Le Chèvrefeuille (original) (raw)

9/18

LA7466 1830HND 1825JFK

LA2469 2345JFK→

9/19

→0650LIM ペルー入国

LA2123 0955LIM 1130AQP

アレキパ市街観光

Casona Solar泊

断念し再挑戦するまで1年6ヶ月。待ちに待ったペルー・ボリビアへの旅行に旅立つ日がやってきた。

お決まりの写真だが、出発

今回は成田ではなく羽田からの出発。今までコンビニがなく全てが割高で苦労していたが、セブンイレブンができていたのには驚いた。

プライオリティパスをようやく手に入れたこともあり、ラウンジで時間を潰す。ラウンジは多くの客で混雑しており、わさわさして若干落ち着かない。適当にカレーやマカロンを食べていたら時間が潰れた。1時間ほど前になったのでゲートに向かう。

ラウンジ

今回私が利用するLATAM航空の便は、米国まではJALとの共同運行便。米国から南米へはLATAM航空の機材を利用する。

まずはニューヨークへ向かう

マダガスカルとは違い残念ながらエコノミークラスだが、JALのエコノミークラスの足元はエコノミークラスとは思えないほどシートピッチが広く、今まで乗った機材のエコノミークラスの中で最も広いものだった。エミレーツよりも広い。これならば足を伸ばしても余裕がある。1年半前、ターキッシュエアラインのシートピッチの狭さに唖然とした経験がある身としては、その対照に驚くばかりである。

機内に乗り込む客に日本人はほとんどおらず、米国人と中国人ばかりであった。一体日本人はどこに行ったのか。円安と長い失政でついに日本人は海外に行けないほど貧しくなってしまったのだろうか。

相変わらず飛行機内では爆睡。12時間ほどのフライトで、ニューヨークに到着した。米国らしい実に無機質でドライな感じのする空港だ。

ニューヨーク到着

ニューヨークでは入国審査がある。ビザ(残念ながら私はイランの渡航者でありESTAが使えない。本来米国ビザは一昨年、ペルー・ボリビアを旅するために取得したものだった)にて入国。今回の旅程と滞在目的(transit)、滞在時間と次の便について簡単に訊かれ、米国に入国したが、別にニューヨークを観光する時間も興味もなく、ただ空港に滞在するのみである(そういえばチリ・アルゼンチンを訪問したときも一応入国したんだったな)。荷物を回収し、connecting baggageのレーンに荷物を預けて、別のターミナルへ移動である。

荷物を預けてLATAM航空の出発するTerminal4へ

LATAM航空の便はTerminal4より出発する。モノレールに乗ってターミナル4へ移動。4時間ほど暇を潰す。プライオリティパスが使えるいいラウンジは午前中限定であるらしく、他にあまり雰囲気の良いラウンジもなかったのでベンチに座って時間を潰すことにした。

Terminal4の様子

LATAM航空の機材はJALと比較するとシートピッチは狭いが、ターキッシュエアラインに比べればマシだし、所詮は6時間程度のフライトでありそれほど気にはならない。機内食もそこそこといった感じ。こちらも寝ている間に到着した。

ニューヨークからリマへの航路

リマでは入国審査を通過し、もう一度荷物を受け取る。2本のフライトですでにけっこう疲れているが、間髪を入れず3本目のフライトである。

ペルーへ入国

LATAM航空国内線は大抵チェックイン手続きが自動化されているがチェックインできず、有人カウンターへ。荷物をドロップし、国内線ターミナルに移動。なお旅行会社の人によればこの空港は手狭なので近々別の場所に移転するらしい。

リマのチェックインカウンター。壮観だ

リマへの飛行機が少し早く着いたので、時間がある。ここはプライオリティパスでラウンジに移動したが、こちらも客でごった返しており、ゴミゴミした雰囲気。水分と簡単なフルーツを摂取し、休息。1つしかない男子トイレをめぐって争奪戦が広げられていた。

ラウンジ

アレキパへ向かう便はほぼ満席であったが、海外観光客というよりは国内観光客を含めた地元民が多い印象である。相変わらず席は通路側で、景色の変化を楽しむことは一切できなかった。1時間程度のフライトにて、アレキパの空港へ到着した。

アレキパは乾いたさわやかな空気だ

空港の外に出ると、空気は乾いてカラッとしており、爽やかな空気感が気持ち良い。雪をいただいた火山が大きく見えている。旅行会社の手配した車のドライバーが出迎えてくれた。なんとガイドは簡単だが日本語が話せるようで、アレキパ市街の地図と食べ物の写真にご丁寧に日本語のルビをノリで貼り付けた手作り感満載の紙、そして地元民おすすめの観光スポットを教えてくれた。20分程度で、本日のホテル、Casona Solarに到着。

Casona Solarは300年前にこの地方特有の白い石で作られた邸宅を改装したもので、国の文化財にも指定されている建物である。今回はスイートルームを指定してみた。天井の高い広い空間に、ポツンとベッドが置かれている。天井からはシャンデリアが吊るされており、天井に開けられた採光用の窓から差し込む日差しが明るい。飛行機内で寝てはいたとはいえ流石に疲労が溜まっており、こういう時無理して行動すると事故のものとであるので(チリで痛い目を見た記憶が蘇る)、まずは2時間ほど寝ることにした。

Casona Solar。歴史を感じる重厚な建築だが、石の白さからか明るさを感じる

仮眠をとったのち、簡単に街を散歩してみる。

白い石を基調とした家並みは清潔感があり、明るい雰囲気だ。アレキパというのはインカ皇帝の一人の言葉"Ari qhipay(ここに住みなさい)"という言葉が由来だそうで、インカの人々が実際にここに植民し、都市が建設されたという。元スペインの植民地ということで、基本的にメキシコと同じような都市構造をとっているが、カラフルなペンキで彩られたメキシコの町並みと比較すると素材の色が活かされており、品性と格調の高さを感じる。治安も比較的よさそうだ。本格的な市街を観光するのは明日ということにして、ホテル近くの教会に入ってみたりして、簡単に市街を観光した。

食事はアルマス広場に面した店の一つJayariで。

アレキパはペルーの中では美食の街として知られている。ペルーのコーラといえばインカコーラばかりが有名だが、ここでしか飲めないというコーラ"Kola Escocesa"と川エビをふんだんに使用したアレキパの名産スープ"Chupe de Camarones"を注文した。トマトソースをベースにしたスープは量がかなり多かったが、えびの絶妙な旨みが効いており大変に美味。じゃがいもや米なども入っており十分にお腹を満たすことができた。テラス席からはアルマス広場の様子が見える。広場は人々の憩いの場となっているようで、管弦楽団の演奏が繰り広げられ、終始楽しげであたたかな雰囲気だった。ゆっくりと日が傾いていく。

まだ外は明るいが、ホテルに戻り就寝。

本日は疲れた。シャワーを浴びる気力もない、明日の朝にしよう。明日から本格的な観光である。サンタ・カタリナ修道院をはじめとした宗教施設、そして美しいアレキパの旧市街の散策である。時間があればアレキパの白い石の石切場、Ruta del Sillarにも行ってみようかと思うが、市街の観光を優先するつもりだ。

