を続けていました。そして話が佳境に入ったとき、平泉が突然「録音を止めてください」と言い出しました。これはオフレコ秘話の開帳でしょうか?
いえ、平泉は突然日本刀を抜き放ち、こうのたもうたそうです。
・・・いやまあ、有馬先生が伝えるところでは、そうだったんだそうで。
やはりまあ、少なくとも晩年の平泉は、どこか精神の平衡に問題を抱えていたのではないかと思わざるを得ない話ではあります。
で、すっかり呆れ返った伊藤先生に対し、お供の院生はあまりの展開におかしくてたまらなかったのか、日本刀を抜いた平泉を記念撮影しようとしたそうです。
院生「先生、もうちょっとこっち向きに」 平泉「おお、こうか」
平泉は結構満更でもない様子だったそうで、やはり教育者として若い者には優しかったのか・・・いや、単に受けて嬉しかっただけなのかもしれませんが、その辺はもはや分かりません。
とまあ、「皇国史観」の代表として怪物のようにも扱われる平泉澄の、晩年のエピソードでした。いやあ、インタビューって難しいですね。
・・・というところで終わるかと思いきや、この話にはさらに落ちがあります。
この逸話をされた有馬学先生は、平泉インタビューの際に助手をつとめ、平泉をいい気にさせて写真を撮った院生のことを、『大正期の政治構造』(同書のアマゾンでの古書価格に愕然)などの研究で知られる季武嘉也先生だと、その時は仰いました。で、このエピソードのあまりの鮮烈さに忘れかねていた小生ほか受講者数名がある時、季武先生に直接お会いする機会がありまして、お酒も入った砕けた席でしたので、一同このときの話を聞かせてほしいとお願いしたのです。
すると、季武先生は意外な返答をされました。
「ああ、それは僕じゃないよ。お供をしたのは、今は青山学院で教育史をやっている酒井先生だよ」
ええっ!? と、確かに先の長谷川亮一氏の記述には「インタビュアーは伊藤隆・酒井豊・狐塚裕子・照沼康孝の4名」とあり、酒井豊先生のお名前はあれど、季武先生はそもそも行ってもいなかったんですね。季武先生いわく「この話自体はそのころ研究室では有名で、みんな知っていた」そうですが、年代としては同じくらいの方々で同時期に東大の国史学研究室にいたため、混同されてしまったのでしょうか。
なお、小生は残念ながら酒井先生にお会いしたことはありませんので、これ以上のことは分かりません。もっとも、伊藤隆先生も今なお大変お元気に活動しておられるそうですので、そちらへ伺ったほうが確認にはいいのかもしれません。
といわけで改めて、聞き取りによって歴史を調べるオーラルヒストリーという手法は最近重要視されてきていますが、その扱いは「本人の話だから」とそのまま受け取るのではなく、よく検討しましょう、という教訓になるでしょうか。あ、以上のエピソードについての小生の記憶に関しては、一緒に講義を受けたり季武先生に質問したりした人が何人もいますので、ちゃんと証人を用意できます(笑)。
もちろん、史料批判は文書であっても同じことですし、むしろオーラルヒストリーと文書が違っていて前者がどうも事実関係として信用できなかったとしても、当人がそう信じている、そう語りたがっている、ということから、きっと文書だけでは見出せない、大事な何かを掴み取ることが出来るのだろうと思います。
ただ、この平泉の場合は、何が掴み取れるのか・・・
※2013.6.19. 追記
本記事に関して、もともとの出典であった長谷川亮一氏のブログ「日夜困惑日記@望夢楼」で、以下の記事が掲載されました。
こちらでは、コメント欄で森洋介さんがご紹介くださった、伊藤隆先生の私家版の回想録『日本近代史 研究と教育』を確認され、その中から当ブログで紹介したエピソードにまつわる箇所を引用されています。是非ともご参照ください。
伊藤先生の回想ではやはり、ちゃんと写真を撮った院生は酒井豊氏となっていて、有馬先生のそこは勘違いだったようですが、他はだいたい事実に即したお話だったようです。また、『東京大学史紀要』第6号から、東大百年史編集室員だった照沼康孝氏の回想も引用紹介されています。
これらによると、平泉澄が「大和魂とは、これです」と日本刀を抜いて見せた、というのは、戦前に陸軍士官学校で講演した際にやったことの、いわば再現を見せた、という文脈だったそうです。そういう文脈があるのならば、やはりボケていたというよりは、わざわざ東京から話を聴きに来てくれた後輩たちへのサービス精神が暴走した、という方が妥当そうで、そこまでいかれていたわけではない・・・ともいえそうですが、冷静に考えてみれば、
……「83歳の老人が、遠くからわざわざ昔話を聞きに来てくれた、自分の孫ぐらいの年配の後輩たちに向かって、思い出の日本刀を抜き出して見せて自慢した」というのは、なんとか笑い話で済ませてもよさそうだが、「39歳で博士号を持つ東京帝国大学助教授が、陸軍士官候補生たちの前で、抜き身の日本刀を構えて『陸軍よ、この刀のごとくにあれ』と大見栄を切ってのけた」というのは、さすがに笑えない。
という長谷川氏のご指摘の通りであって、むしろ昔からどこかズレていたという印象です。
長谷川氏の記事では、「日本を指導しておりました」云々の詳細も説明されております。まとめるとどうも、昭和天皇へのご進講を担当したことをきっかけに、暴走の傾向が始まっていたようにも思われますが・・・。しかしご進講した学者がみんな平泉のようになるわけではない、というか平泉しかいないのですから、やはりそこに平泉が特にそう思い込みやすかった何かがあるということなのでしょう。
ともあれ、今回は長谷川亮一さんのおかげで、「以前聞いた面白裏話」が文献的に裏付けられ、大変ありがたく思います(その結果、この記事の存在意義が問われそうですが・・・決して有馬先生の勘違いをdisりたいわけではないです)。若井敏明氏によるミネルヴァの評伝も、いつか読んでみようと思います。
表題通り、雑多な思い付きを適当に集める(筈だが筆不精なのでそうなるかは不明)という趣旨です。
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