シネマの流星 (original) (raw)
東出昌大が狩猟生活を始めるきっかけと、その生活を追うドキュメンタリー映画『WILL』。命を撃ち、命を体内に入れる。東出昌大の狩猟には逞しさと儚さが同在する。命を奪う残酷は愛と美。ディアハンターのカヴァティーナが似合う俳優になった。人間は愛があるからではなく、愛を求めるから生きられる。人はなぜ狩りをするのか?何かを満たす目的ではなく、何かを追い求めること自体に意味があるからだ。映画『WILL』は狩猟ドキュメントではなくラブストーリー。
至高の演技は熊肉を食べるシーン。「これから一番おいしい食べものは熊肉って言います」。それは東出昌大の本音であり、最高の表現の瞬間。演技は嘘を本当っぽく見せることではなく、真実の中に眠る真実を揺り起こすこと。真実は階層。どんな名優も東出の表情には勝てない。
ワニが虎を食べるTikTokの映像はグロテスクでショッキング。『WILL』の狩猟や解体は美しい。動物を美味しく食べるから。美しく味わうから。そこには「美」がある。旨いのではなく美味しい。人間と獣の最大の違いは料理をすること。人間は美を求める生きもの。ハチャメチャな構成だが、一本筋通った映画。WILLには「未来」「意思」「決意」ともう一つの意味がある。それが最後に明かされる。たとえ後ろ向きであっても前に進む力をくれる。2024年のベストムービー。
ドキュメンタリー映画も演技賞に入れるべき
映画『WILL』を観て思うのは、ドキュメンタリー映画も演技賞に入れるべきということ。ドキュメンタリーであっても演者はカメラに向けて表現をしている。東出昌大の熊鍋を食べる表情。他の俳優が同じ熊鍋を食べても同じ表情はできない。これはカメラを向けられた東出昌大が表現した顔である。今後ドキュメンタリー映画も演技賞に加えるべききだ。そして2024年の最優秀男優賞は東出昌大である。
東出昌大の舞台挨拶
2024年4月1日、テアトル新宿で東出昌大、監督のエリザベス宮地、服部文祥の3人の舞台挨拶が行われた。初めて東出昌大を見た。闇を照らすために光があるのではなく、光はそれだけで光であることを教えてくれる笑顔。警戒心の強さ、相当の複雑なものを抱え込んでいるのは一目瞭然なのに、まったく壁を感じない少年の哲学者・東出昌大。
質問コーナーで真っ先に手を挙げ「動物を殺しているのに狩猟のシーンが美しかった。それは命を美味しく料理して頂いているから」と映画の感想を伝えると「狩猟現場に行けばもっと美しさを感じますよ」と言われた。そして東出昌大から「ぜひ狩猟やってください」と勧められた。初対面の人間にいきなり言えるのは誇りと自信を持っている証。印象的だったのは「熊は美味しくないとか、鹿はクセがあるから嫌いなどと言うのは獣に対して失礼」という発言。部位、調理法や保存法によって味は変わる。すべてを一括りにして「熊肉は臭い、鹿肉はクセがあるなどと言うのは、獣に対して失礼」と言っていたのが印象的だった。東出昌大は狩猟技術の前に、物事の真実を射抜く眼がある。東出昌大には映画監督をやってほしい。日本のクリント・イーストウッドになる気がしてならない。
『カリオストロの城』の本編は冒頭の4分のみ。炎のたからものが終わるオープニングまで。冒険の舞台であるカリオストロ公国に向かう旅情こそが作品の心臓であり、ロードムービー。目的地に到着するまでが浪漫。
「旅とは風景を捨てること」と言ったのは寺山修司。旅とは目的地に行くまでが旅。目的地に着いてからはおまけ。カリオストロ公国に着いてからはエピローグ。