夕暮れのアレキパの町

インカ帝国、クスコ、マチュピチュ、ラパス、チチカカ湖

海外旅行が好きな人なら、これらのキーワードに反応する人は多いだろう。ペルーやボリビアは必ず訪れてみたいと思うはずの場所である。そういう私も、険しくも美しい山岳地帯とそれに抱かれた人々の生活が調和するインカの地を訪れることには強い憧憬の念を抱いており、何年も前からペルーやボリビアを訪れる旅を計画してきた。

昨年2月にペルー・ボリビアを訪れる計画を立てていたのだが、残念かつ不幸であることに、計画の目玉となるはずであったチチカカ湖周辺においてデモが暴徒化し治安が悪化したため、代替としてメキシコを訪れることになってしまい、訪れることはできなかった。もちろんメキシコ旅行自体は素晴らしい訪問となり、収穫も多かったが、どうしても本命でない感が自分の中で否めなかったのも事実である。今回は捲土重来を期し、前回の12日の計画には入っていなかったアレキパの訪問を追加して、14日の日程とした。

大まかな旅行計画は以下の通りである。

1日目 成田発

2日目 米国経由

3日目 リマ→アレキパアレキパ

4日目 アレキパ

5日目 アレキパ→クスコ→オリャンタイタンボ→マチュピチュ

6日目 マチュピチュ観光、クスコ泊

7日目 クスコ泊

8日目 クスコ→プーノ、プーノ泊

9日目 ウロス島観光、ウロス島

10日目 プーノ泊

11日目 プーノ→コパカバーナ→ラパス泊

12日目 AMティワナク遺跡観光、ラパス泊

13日目 AMラパス観光、PMラパス→リマ→

14日目 米国経由

15日目 成田着

かつて「海外旅行に関するメモ」で書いたように、ペルーの観光の目玉は主にクスコやプーノなどの南部地帯、リマやイカ、ナスカを中心とする南部海岸地帯、そしてカハマルカ、チャチャポヤスを中心とする北部地帯に分かれるが、ペルーは見どころが多すぎて15日の日程ですら観光地を全て網羅するのは不可能であるため、優先度のより高いペルー南部〜ボリビアに計画を絞った。アタワルパ終焉の地カハマルカやチャチャポヤス、そして車窓がダイナミックで美しいと評判のカハマルカ〜チャチャポヤスをバスで結ぶ路線もぜひ訪れてみたい素晴らしいものだが、これはエクアドルと組み合わせていつか再訪したいと思っている。

アレキパを2泊としたのは、もちろん白い岩でできた美しい街並みを堪能することも目的だが、標高2000メートル程度の都市に2泊することで、少しずつ標高を上げ、高地に順応することが目的でもある。マチュピチュやクスコについては、概ね旅行会社の提示したモデルプランに従っているが、9月はギリギリ乾季ということもあり、オリャンタイタンボからマチュピチュへの移動の際に、白く美しい景観で有名なマラスの塩田に訪れる、などのアレンジも加えている。アレキパやクスコで半日ツアーに参加するか、1日のんびり市街観光を楽しむかはまだ未定で、そこは敢えて現地での偶然との邂逅を楽しむのもアリだと思っている。最後の2日は世界最高の標高を有する(実質的な)首都ラパスで、イリマニ山を背後にすり鉢状の盆地に煉瓦色の家々が織りなす素晴らしい景色は、今回の旅行のフィナーレにふさわしいと考えている。

chevrefeuille.hatenablog.com

今回の旅行にあたって、スペイン人宣教師でありながら先住民の権利保護のために奔走したラス・カサスの「インディアスの破壊に関する簡潔な報告」、そしてインカ皇帝の末裔が高い倫理観を持った父親であるインカ皇帝のマンコ・インカが狡猾なスペイン人によって追い詰められ最後を迎えるまでが描かれたものとして貴重な史料、ティトゥ・クシ・ユパンギの「インカの反乱」、そしてかつてペルーを訪れた知人から借り受けたサディ・マリア・ネグロン・ロメロ氏の「ペルーとマチュピチュへの誘い」を読み、現地で対峙した歴史的建造物や遺跡などからより多くの情報を得られるよう予習に努めた。メキシコ旅行で設定したテーマにも通底するものがあるが(下記記事参照)、インカ帝国とその滅亡そしてその後のスペイン人支配の歴史は、人類の業の深さと愚かしさ、強者により繰り返される弱者の搾取、倫理が低いものほど得をする社会、といった、さまざまなテーマについて深く考えさせられる、示唆に富んだものである。かつてインカ帝国であったペルー・ボリビアを訪れ、今なお暮らす現地人の生活や精神に触れること、そしてスペイン人が彼らに何をもたらし、何を奪ったのかを実際に自分の目で確かめることが、今回の旅行の最大のテーマである。

chevrefeuille.hatenablog.com

この2年間ほど、ようやくコロナも終わり、自分に合わない業務から解放され、比較的充実した時間を送ることができた。以前から私が憧れていた国のうち多くに訪れることもできた。これは本当に運が良かったことだと思うが、その一方で、このために今まで苦い思いをして、時に涙し、時に歯を食いしばって生きてきたのだと思っているし、これが身の丈に合わない幸せだとは、決して思っていない。

この旅行を以て、私に与えられた短い人生のモラトリアムもいよいよ一つの区切りとなる。

海外にただ憧れる大学生のような無知に由来する無邪気さではなく、「世界史や地理、地学や生物などの知識を生きたものとして実感する大人のフィールドワークこそが海外旅行の醍醐味」とかつて自身で述べた(残念ながら自分で忘れてしまっていたが。記録に残すことの重要さを感じる)コンセプトに立脚した旅行を実現できるように、それなりに力を尽くし、日々少しずつではあるが学びを続けてきたつもりである。それに相応しい旅行となるだろうか。

アンデスの自然とそこに生きる人々から、何か大切なものを学び取ってこれるように、全力を尽くしたい。

旅行は一種の自傷なんじゃないかと総括に書いたけれども、それは単に真新しい単語の組み合わせにそれっぽさを感じただけで、今回の旅行記を書いた後に冷静に振り返ってみれば、旅行は別に自傷しに行くためのものではないんじゃないかと思う。

最近はどうも私自身、治安の悪さ、極端に過酷な文化や風土への適応、そういうものを乗り越えないと海外旅行とは言えないのだと思い込んでいた、いや「思い込まされていた」ところがある。それにはもちろんSNSで過酷な国に飛び込んでいく人々の情報が否応でも目に入ることにより、本来の自分のペースや価値判断を乱されていたことはどうしても否定できない。しかしながらその中でマダガスカルの旅は、辛いところがほとんどない一方で、深く印象に残るものだった。通過儀礼として過酷な国やそれほど興味のない国に敢えて行くような「自傷的旅行」をわざわざしなくても素晴らしいものに出会えること、自分の興味と関心のみに従って訪れる国を決めることが最良であることを再認識させられた。他者との比較は不幸の始まりであり、他人と旅の過酷さを競うことには何の意味もない。今回のマダガスカル訪問で、自分の旅行の原点にようやく立ち返ることができたような気がする。

ここ数年は幸運にも機会に恵まれ、それなりの数の国を旅行することができた。もちろんエチオピアのように、不運にも情勢不安から訪れることのできない国もあったけれども。振り返れば、大変だったけど深く心に残った国もあったし、綺麗だけど心にはそれほど響かない国もあった。辛いばかりで早く帰りたい国もあった。だけどマダガスカルの旅行は、それのいずれでもない。文章を書きながら思い出されたのは、旅行全体にわたって自分が感じていた充実感である。その充実感はどこから来るのだろうか?景色の美しさだろうか。自然の美しさだろうか。それとも人々の心の輝き?

