おしゃべりねこ (original) (raw)

これの世に に追加

10月18日

名前のはなしに追加。私がうまれたとき、両親は、「書きやすく、読みやすく、呼びやすい名」を、という方針で選んで名付けたのだという。有難かったとおもう。妹や弟もみなその方針で命名してもらった。

最近、新聞に、お悔みと誕生が載るとき、名付けのほうにどうしてそう読めるのか、と思う名がよくあるのは、好きでない。ただ難しい文字、というのとはちがう、この字がどうしてそう読める?と言うような、勝手なルビがついていることが、よくあるから。文字というものに対する知識も感覚も足りないのだ、と言いたい。大体、どうしてこの字がそう読める?と言うような名を持ち込まれたとき、黙ってそのまま受け付けるのが・・間違っていると言いたい。まあ、親が名付けてきたのを、役場の職員がクレームもつけられないだろうし。彼ら自身もそういう名前なのかも知れないし。なあ。

中学校の国語の時間に、短歌が出てくるあたりになると、講師に呼ばれて、生徒の作品を張りだして添削して見せたりした。上手ではなくても、オー、と思うような若い感覚が出ていて、見るのがたのしかった。

それがだんだん、ハシにもボーにもかからない、とうてい歌とはいえないようなものに変化していったのと、きらきらネームとかいわれる、私に言わせればへんてこな、名がふえたのと同時進行、した。そのうちに、教科書に短歌が載らなくなったのか、お呼びがかからなくなって、なんだかほっとした。ほっとしたけど、国語の勉強、ということからしたら、大いなる・・・進歩ならぬ退步?だった。しょうがない。オラ知らね。

これの世に

10月18日 晴れのち曇 15度・・28度

ただひとつ実りし石榴日々に見る枝撓ふまで重くなり来つ

読みやすく呼びやすくとぞ選ばれしわが名似合はぬまでに老いたり

ねこ抱きてよいよいやあと魚沼の子守歌をば唱ひたし 秋

十八年ともにありたる猫のもの赤き首輪をバッグに秘めつ

山葡萄さはに実りて秋は来ぬありたけの瓶洗ひて待てり

ひとつとぞ思ひし石榴五つ実る写真を撮ると見上げたる先

「現代農業」誌 依頼原稿下書 歌との出会い

10月16日

1937年7月生まれ、数え88歳の米寿です。3歳の頃、「'講談社の絵本」と言うのを与えられて、始めは読んで貰い、そのうちに自然に読めるようになりました。2歳違いで妹がうまれ、次の妹が年子で生まれ、母は忙しかったので、本に子守りをしてもらったようなものです。

人様も、この子は本が好きだというので、お菓子より本を下さったようです。本好きはずーっとそのままで、小学校の時、休み時間はもとより、授業中も隠れて読む、下校時に歩きながら読む。「本バカ」と言われました。

'ポケットの上より数を数えつつだれにやらむと思うほおずき

不安定

10月16日

魚沼から弟夫妻来、山畑の甘藷、ナマのも焼き藷も、ムカゴ飯のお結び、など頂く。あの畑の藷は特に美味しいのだ、縄文時代から人の気配がある山で、石斧など出土している。この前ちょっと書いた、自分の影法師のあたまを踏めるようになったらお昼、と、一日草取りしていたという山。黒くてほくほくの土は太古の火山灰由来か?

短歌会の詠草出来て、清書して封筒に入れたのがまだ出して無かった、1月号欠詠はエンギデモ無い、と思ったら、23日締め切り、じゅうぶん間に合った。明日にも11月号がくるはず。23日ならもう少し推敲するか、作り足して取り替えも可能。一月号だからなー。今あるのはあまり出来が良くない。出し損ねて正解。

なにか間違えているような、大事なこと忘れているような、不安があって楽でない。パソコン触るのなんかもそろそろ止めどきかと思ったり。

脇の畑の草取り、まめにしなかったのでスゴイ草、白花センダングサなんかもともと私が蒔いたのが、かまわないのではびこっている。ふろの焚き物になるような木っ端少し拾って、雨っぽくなったので家に入る。

受信トレイが95なんて、一日でとんでもない数が出ているのに、そこへ入れない。パソコンもかなりおかしくなっているのは事実で、私と一緒に老化しているのだ。私がヘンなのか?と言うほうへ気持ちが行って仕舞うのは良くないこと、タダさえほんとうにかなり低下しているのだから、自分で念押しになるのはなおよくない。この間からずっとそう思っているので、ここ止めて、メールも止めて、さっぱりしたい。ハガキと切手たくさん買ってある。寂しいけど、仕方がない。

私の短歌事始め

「現代農業」編集部の五十嵐さんから、「歌詠みの勧め」を書いて見るように、とのお話しがありました。

私自身は、誰に勧められたわけでもなく、ただこどもの時から乱読家だったので、片っ端からいろいろ読む中に短歌もあったのだろう。中学一年、13歳の時、なんとなく出来たのが、「ポケットの上より数を数えつつ誰にやらむと思うほうずき」

山の畑で半日草取りを言いつかり、立ち上がってじぶんの影法師のアタマが踏めたらお昼だからそれまで、といわれて草取り。千生りほうずきが熟していたので、摘んで食べ、ポケットにも溜めた。妹にやれば喜ぶだろう。そのとき「ポケットの上より数を数えつつ誰にやらむと思うほうずき」という歌が初めてできた。

千生りほおずきは、指先くらいのちいさい実を包んでいる苞(ほう)が緑から黄色に変わったら熟していて、甘みと、いい香りがある。

初めてだけど、かぞえつつだとか、やらむ、とか、一応文語体になっているのは、乱読家のおかげで意識せずに歌も読んでいたのだろう。その初めての歌を雑誌「少女の友」にはがきで投稿したら、採用されて載った。選者は五島美代子先生だった。その嬉しかったこと!生まれて初めて自分の書いたものが活字になった。さらに、賞品として美しい便箋・封筒のセットが送られて来た。

大喜びしていると、母親が、「’おんなのこは目立つことをしてはいけない。人のしてないことをするな」という。

雑誌を定期的に取る、などと言うことは、当時(昭和20年代初期)のいなかの、まして子沢山で決してゆたかではない家では贅沢なことだった。はじめ、親が「こどもマンガしんぶん」だったか、そんな名の、週刊のこども向け新聞を取ってくれていたのを、おかね同じくらいだから雑誌にして、と頼んで「少女の友」に替えてもらった。ゆとりのある暮らしでも無かったのに、と思うけど、貰い子に行ったり、戻ったりさせた私への、気遣いをしたのだろうかと思う。そこに短歌の募集があった。

結果として、乱読家で頭でっかちになっていて、感じやすくて、自分でもラクではない私にとって、自分を表現する手段が出来たのだった。止められたので投稿は以後しなかったが、気が向くとノートの隅に書いて置くようになった。十三歳、私の短歌事始め、だった。

いま、人の歌の選などさせて貰うことがあって、そこで感ずるのは。

歌を作るということを、なにか特別な、雅やかな、あそびごとのように思い込んで、きれい事を並べただけの実感の無い、うたならぬヌタを出してくる例がある。歌は小ぎれいな遊び、ではなくて、歌があるという生き方だと思う。本当に自分を表現出来た、と感じたら、もうやめられないから。

人は皆、自分の見たい者だけ選んでみている。だから、じぶんの見たものを気取らず飾らずに、形式を守って書けば、それが歌。字数が限られていることも、力になる。

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