武士にもいろんな人がいるものだ (original) (raw)

宝永6年10月29日。
久屋誓願寺大門を瓦葺にするにあたって、中の方から葺くようにと大工は言ったが、瓦師は聞き入れず表から葺き始めるとミリミリと音がして屋根がひっくり返り、道の向かいの塀際まで飛んで行った。
未刻(午後1時)少し過ぎのことであった。
その音が地を揺らし、近隣を響き渡った。
手伝いの日用3人は屋根の上にいたが、全員落ちて強く打たれた。
内1人は大けがで、足の骨が出たが揉み入れた。
残る2人は深い傷ではなく、強く打たれたは又兵衛という者であった。
すぐに1人死んだと言っていたが嘘であった。
又兵衛の子、坂下つかまき(柄巻)屋勘六も手伝いの3人で少し打たられた。
この他にも荷を積んだ馬を牽いて通りかかった馬子1人も少し打たられた。
馬は駆け出して事なきを得た。
また糞を運ぶ村の馬が通りかかって驚き、寺門の南6、7間(1間は約1.8メートル)先まで糞をまき散らしたので困ってしまった。
世間ではもっぱら1人が死に、3人は半死半生と言っていたがそうではなかった。
いずれにしてもめったにない事であった。
初めに大工が中から葺くと言ったのは中には支えがあるので問題がないからだった。
表からで大丈夫か、門がひずんでいるが大丈夫かと言っているうちに、やはりひっくり返ってしまった。
又兵衛は傷が癒えたが骨が折れたので足が曲がってしまった。

今月1日の役替のところ、世間の噂では三浦六左衛門300石と思われる役人に粗相があった。
三浦も元来南風(ママ)(のろま)だが、250石は馬を許されると人に教えられ、それではどうしましょうかと御用人と老中に問いかけた。
御用人も老中もきょとんとした顔つきで、素知らぬ顔で指図したと云々。
11月17日役料として17石下される。

星野勘左がてれん(手練)3張の弓を石川兵庫へ捧げる。
利生(利益)があると。
視力もよくなく、足もよくない先手と云々。

松平三太夫は4代の役付きと言いながら黒みっちゃ(黒みがかったあばた)の一寸法師、ちんばでうつけで病弱で極貧で、廻り(巡回)などにも馬に乗るのが不得手なので馬を牽いて歩いていた。
こんな人物は寄合でも稀であった。
尋ねても大道寺浅□臼井孫作・河井七左衛門、または藤田左門と答えたと云々。

ちなみの中川庄蔵を足軽仲間で玄賓僧都と云々。
三輪を頼むという意味と云々。