海外旅行というのは人生という短い「旅」の1ページに過ぎない。その1ページを少しでも豊かにしたいと思って時間を取って色々な場所に出向くわけだけど、そこで本当に素晴らしいものに出会えるかどうかというのは結局のところ運である。さらに、素晴らしいものに出会っていたとしても自分の精神状態や境遇、体調などによって受け取り方は当然変わってくるわけで、素晴らしいものに出会い、さらにその素晴らしいものを素晴らしいものとして受け取るのは、たくさんのパズルのピースの中から偶然隣り合うものを見つけるようなものだ。本当に旅行というものは一期一会なんだなと思う。そして偶然に隣り合うパズルのピースを見つけたときにこそ、大きな喜びが得られるのだと思う。

話はすこしずれるが、かつて「ウユニ塩湖を見れば世界が変わる」と信じてウユニ塩湖を訪れたけれども結局何も変わらなかった、などと嘆く女性の随筆を読んだことがある(下記リンク参照)。「ハイここに来れば皆様の人生が変わりますよー」と人々が異口同音に形容するような場所は既に、「感動を量産するために用意された装置」すぎなくなってしまっているのではないだろうか。それは既に他人に用意されたパズルの完成品のようである。

自分が予想していなかったところに予想をはるかに超えた素晴らしいものに出会うからこそ海外旅行は人生を変えうるということは、裏返せば「感動を量産するための舞台装置」に半ば流されるような形で行き着いても、ただ景色が綺麗という以上の感動がもたらされないのは当然のことのように思われる。異国の地に飛び込んでみるときは、口を開けて感動が放り込まれるのを待っている鵞鳥のようではなく、小さな輝きにも気づくことができるように感性を研ぎ澄ましていなければいけないし、だからといって都合よく感動がふってくるわけではないのだ。

diamond.jp

マダガスカルで見た景色は、きっと永遠に忘れないだろうと思うほど素晴らしいものの連続だった。それはどういう形なのかはまだはっきりわからないが、自分の心の価値判断システムのどこかを確実に書き換えたという実感がある。

これほど充実感で胸がいっぱいになるような旅行は、しようと思ってできるものではない。たまたま素晴らしいガイドとドライバーに恵まれ、たまたま素晴らしいタイミングに居るべき場所に居て、たまたま素晴らしい宿ばかりを(一部例外もあるかもしれないが。笑。)引き当てることができたからかもしれない。エチオピア航空で出会ったエチオピア文化の素晴らしさの片鱗も、その経験に彩りを添えているのかもしれない。しかしなによりも、マダガスカルで出会った自然、そしてそれとその中で素朴に生活を送る人々の織りなす光景が、本当に素晴らしかった。同時にまた、見たこともないような美しい景色が次々と展開する様子に、「私はいったい世界の何を知っているのだろうか?」と思わされたし、自分という人間の小ささを実感させられた。

マダガスカルの人々の心から感じたのは、インド亜大陸のような濁った混沌ではなく、メキシコで感じた清冽な水のようでもなく、まさにエメラルドグリーンに輝く手付かずの海のような透明度と輝きである。

本当の豊かさとはいったい何なのだろうか。企業をただ大きくし、飽くなき利潤を追い求め、得た大金で豪奢な人生を送ることが豊かさなのか。グローバル金融企業で、魂を擦り減らしながら大金を稼ぎ、自分のキャリアとやらを彩るのは豊かさなのか。社会に適応し、一週間程度の短い休みしか取らずに仕事に没頭する人生は本当に豊かなのか。カネを増やすことばかりに執心し、株価に一喜一憂する人生は本当に豊かなのか。SNSでどこの馬の骨かもわからぬ無数の人間の顔色を窺ったり、極端な言論に走って人々の注目を集める生き方は豊かだというのだろうか。

この問いは、私が今までの海外旅行に通底するひとつの大きなテーマでありつづけてきた。その中で私が出した結論は、今までの記事を読まれた読者の方々にはもうお分かりだろうと思う。それは海のキレイさを金儲けの道具にした巨大なリゾートホテルの立ち並ぶハワイの海岸より、手つかずの自然が残るエメラルドグリーンのマダガスカルの海岸の方がずっと美しいのと、全く同じようなことである。

マダガスカル旅行記はこれで擱筆となるが、私の人生という旅路はまだまだ続く。この旅行はその中の素晴らしき1ページであり、どれほど記憶が薄れても、それは旅のお供のザックに括りつけたお守りのように記憶の蓋を紐解くたびに思い出すことだろう。それこそ、今まで訪れた他の国の記憶と同じように。しかし、過去を振り返り回想に耽溺するのは私にはまだ早すぎる。この先にはまだ予想もしないような、素晴らしいものが待っているかもしれない。その素晴らしきものに出会った時に、素晴らしさが感じ取れるような感性を失っていないようにするために、太平洋の荒波に聳える孀婦岩のように、この身が尽きるまで現実に対峙し続ける所存である。

7/7

AMアンタナナリボ観光

マーケット

女王宮とその周辺

午後に空港へ移動

ET852 1450TNR 1930ADD

ET672 2235ADD 2005NRT

早いもので、本日はもうマダガスカル観光最終日となる。

最終日の今日は、アンタナナリボ市内を簡単に車で回ったのち、女王宮を観光する。

朝食は食堂の外のテラスで。朝の日差しがとても心地よい中、ゆったりと食事をしながら時間を過ごす。コックがスクランブルエッグを持って来てくれた。

朝の食堂にて

荷物をまとめて出発。

ドライバーZさんは昨日まででお別れとなり、本日は別の若手ドライバーである。ホテルを出て市街地を通り抜け、丘を下る。丘を下りきると別の高い丘に家やビルが立ち並んでいる光景が見られ、圧巻だ。アンタナナリボは非常に起伏の多い地形。最近はロープウェイの建設計画もあるという。

アンタナナリボは起伏の多い都市

混雑するマーケットもスリが多いとのことで徒歩の観光を許されず、車での通過となる。確かにスリはそれなりにいそうだが、南米のスラムに比べればよほど治安はよさそうである。少なくとも命の危険を感じるような雰囲気ではなく、肌感覚としてはサンティアゴのセントロくらいだろうか。マーケットの周囲には中国人街などもあるそうだ。

活気のあるマーケット

マーケット周辺の風景

しばらくは平地を走る。平地にはアンタナナリボの鉄道駅や市庁舎などがあり、中央通りには噴水がみられる。再び丘の方に方向を変え、女王宮の方へ向かう。

駅(左)と市庁舎(右)

屏風を立てたように丘に家々が並ぶ

途中に展望台があり、アンタナナリボの市街の様子が一望のもとだ。

展望台より

展望台から車ですぐのところに、女王宮がある。女王宮は9時半からの開館ということで時間が少し余ったため、少し周囲を散歩することになった。

この丘はかつてのメリナ王国の中心であり、ギリシア風の裁判所の建物や西欧とマダガスカル様式を折衷したような、美しい建物が並んでいる。片方はかなり高低差のある崖のようになっており、崖にへばりつくように建つたくさんの家が見える。

