下北半島 尻屋崎で想うこと (original) (raw)

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尻屋崎灯台

彼方に北海道が見えるのだが 写真では判然としない。右手の海は太平洋。

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下北半島東北端の地と思うと 感慨ひとしおである。

あの日(東北大震災)の津波でこの地も大きな被害を被ったはず。

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夏場にヤマセという強い東風が吹くという。その風が幾日も吹き続けると
下北半島津軽半島の村々では間違いなく冷害に見舞われる。

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難破船

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会津藩士と下北半島

田名部を中心としたこの地には、明治三年 戊辰戦争で敗れた多くの旧会津
藩士が、“ 罪を免ぜられ ” て、

陸奥の国、旧南部藩の一部を割き、下北半島の火山灰地に移封されわずか
三万石(明治維新前には実質六十八万石)を賜う。まことにきびしき処遇な
れど、藩士一同感泣してこれを受け、将来に希望を託せり。されど新領地
斗南藩)は半年雪におおわれたる痩地にて実収わずか七千石にすぎず、と
うてい藩士一同を養うにたらざること、このときだれ一人知る者なし。」
※『ある明治人の記録』会津人柴五郎の遺書。以下の引用も同じ

四千戸の藩士を養うことは困難なため、新領地に移封するもの二千八百戸と
なり、残りは "自由" とされたという。当然ながら藩主も新領地へ向かう。
住む家も原野に三、四坪の草葺の掘立小屋を建て、

「衣服は凍死をまぬかれる程度…褥なければ米俵にもぐりて苦しめられる。」

一日大人玄米三合の配給を受け、刀を持つ手には鍬を持ち開墾に励んだが、
米はもとよりろくに作物は育たず、結局はほとんどの旧藩士は餓死寸前で離
農したようである。“移封”とは名ばかりの、 “流罪“ 同然の仕打ちに思えてな
らない。まさに、

「公表をはばかるほどの悲惨な飢餓生活を続けた。薩長藩閥政府が華やかに
維新を飾りたてた歴史から、全く抹殺された暗黒の一節である。」

話は替わるが、**靖国神社(当初は招魂社)は戊辰戦争で国家のために尊い
を奉げた人々の御霊を祭るところ。“賊”の汚名をつけられた
会津藩などの戦**
死者は祭られなかった会津藩士は死しても“賊軍”ということなのだろうか。

「東北に西南に、深い傷跡を残した明治維新は、薩長藩閥政府、官僚独善体
制を残して終った。この体制は今なお続いている。」「国家民族の行末を末
永く決定するような重大な事実が歴史の煙霧のかなたに隠匿され、抹殺され、
歪曲されて、国民の眼を欺いたばかりでなく、後続の政治家、軍人、行政官
をも欺瞞したことが、いかに恐ろしい結果を生んだかを、われわれは身近に
見せつけられたのである。」

昨今の政治状況を見ていると耳の痛い話である。

※撮影年:1971

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