ぎゃらりー竹斎堂 (original) (raw)

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わたしとエキサイトブログとの過去と現在と…

10年ほど前、仕事の合間に撮りためた写真(昭和45年からのモノクロ・カラーフィルムが段ボール箱に数箱)をエキサイトブログに投稿しようと、写真ブログを始めた。数ある無料ブログサービスの中からエキサイトブログを選んだわけは、広告が少なく、写真に合いそうなホームページのデザインが、たくさん有ったからだ。「ところがどうでしょう!?」 設定のトラブルは増える。広告も増える。エキサイトブログから逃げ出すブロガーも増える一方。減ったのは私のホームページを訪問する数だけ~ ^^;

そんなこんなで、やる気もそがれ…ついに私も、ある日突然エキサイトの自分のホームページを全削除してしまった。これには友人たちも驚いたみたいで「どうしたの?」と聞かれることしきり。失敗したなあと思ったのは、二度と書けないであろう…あの思い入れのある文章のこと(記事のバックアップなんてしてへんし ―― 涙ながらに書いた記事も数知れず ―― 最近そんな記事を書いてないなあ )。いっときの気分で最悪の選択をしてしまったわけだ(それからワードプレスに三年、数年後にまたまた無料ブログが恋しくなり、性懲りもなくexブログを再開^^;)

10年前のあの頃…北陸の旅にハマり、20回にわたって石川県内の旅の報告をしたことが懐かしい。輪島で漆器を大量に購入したあの店は、今回の地震と火災で焼けてしまった。そして漸く大地震後に立ち直ろうとしていた総持寺までが、またもや今回の地震で以前にもまして大きな被害を受けたと報道で知った。そしてまたまた心が折れるような大水害。その時私は、どしゃ降りの雨の降る中を金沢駅に向って走っていた。まさかその時間、能登半島で大水害が起きていようとは つゆ知らずに…。

昔のブログで記憶にある記事は、「日本一の富豪村 ー 橋立」を紹介した記事だった。学校の宿題にでも出るのだろうか、ニ三日続けて訪問者が増えるということが、何回か続いた。下調べ(私にしては)も随分とした覚えがある。やはり内容の独創性と記事の分量、それにグ-グルのアレが関係するのだろう。
現代のブログは「軽薄短小」の記事かYouTubeのような見ていて面白い媒体が好まれるのだろう(だってみんな忙しそうにしているんだもの。TVはつまんないしね)。それともアレか? なんとかAIでつくったブログが一般的になるとか…それもいいだろうけど、どれも立派な内容ばかりになって つまんないんじゃないかなあ。

その頃のエキサイトブログの前向きの姿勢は現在よりもあったと思う。10年目という難しい時期だったのだろう。アンケート(好まなかったけど)なんかもよくしていたし、コンテストの賞金回数も金額も今よりはマシだった。さて、今はどうだろうか。運営会社側の姿勢は前向きかどうかをブロガーは見ている。運営は厳しいだろうな、と肌で(見て)感じる。フィッシングまがいの広告が増え、どんどんビジュアル面が貧しくなっていると感じる。経費も人員も減らされているんだろうなと思う。一ブロガーとして、これ以上螺旋状的に下降することがないように祈りたい。そのために私も協力を惜しまない(どうやって?)だろう。お願いだからあと十年(その頃は彼岸の国にいるはず)は頑張ってほしいというのが本音かなあ。

何はともあれ…こんな時代に20年続いているのは喜ばしい。早いとこ見切りをつけた企業もある中、この先どうにかしようと頑張っている姿がぼんやりと見えてきたことが、エキサイトブログを応援している一人として感激している。…ありがとう。

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鳳凰図 - 古九谷

ある科学者の青春
さてさて北陸出身の科学者にして随筆が巧い人物に中谷宇吉郎という人がいる。世間では寺田寅彦の弟子ということになっているけど、わたしは夏目漱石の孫弟子と呼んでいる。その人は科学者を目指す前は親の意向もあって、九谷焼の陶工になるはずだったが…

「私の家は田舎の温泉地で、呉服だの雑貨だのを売っていたのであるが、父が中年から九谷焼に凝り出し、庭にかまを造って、自分で九谷焼をやくという熱中ぶりであった。そして私を九谷の陶工にしようと思っていた。それで小学校を出たら、近くのK市の工業学校の窯業科に入れるつもりであった。私は中学校(旧制)の方を希望してしたのであるが、子供の頃から手工的なものが好きだったので、九谷の陶工になることも、そうきらいでもなかった。

それでもし父がずっと健在でいたら、今ごろ私は九谷の名工になっていたか、あるいは瀬戸物屋の番頭になっていたであろう。ところが小学校を卒業して一週間もたたぬうちに、父が病気で死んでしまった。それで急に工業学校は止して、近所の中学校の入学試験を受けることにした。」「中学校は型の如く、無事卒業した。その頃になると、一人で家業をやっていた母が、こんな商売をやってもさきの見込みがないから、ずっと大学までつづけたらよかろうといい出した。…あの頃の高等学校の入学試験は、七月にあった。それで三月の末に中学を出てから、家で商売のてつだいを少ししながら、受験勉強を始めた。しかし試験には見事に落第をした」

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その後いろいろあっただろうけれど雪の研究者(物理学者)として…随筆家としても著名な人となった、その方が北陸片山津出身の中谷宇吉郎である。後年中谷は「…ところでへぼ物理学者になるのと、九谷の名工になるのと、どちらがよかったかは分らないが、とにかく私が生涯物理学をやることになった第一の原因は、父が早く死んだからである。」といっている。小泉元首相の国会答弁ではないけれど…「人生いろいろ…」ブログにも色いろあって いいんじゃない?

※「 」内の文章は、中谷宇吉郎「私の履歴書」より引用

※古九谷の写真は石川県立美術館。撮影許可を得ています。

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中谷宇吉郎ー雪の科学館より柴山潟越しに白山を臨む(片山津)

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