女王宮も開館したようなので女王宮に入る。欧米人団体観光客が多くみられた。

女王宮へ入館

フランスの凱旋門風の門をくぐると、パリによくある青屋根と石造りの様式と、マダガスカルの中央高地様式を折衷したような、ユニークな建物が現れた。この建物は1995年の火事によってほとんど焼けてしまい、外観を残して建て直されたため、建物の内部に建設当時のものはなく、博物館となっている。女王宮の横には宝物殿(こちらも木造であったため火事の際に全焼し、再建された)とかつての王族の墓である小さい建物が二つ(こちらは一部オリジナルが残っている)がある。

女王宮と宝物殿、そして歴代の王族の墓。どこか東南アジア風の建築だ

まずは女王宮の内部へ。

内部の博物館は内部撮影禁止であったが、1階はメリナ王国より前の時代の歴史と主要18部族についての展示、2階にはメリナ王国の歴史やメリナ王国建国から歴代9代の王の概略とその遺品が展示されていた。メリナ王国は1896年、ラナヴァルナ3世の治世においてフランスの手に落ち、その後フランスの植民地として60年間支配を受ける。その後フランスから独立し今に至るわけであるが、言語から食文化まで、フランスの影響は色濃い。食文化については今までの記事をご覧になった方ならすぐに理解いただけると思うし、たとえばマダガスカルの言語であるマラガシはオーストロネシア系の言語だが、数字は完全にフランス語のそれと同じである。

女王宮より外を眺める

女王宮を出て右手の展望のよいテラスを行くと、王の居室がある。こちらも残念ながら焼失し再建したものだが、アンブヒマンガの丘にはこれと同じ様式のものがオリジナルの状態で残っているらしい。時間があればアンブヒマンガの丘も訪れるとメリナ王国の歴史に対する考察をより深めることができるだろう。テラスからはアンタナナリボの素晴らしい景色が見えるが、女王宮のテラスの直下には大変庶民的な地元住民の生活があり、宮殿の立派さとの対比がすさまじい。

王の居室の近くにはキリスト教布教を記念する碑が残っており、西欧の宗教がマダガスカルを飲み込んでいく記録として興味深い。尤も現在でもマダガスカルではそれなりの割合の人間が伝統宗教に基づく儀式の実践とキリスト教を習合させているそう。

女王宮の裏手にはキリスト教の教会も残っていた。

女王宮に行く前にトイレに行くが、ここではどういうわけか掃除のおばさんにチップを要求された。入館料を払わせておきながらチップを徴収するとはいい根性してるな。女王宮を出ると、土産物売りの人々が群がってきて、例の"Sir... Good price..."のセリフの海である。残念ながら不要と伝えると彼らは去っていった。カテドラルなどの並ぶ急な坂道を一気に下っていく。あとはもう空港に行くのみである。

あとは空港へ向かうのみ

しばらく掘っ立て小屋のようなスラムや畑の広がる平地を行くと、20分ほどで空港に到着した。ドライバーにチップを渡し、空港の内部へ。

空港に到着

ガイドのJさんが最後までついてきてくれた。Jさんはとても落ち着いた人で、対応も臨機応変であり、かつ適度な距離感もありとても快適な旅行となった。スルーガイドの旅は本当にガイドガチャの要素が強いのだが、今回の旅が素晴らしいものとなったのは間違いなく彼のおかげである。チップを渡し、別れを告げる。出国カードを書いたのち荷物を預け、出国審査を終えて空港に入る。

お土産ショップは思った以上に内容に乏しく、食べ物の他にはあまりまともそうなものがない。バオバブの木彫りが唯一お土産になりそうだったので、家族用のお土産に1つ購入した。7€で、クレジットカードが使えた。

空港内部。清潔感があるが、お土産屋は内容に乏しい

リクライニングチェアで時間をつぶし、2時間ほどで飛行機の搭乗案内である。いよいよマダガスカルの地を離れる時がやってきた。

いよいよマダガスカルとはお別れ

飛行機は行きの飛行機よりも小ぶりで、ビジネスクラスは2x2の配列でフルフラットにはならないタイプであった。食事も行きと違って、インジェラは出ないようだ。飛行機は離陸し、起伏のある赤茶けた大地が少しずつ遠くになっていく。数十分ほどでマダガスカル島の海岸線が見えてきた。さようなら、また逢う日まで

さようなら

食事を終え、ウトウトしていると5時間半のフライトはあっという間で、ほどなくしてアディスアベバの空港に予定より少し早く滑り込んだ。

夕暮れのアディスアベバ市街

成田便は行きと同じ、カオスなBゲートからの出発である。バスで飛行機まで行き、そこから飛行機に乗り込む。ビジネスクラスは行きの飛行機よりも足元が広く助かったが、隣が空いていてうれしいと思っていたのも束の間で、一部の席のリクライニングが壊れていたそうで、太った黒人のおばさんが隣に座ってきた。

成田便に乗り込む

途中、ふと目が覚めて窓の外を見てみると、ちょうどカラコルム山脈をこえた頃で、規則正しい畝のように立ち並ぶ白い山脈が見えた。そういえば4月末にはカラコルム山脈の山襞の中の町、フンザを訪れたのだった。パキスタンの旅行は、思い返すと本当に大変だった。それに比べると今回のマダガスカル旅行は大きく体調を崩したり、下痢にかかることなく旅程を終えることができた。やはり体調が良いこと、健康であることは旅行を楽しむための絶対条件だと思う。

窓から見えたカラコルム山脈

アディスアベバからソウルまでのフライトは長丁場で、14時間ほどのフライトだったようだが、風の都合か1時間以上早くソウルに到着。そこから行きと同様、いったん降機して荷物検査を通り、もう一度飛行機に乗り込んだ。隣には再び例の黒人のおばさんが。「また会ったわね!」と言われた。ガーナからやってきたそうである。ビジネスクラスに乗るガーナ人とは、地元ではたいそうな金持ちに違いない。2時間ほどのフライトで成田に到着。

荷物を回収し、夜遅いスカイライナーに乗り込んだ。

日本に帰還

7/6

朝5時ごろフィアナランツァ出発

フィアナランツァ~アンブシチャ~アンツィラベ

アンツィラベにて昼食

アンツィラベ~アンタナナリボ

La Varangue泊

本日は早朝に出発し、山岳地帯のワインディングロードが連続する長い道をアンブシチャ、アンツィラベと抜けていく。アンツィラベにて昼食。アンツィラベからアンタナナリボまでは初日に通った道と逆向きの道だ。

4時には起床。準備して部屋を出る。

外はまだ暗いが、ポーターが迎えに来て荷物を車まで運んでくれた。早朝からありがとうございます。車に乗り込むと、まだ明かりのまばらなフィアナランツァの町をゆっくり過ぎていく。まばらだが、既に街を歩く人がいる。

朝があまりにも早かったので、車の後部座席でしばらくウトウトしていた。カーブに揺られる道が続いていたようだ。目が覚めると夜が明け始めており、朝霧に包まれた森の景色が見えた。時折山の斜面に集落が点在する景色が見える。

夜明け(光量が足りない中の流し撮りで、ピンボケ)

路面の悪い道をゆっくり走り、雲海の盆地を見ながら峠を越え、高原状のしっとりした景色を通り抜ける… というすばらしい景色が連続する。しばらくすると夜が明けて、朝日が山並みを照らし始めた。ところどころにすばらしい棚田が眼下に広がる。車を止めてもらい、しばし写真を撮る。冷え切った朝の風で手がかじかむが、張り詰めた清潔感のある山の朝の空気は、なかなか文章にはしがたいものだ。

盆地を朝霧が覆う

尾根の上に道がつけられており、ところどころにドラマチックな景色が展開する。少しずづ日が昇ってきて、朝霧をスクリーンに山の木々や家々の影が斜めに投影される様は今まで見たことがないような、素晴らしい景色だ。こんなに美しい景色がまだ世界にはたくさんあるのかと、驚きと感動の連続である。

しばらく走ると、車は山上の集落でしばし休憩。ドライバーとガイドが近くの店で朝食をとってくるという。すこし集落を散歩してみる。まだ朝早いが、水汲みをする人、井戸端会議をする人など、人々の生活が垣間見える。店の前ではキャッサバが天日干しされている光景がみられた。車の近くでは鶏がひなを連れて歩いている。

キャッサバを干していた

ドライバーとガイドが戻ってきて、再び車は出発した。

美しい景色が連続する道をいくが、日が昇るにつれて次第に朝霧が晴れてきて、霧に隠れていた四角い家々からなる村落や段々畑、棚田が姿を現した。なお中央高地でふつうにみられるこれらの家は3階建てで、1階は応接間、2階は寝室、3階は調理場となっているそう。写真を振り返ると家からモクモク煙が出ているものがあるかと思うが、それは朝ごはんの準備の煙である。景色の良い道では、道端で木彫りや帽子を売る光景がみられる。

さらにもう一つ峠を越えると、そちらはまだ朝霧で包まれた景色。道を下っていくと、山の斜面にアンブシチャの町が現れた(traはそり舌破裂音で、ちょうどトラとチャの中間のような発音である。トルコ語の名詞複数形-lar/-lerのrに現れる発音に近い)。

アンブシチャの町

アンブシチャの町では、この町から数十キロ程度離れたザフィマニリ村伝統の木彫りを売るブティックがいくらかある。今回は実際にその工程を見学する。

アンブシチャ市街の様子

木彫りと言っても木彫りと木象嵌があり、それぞれに専門の職人がいる。まずは木象嵌の職人の制作のようすを見学。

この職人の老年男性は40年以上木彫りに従事しているという。使っている工具はいずれも自作したもの。のこぎりの刃すら金属ワイヤーを加工して自作しているというから驚きである。老年ということもあるのだろうか、ゆっくりで力強さはないが、無駄のない手つきで綺麗に木をのこぎりで切っていく。ハート形に穴をあけた木板に、別の色のハート形に切った木板がぴったりとはまり、その熟練の技には舌を巻いた。この職人のおじいさんはデモ用に作ったというこの象嵌を私にくれた。ありがとうございます。

この道40年のおじいさん。工具がすべて手作りというから驚き

次に木彫りの様子を見学する。

こちらでは木の塊から独特のアフリカンな意匠の彫刻を削り出していく様子が垣間見える。黒檀や紫檀、ローズウッド(Palissandre)など、耐久性の高い木材を使用する。日本で見るそれとはかけ離れた独特の美的感覚から生み出される彫刻が印象的だ。

最後にブティックにてお買い物。

所せましと美しい彫刻が並べられいる。今回私はザフィマニリ村の木彫りとしては典型的な木箱をふたつ購入した。最初は11万アリアリといっていた店主のおばさんであるが、フランス語で交渉し、価格交渉の末8万5千アリアリ迄下がった。尤も本当はもっと安いのかもしれないけど、まあ仕方あるまい。日本円に換算すると3000円にも満たないし、この地でしか手に入らない素敵なお土産ということで満足である(実際、空港のおみやげ売り場には売っていなかった)。

ブティックを出るころには朝霧はすっかり晴れ、青空が広がっていた。車に戻り、アンツィラベへ出発。

アンブシチャからアンツィラベの道は基本的に谷あいを走っていくためフィアナランツァからアンツィラベほどの険しさ、景色のダイナミックさはない。比較的穏やかな谷底を走っていくと広い盆地に出た。アンツィラベに到着である。初日は日が暮れたころに到着したためよくわからなかったが、アンツィラベの位置する盆地は広く、マダガスカルの中では都会的な雰囲気が印象的だ。初日に泊まったホテルの前を通ったが、思ったより開けた場所にあったのが少し意外だった。

本日の昼食は町の中ほどにある天井の高く都会的な雰囲気のレストランで。スタッフはパンクな雰囲気の服を着ており、奥では生演奏が行われている。今回はミサウという焼きそばのような食べ物を注文。上に目玉焼きの乗ったシンプルな料理だが、なかなかおいしい。25000アリアリ。

アンツィラベのレストランにて

アンツィラベからは初日に通った道のはずだが、明るい日差しの中を通っていくということもあり、初日とは違った印象を受けた。もちろん、マダガスカルという国について何も知らない状態であまりの情報量に頭が追い付かず、必死に窓に縋り付いていた初日と違ってある程度この国の風景に目が慣れてきて、細かいところに気付く余裕ができてきたということもあるのだろう。美しい棚田が随所に広がる景色だ。

こちらは食用ウサギとインコを売る謎のブティック

峠を二つほどこえると次第に町並みがゴチャゴチャして、道が渋滞してくる。広いアンタナナリボの盆地の端に出ることには、日がだいぶ傾いていた。アヌシ湖のほとりを通り、小高い丘を登っていくと、マダガスカル旅行最後の宿、La Varangueに到着した。

アヌシ湖。ホテルはすぐ

La Varangueはフランス人オーナーの趣味がちりばめられており、調度品は彼のコレクションなのだろう。いかにもフランス人らしい少しキッチュで装飾的な、それでいて決して悪趣味ではない、絶妙なセンスが発揮されている。あまり日本人が宿泊することはないようだが、個人的にはこういう宿、かなり好き。ウェルカムドリンクはオレンジとパッションフルーツのミックスジュースで、とてもおいしかった。

La Varangueは調度品がセンス良くまとめられている

部屋で少し休む。部屋からはホテルの庭と、その向こうには谷を挟んで別の丘に並ぶ町並みが印象的だ。少し蚊が多いが、例のおすだけベープをばらまくと、1時間もしないうちに居室で4匹、バスルームで4匹の蚊の亡骸が確認された。うーん強力。

客室の雰囲気。窓からは庭が見える

夕食はホテルのレストランにて。

レストランは青緑色に塗られた塗装とそれに合わせたようなレトロな調度品が素晴らしい。メニューが多すぎてどう選べばいいのかわからず、スタッフに聞いてもいまいちよくわからなかったので何度も確認した。予約がdemi-pension(2食付き)であれば、合計で16万アリアリをこえなければ別料金は払わなくていいらしい(随分気前がいい!)。飲み物は別料金だが、こちらは若干割高だ(Laguna Blueでは7000アリアリであったTHBのビールが11000アリアリ程度だった)。結局豚肉料理6万アリアリとデザートにはレモンタルト3万5千アリアリ分を注文した。料理を待っているとおそらく大使館員と思われる体格の良いイスラム系黒人やお高く留まった雰囲気のフランス人など、随分とハイソな人々で席が埋まっていく。このホテルの近くには大統領官邸や銀行、大使館などが多い。そういう社会的地位の高い人に人気なレストラン、ということらしい。途中からやかましい中国人が何組かレストランに来たが、彼らは全員が蚊の祝福を求めて屋外に出て行ったので静かな食事を楽しめた。

食事は美味

6万アリアリも出すとこの地ではかなりの量の食べ物を食べることができるということのようだが、太りそうで若干心配なレベルだ。しかし量はさておき、味付けのレベルは非常に高い。これは舌の肥えたdemandingな在外公館の人間を満足させるには十分だろう。デザートもおいしくいただき、部屋に戻る。

長かった旅程も本日がマダガスカルで最後の夜と思うと、なかなか感慨深い。

明日は女王宮を観光し、その後イヴァト国際空港へ。いよいよ旅も終わり、アディスアベバを経由して日本へ帰国する。

おやすみなさい

8時ごろ出発

ラヌヒラ→アンバラヴァウ→フィアナランツァ

アンバラヴァウにて昼食

フィアナランツァ観光

Tsara Guest House泊

本日は2泊したイサロ国立公園を出て、マダガスカル中部の都市フィアナランツァに向かう。

フィアナランツァは標高1200m程度の中央高地に位置する土地で、メリナ王国を築いた部族に近いべツィレウ人が住んでいる。起伏に富む町と教会や中央高地様式の伝統的な建物が織りなす景色が印象的な町だ。

朝食は昨日とほぼ同じ。ゆっくり食事を済ませて支度をし、二日お世話になったRelais de la Reineを出る。庭への扉を開けて外を歩くと、やわらかな光でイサロの荒々しい砂岩の模様が浮かび上がっていた。車に乗り込み、8時にはホテルを出発。

朝のホテル

しばらくはステップをいくが、次第に道はワインディングロードとなり、山脈をこえていく。山脈を上り切ったところからは美しい山襞と、盆地状の土地には朝霧がかかる市街地が見えている。イフシの町だ。

イフシの町が見えている

山をこえたあたりから谷間に水田が見えてくる。建物の様式も西海岸近くでよく見られる平屋からレンガを使った二階建てや三階建ての建物が増えてきた。

イフシへ下っていく

谷間に整然と作られた棚田は、中央高地の文化圏に少しずつ入りつつあることを実感させる。しばらく走るとイフシの町に到着。この町ではトゥクトゥクは自転車ではなくガソリン駆動である。この地域の方が海岸沿いよりも豊かということらしい。

イフシ

イフシを過ぎると相変わらずステップの荒涼とした景色が広がる。しばらくいくとサザンクロス街道でよく取り上げられる”Bonnet de Pape”という帽子型の岩山が現れる。花崗岩でできているそうだ。この近くで何回かフォトストップし、写真を撮った。

Bonnet de Pape

相変わらずステップのような景色に時折花崗岩の岩山が剥き出しの荒々しい山々が見える景観が続く。名前はついていないが(ついているだけで知らないだけかもしれないが)Bonnet de Papeよりも大きな存在感を放つ花崗岩の山があちこちにみられる。

二つの尖峰を持つ特徴的な山は「門番」とよばれ、西海岸地域と中央高原地域を分けるランドマークとなっているそうだ。

「門番」とよばれる山。海岸地帯と中央高地を分けるランドマーク

民族的にはここをこえるとフィアナランツァを中心として中央高地に住む民族、ベツィレウ族が住んでいるそうだ。確かにこの尖峰をこえたあたりから平屋の建物は少なくなり、明らかにレンガづくり2-3階建ての建物が優勢になってきた。文化圏が変わったことを実感する。岩山の麓にまだ水の少ない水田が広がり、放牧されたコブウシが草をはむ景色が続く。

素晴らしい景色

しばらく走るとアンバラヴァウに到着した。趣のある家々が並ぶ、雰囲気の良い町だ。

アンバラヴァウ

このアンバラヴァウにあるホテルで休憩。このホテルはたくさんの植物が植えられ、落ち着いた雰囲気。レストランと紙漉き工房が併設されている。まずは昼食をオーダーし、出来上がりを待っている間にアンタイムル紙漉き工房を簡単に見学する。レストランは内壁を青く塗られた、おしゃれな雰囲気。料理は33000アリアリのゼブ牛の牛タン料理を選択した。

この地域での製紙技術はアラブ地域から持ち込まれたものらしい。Avohaというマメ科の植物の樹皮を採取して乾燥させ、それを煮てほぐし、叩いて伸ばして紙にしていく。他にフランス人の観光客がおり、現地のおばさんが説明してくれた。最後に色鮮やかな押花をして天日干しし、完成。

近くにある小屋では、アンタイムル紙の販売などもされていた。

アンタイムル紙の販売もしている

レストランに戻り、しばらくすると料理が出てきた。料理はセンス良く盛り付けされており、値段相応のおいしさだが、量が多い。若干車酔いが心配になる量だ。

さて、見学が終わると、いよいよアンバラヴァウを出発。町並みは素晴らしく、できれば1日ここに滞在したいところだった。ガイドブックには大きく取り上げられておらず、事前に情報を多く仕入れることができなかったのが心残りである。アンバラヴァウは他にRum arrangéという地元のフルーツなどを漬け込んで作った酒が有名らしく、郊外では酒を販売するブティックが点在している。この近くにはワイン畑などもある。

Rum arrangéを売るブティック。近くにはワイン畑も

アンバラヴァウを出ると再びワインディングロードとなり、ぐんぐん標高を上げていく。ワインディングロードを振り返ると盆地状になった赤い土壌と点在する緑が印象的な景色だ。坂道を喘ぎながらゆっくり登るトラックにペースを下げられながら峠を上り切る。峠からはアンバラヴァウのある盆地が綺麗に見えた。峠の頂上には記念碑があるが、これは独立戦争の際に犠牲になったフランス兵のものだそうだ。

アンバラヴァウ方面を振り返る。素晴らしい景色

峠を越えると、ほぼ北に向かって一直線に伸びる谷に沿って走る。峠をこえたあたりから緑がいっそう増え、いかにも中央高地らしい景色。素晴らしく発達した棚田は圧巻で、そこで草をはむコブウシの様子はとても絵になる光景だ。

素晴らしい棚田の光景

棚田と言えば日本でも能登半島や北山村など棚田が有名な場所はあるが、日本では農業の衰退もあり、棚田全体としては消滅の道を辿っていると言わざるを得ない。もちろん耕作機械が入りにくく全て手作業にならざるを得ないため、近代化された農業では効率が悪いということもあるのだろう。ここマダガスカルの棚田は日本のそれとは比較にならないほどに圧倒的な規模だが、おそらく高い出生率とそれによる生産年齢人口の多さ、そして農業機械にほとんど頼らない伝統的な方法によって、この景観は維持されているのだろうと思われる。世界遺産になっていても何の驚きもないような素晴らしい光景だが、これがマダガスカルの日常なのだろうか。この国には素晴らしいものがあまりにも当たり前にありすぎて、その価値が逆に正しく評価されていない感じがする。

谷あいの道をほぼ一直線に北上すると、次第に家が増えてくる。フィアナランツァの一角だ。検問を通り過ぎると、すぐにフィアナランツァの市街へ。

フィアナランツァの一角が見えてきた

フィアナランツァの市街は山々の上に作られたハイタイウンと鉄道駅などがあるダウンタウンに大きく分かれ、それぞれ雰囲気も違う。まずはハイタウンから観光。元々車で市街を回る予定だったそうだが、フィアナランツァを歩いて回ることを楽しみにしていたのでガイドに伝え、ハイタウンは徒歩での観光とさせてもらった。このあたりは何もしないと私自身が旅行で大事にしているものとガイド側で考えが食い違いやすい。おそらく多くの観光客はスポット的にみどころだけおさえればそれで満足するのだろうけど、特に都市の観光では点と点の間こそが重要だ。

ハイタウンは落ち着いた家並みが印象的だ

まずは町はずれの展望台へ向かう。なだらかな上り坂では子供が手作りのローラースケートのような道具に乗って坂を駆け降りて遊んでいる。地元の人々が歩く中1キロほど歩くと展望台に出た。ここからはフィアナランツァの市街が一望のもと。展望台には絵葉書を売る子供が。「Sir! Good price!」というお決まりのセリフである。でも写真を撮るというと元気にポーズをとってくれる。

車でカテドラルのあるハイタウンの中心地に戻り、ここからは徒歩で散歩してみる。

この辺りには学校があるらしく、子供たちが元気に走り回っている。子供達からは”Tu t’appelle comment?”とか”Bonbon!”とか、相変わらず元気である。

適当に道を選んで上り坂を登っていると、対岸の山にはカテドラルや伝統的な様式のマダガスカルの家々が並ぶ、美しい景色が現れる。この町の特にハイタウンは雰囲気もよい。本当は1日とって市街観光に充てたかった感じだ(計画を立てる段階で現地会社にフィアナランツァはちゃんと時間を取って観光したいという自分の意思を伝えたところ、「フィアナランツァには見どころはありませんけど?」みたいな対応だった。しかしマダガスカルの人々の素朴な生活に触れることこそが、サザンクロス街道を訪れる理由である。どうも現地旅行会社の人自体がマダガスカルの本当の魅力に気づいてないのではないかと思わされる)。

赤茶けた町並みが美しい

車で簡単にダウンタウンを回ってみる。起伏のある町なので、道の向こうには家の並ぶ山々が見えたりして、景色が素晴らしい。ダウンタウンには市場や鉄道駅、スタジアムなどがある。鉄道駅では週に何便か海岸地帯を結ぶ旅客列車が走っており、フランス人観光客に人気らしい。

フィアナランツァ鉄道駅

本日の宿、Tsara Guest Houseはハイタウンの近くにある。よく手入れされた古い洋館といった感じのとても雰囲気の良い宿で、庭にはタビビトノキやサンカクヤシなど、マダガスカル固有の植物がたくさん植えられている。受付のおばさんはノリノリな感じで楽しそうだった。ウェルカムドリンクはパッションフルーツジュース。元気になる味だ。部屋は広々としており、窓からは山の斜面に発達した市街地と、谷あいにある水田の景色が印象的だった。

Tsara Guest House外観は古い洋館といった趣

夕食はゼブ牛のステーキがメイン。飲み物にはpoc-poc(ホオズキのことらしい)のRum arrangéを注文した。とても美味しいのだが、昼間の牛タン料理のせいでまだ胃がもたれており食べ切ることはできず、残してしまった。途中からレストランに来ていたフランス人の団体が、自分の後方でにぎやかに飲み会をやっていた。この地に住むフランス人だろうか。

夕食

明日はアンタナナリボまで400kmほどの距離。距離としてはアンツィラベ〜ムルンダバよりも短いものの、ワインディングロードが連続しており道も悪く、時間がかかるそうなので、朝5時には出発するとのことであった。

おやすみなさい

7/4

終日イサロ国立公園トレッキング

AM:piscine naturelleなど

PM:キツネザル生息地、滝など

Relais de la Reine泊

本日は終日イサロ国立公園トレッキングである。

イサロ国立公園の紹介は昨日の記事にゆずるが、簡単にまとめると砂岩が侵食を受けた地形と特有の動植物で知られた国立公園である。バオバブ並木やツィンギーと比較すれば比較的無名な存在だが、それだけに静かな行程を楽しめる。

本日の朝食は6時半から。焼きたてのパンや新鮮なフルーツをいただく。

フルーツたっぷりの朝食

準備をして7時半に出発。

途中には人の形をした岩があり、こちらは自然にできたもののようである。ここでフォトストップとなるが、最近この岩の裏側に落書きをした不届きものがいるらしい。なんでも「顔」に相当する部分に顔の落書きがあるのだとか。この国で出会う観光客の植民地支配者然とした横柄なふるまいを目にしてきたこともあり、さもありなんと妙に納得してしまう。自らの愚かさを露呈しないよう、どのような場所に赴いても謙虚さと理性を持っていたいものだ。

人の形をした奇岩はフォトストップだが、裏面に落書きがある

イサロ国立公園に入るためには、まずは近くにあるラヌヒラの町に赴き所定の料金を払い、ガイドをつけなければいけない。すでにガイドがいるので、二人のガイドの解説を聞きながら公園を散策することになる。まだ朝早いラヌヒラの町で、ガイドが入園手続きを済ませてくれた。

朝のラヌヒラの町。ここで受付を済ませ、代金を払う

本日の公園ガイドは、なかなかノリの良いアフリカ系のおじさん。フランス語で話しかけてきた。フランス語は勉強時間の割にいまいち話せない(話す練習をしていないので当然だが…)のをなんとかしたいと思っていたので、フランス語でガイドをお願いしたところ快く引き受けてくれた(後から考えると英語は話せずフランス語のみだったのかもしれないが、まあいい)。

ラヌヒラの町から10-15分ほど車を走らせると、次第に砂岩からなるモニュメントバレーもしくはテーブルマウンテンのような格好をした山塊が近づいてくる。

小さな川をこえてトレッキングコース入口へ

大きな岩山の麓で、車は止まった。ここでトイレを済ませ、午前中の半日トレッキングへ向かう。

午前中のトレッキングコース入口

まずは坂を登っていく。道端に生えているシダのような葉をもつ植物はマメのさやのような実をつけている。とても牧歌的な見た目だが、この豆のさやに触ると強烈にかぶれるので触らないようにと注意された。谷あいに沿って少しずつ標高を上げていくが、道端にはモウセンゴケも見られる。図鑑で見て知ってはいたが、実物を見たのは初めてだった。

かぶれる植物(左)とモウセンゴケ(右)。日本で食虫植物を目にする機会は少ない

公園ガイドは対岸を指差した。白いキツネザル、ベローシファカであるが、私は目が悪いので視認できない。じっと目を凝らすと僅かに白い動物が動いているのが見えたが、携帯のカメラの性能では写真に撮るのは無理だった。

対岸にベローシファカがいたらしいが… 崖の上に亀の形をした岩

もう少し登ると展望台に出る。ここで再び公園ガイドは対岸を指した。「あれですか」と私が指をさすと、指をさすのは(先祖に対して)失礼なのでしてはいけない、と注意される。対岸の岩には窪みが設けられている。今いる展望台の右手にも岩小屋のような窪みがある。現地の人は亡くなった人を埋葬する際、まずはこの岩小屋のような窪みに遺体を数年間置き、その後に対岸にある岩の窪みに遺体を移すそうだ。対岸の岩の窪みの方が空に近い位置にあるためという。おそらくこれは所謂ファマディハナという先祖崇拝の一部をなしているのだろう。この地の人々に根付く信仰の一部を垣間見る。

左の写真は仮の墓で、数年後に対岸の高い崖の下に葬られるそうだ

もう少し坂を登っていくとケルンの設置された広い平地に出た。

ここからはしばしなだらかな道をゆく。雫型の葉を持つ、実をつけた木はこの地におけるカイコガの一種の食草。このカイコガの繭は現地の人が糸として利用するそうだ。この木は現地の人はTapiaという。ガイドはこの木の実は食べごろになると地面に落ちるので、それを拾って食べるのだといっていた。あたりにはシロアリの巣(termitière)がたくさん見られる。

しばらく平坦な道。右はTapiaという植物

平坦な道をしばらく行くと木々がまばらになり、砂岩が顕になった場所に出た。

露岩の上には昨日も見かけたパキポディウム「ゾウの足(pied d'elephant)」がアロエと共に仲良く生えていた。この周辺には地味な葉っぱの細い低木がたくさん生えているが、この植物は雌雄異株で、イサロ国立公園の名前の元となった、現地人に「Isalo」と言われる植物らしい。

パキポディウム「Pied d'elephant」とイサロという植物(らしい)

展望台から写真をとったのち、ここからはバンド状になったところにつけられた遊歩道をいく。砂岩には美しい縞模様が露出している。木に絡みついている紐状のオレンジ色の植物は煮出して泡をシャンプーがわりに使うらしい。

右の写真、木に絡みついたオレンジ色の植物を煮てシャンプーに使うそうだ

あたりには小さな花が散見される(この花の名前もまた失念した。根っこが薬草として使われるらしい)。少しずつ道を下っていくと、公園ガイドが木の枝を指差した。「ここに何かいるのですがわかりますか?」

全く見つけられないと思いじっと枝を見てみると、なんとナナフシ(phasme)である。完全に枝に擬態しており、目が慣れてなければ気づくのは困難。お見事である。

ナナフシ。わかるだろうか

右手は谷になっており、谷の向こうには深く凹凸の刻まれた砂岩の山々を見ることができる。まるで別の惑星にでも来てしまったようだ、というセリフは既に使い古されているかもしれないが、ムルンベ周辺の有刺林とはまた違った荒々しい景観だ。

近くには地元住民の棺桶が安置されていた。棺桶には簡素な彫刻がなされており、コブウシの彫刻などもある。お金を入れる賽銭箱のようなものもあった。どこか日本の神社と共通するものがあるのだろうか。

道端に安置された先祖の棺

木の上にはアリの巣(fourmilière)が散見される。泥と唾液のみでできた白アリの巣とは違い、このアリの巣は泥や唾液と木の皮の断片からなり丈夫であるそうだ。

アリの巣

道を下っていくと、美しい滝壺を覗く岩盤の上に出た。この滝壺がpiscine naturelleである。(スルー)ガイドのJさん曰く「日本人はあまり泳ぐの好きじゃないみたいですよね。ヨーロッパ人はあそこで泳ぐんですよ。泳ぎますか?」と聞かれたので即答でNo。滝壺へ降りて、ここでしばし休憩。

Piscine naturelleの水は美しいエメラルドグリーンを呈している。水の流れをしばし目で追っていると、あとからヨーロッパ人団体観光客がやってきて、おもむろに滝壺の周りで着替え始めた。ヨーロッパ人は泳ぐのが好きらしい。そういえばオマーンのシンクホールでも泳いでたな、彼らは。

帰りはもと来た道をそのまま戻る。来た時とは多少日の向きが変わっているのみで、特段発見はない。と思っていると公園ガイドが石の下をひっくり返し始めた。どうやらサソリがいるらしい。サソリは夜行性で、昼間は涼しい石の下に隠れているらしい。最初に公園ガイドが発見したサソリは小さく写真に撮るのが難しかったが、次に発見したサソリは大きく立派だった。

毒がなければかわいいのだが

大きく開けた景色を下って、駐車場へ。いったんラヌヒラに戻り、公園ガイドといったん別れる。昼食後に再び合流するということのようだ。昼食はラヌヒラにあるレストランにて。団体客も入れそうな大きなレストランはがらんとしていた。ゼブ牛の肉の入ったチャーハン、16500アリアリを注文。

しばらくすると料理が出てきた。ゼブ牛に加えてズッキーニなどの入ったチャーハンはなかなかの美味。コストパフォーマンスはよい。

昼食

再びガイドに合流し、先ほどとは少し離れた公園入口に向かう。途中川をこえるが、淵になっているところでは人々が洗濯をする光景がみられる。これも一種のpiscine naturelleだな。公園入口では少年たちが泥でキツネザルの置物を作ったり、木の実を仕分けたりしていた。

こちらのルートも途中でいろいろ分岐しているが、基本的にはまずキツネザルの生息地を訪れたあと、午前中とは別の滝の滝へ向かうということらしい。

午後の強い日差しの中をゆく

午後の強い日差しの中しばらく歩くと、ほどなくしてキツネザル生息地に着いた。ここにはキャンプ場もある。ここではチャイロキツネザルに加えて、キリンディ保護区にはいなかったワオキツネザルも見ることができる。ツアーに参加していると思われる子供たちが遊んでいた。この生息地には管理事務所があり、ガイドが料金を払っていた。キャンプ場ということで当然自炊所もあるわけで、キツネザルは虎視眈々と食べ物を狙っている。

左がワオキツネザル

しばらくキツネザルの生態を眺めたのち、奥に進み滝へ。

しばらく明るい雰囲気の沢沿いを歩く。休憩を挟みながら歩いていくが、水面に目を凝らすとミズスマシがたくさん泳いで戯れている。記憶をたどってみるとミズスマシを日本の川で見たことが今までない。それほどまでにここの水はきれいなのだろうな。

沢沿いを歩いていく

開けた谷沿いを左手に、急な坂を登っていく。10分ほど急な坂を登りきると深い峡谷に出た。青々と水をたたえた淵の奥に、立派な滝が見える。ここの淵も泳げるらしいが、水がさきほどのpiscine naturelleと比較するとやや淀んでいるような気がするし、あまり日が入らないのでじめじめしているし、何より先ほどより明らかに水深がありそうだ。まあ水着なんて持って来ていないのでいいのだが、あまりここで泳ぐ気にはなれない。しかし地形が険しい分滝は美しく見えた。

美しい滝。淵は深く、青い水をたたえている

帰りは再びキツネザルの生息地を過ぎて、駐車場へ。

日も傾いてきた

再びラヌヒラの町へ戻り、ここで公園ガイドにチップを渡し、別れを告げる。スルーガイドのJさんには「今日もイサロの窓の夕焼けを見に行きますか?」と言われたが、本日はたくさん歩いたし、だんだん雲が増えてきて昨日の方が天気がよさそうだったので、部屋でゆっくり休むことにした。

ホテルの庭にいるカメ

本日の夕食はタコのサラダにイカのグリル、そしてデザートに焼きバナナとバナナのアイスを選択した。昨日の夕食が重すぎたため、今日はさっぱりしたものを食べようという算段。いずれの味付けも素晴らしかった。

夕食

甘みと酸味の効いたバナナのデザートを食べ、部屋に戻る。

イサロ国立公園は比較的観光客も少なく、少なくとも下馬評よりもダイナミックなトレッキングを楽しめた。観光地化していると思われるツィンギーより、こういうところの方が個人的には満足度が高いかもしれない。今滞在しているRelais de la Reineもとても良いホテルで、充実した滞在が楽しめていると思う。

明日はイサロ国立公園を離れ、サザンクロス街道を北上。

次第に標高を上げていき、アンバラヴァウを経由して中央高地の一角にある都市、フィアナランツァへ。フィアナランツァの市街観光をし、市内の宿に滞在する。

おやすみなさい