宮﨑駿はルパンに迫り、自分が表現したいことより借り物であるルパンの真実を見せることに集中した。
次元や五右衛門のエピソードを入れず、あえて存在(物語)を消すことで、逆に次元や五右衛門、峰不二子の存在感を際立たせた。
国営カジノからお金を盗んだとき、ゴート札を見たルパンは「過去と対話する」。泥棒としてやり残したことがある。宿題を持っているほうが人生は面白い。ルパンはニヤリと笑う。
そして過去に向かう。まだ出会ったことがないものに出会う旅ではなく、自分の原風景にケリをつける旅。過去を精算しにいく。
過去の忘れ物に気づいたルパンは言う。
「次元、次の仕事が決まったぜ」
それは次元大介に伝えているようで、自分自身に向けた言魂。ルパンの仕事=泥棒。何かを盗みに行く。何を盗むのか?偽札ではない。自分の過去を盗みに行く。過去を盗みに未来へ向かう。
次元は何も訊かず、何かを察知する。ルパンの情念を受け止める。理解したわけではない。次元は何も知らない。ルパンが語るまで自分からは訊かない。ルパンが何かを始めようとしている。だったら、その祭りに付き合おうじゃないか。その関係性を宮﨑駿は完璧に描いている。
フィアットからゴート札が風に舞う。ウエディング・カー。ルパンと次元の結婚式。ふたりは夫婦以上の関係。
幸せを訪ねて私は行きたい。寂しい心を温めてほしい。ハードボイルドの象徴だったルパンの女性的な部分を表出し、その心情を歌で吐露した。女ったらしなルパンほど内面は女性的。人恋しい。寂しがり屋。そのルパンの奥深くに次元が寄り添う。
宮﨑駿はルパンを女性化した。次元は旦那であり、奥さんがルパン。妻が話し出すまで旦那の次元は黙って付き合う。宮﨑駿しかできない。
クラリスの存在は副菜。この映画に副題をつけるなら「風と共に去りぬ」
クラリスにとってルパンは「風」である。頬をやさしく撫でる風であり、クラリスの情念の炎を燃え上がらせる風。風は人の心をやさしく盗んでいく。「風」は去っていく。クラリスは最後、ルパンに見せたことのない笑顔を愛犬に見せる。クラリスのルパンへの想いは尊敬。おじさんと少女の関係。ルパンはクラリスの心を裸にはできない。だからルパンは風のように去っていく。
ルパンと次元はフィアットに乗る。峰不二子はバイク。独り乗り。自立している。ルパンはどこまでも女性的。峰不二子が男性的。カリオストロの城は、クラリスという少女と、ルパンという女性を描いた女の映画なのである。だから監督は宮崎駿なのだ。宮﨑駿はルパンを女性として描くことで、アニメのキャラではなく人間として見つめ、捉えたのである。
山下敦弘の『オーバー・フェンス』ではオダギリジョーがホームランをかっ飛ばし、『水深ゼロメートルから』ではプールにホームランが飛んでくる。男と女の対極的な構図。
砂だらけのプールは女という砂漠であり荒野。男子禁制の土俵。メイク、生理、恋バナ。男が踏み入れてはいけない女子寮。女だけの世界。
彼女たちは女という髷を結い、世界という敵から押し出されないように抗う。男という砂埃を払うのではなく、自ら裸足で砂を噛み踏みしめ、前へ前へ進む。
水底ではなく水面に人生が宿ることをクロード・モネが描いたように、狭いプールの向こうには水平線があった。
空っぽのプールは大空でありカンヴァス。彼女たちは裸足という絵筆で自由に描く。雨音は大粒の拍手。『水深ゼロメートルから』という美しい波紋。
男との戦い、大人との戦い、自分との戦い。言い訳を作って逃げていた彼女たちに数時間で大きな変化、亀裂が訪れる。タイトルの「水深」は時間の深さ。
上手い演出は登場人物の誰も汗をかかないこと。紫外線UV全開だけど、汗をかかない。そのことで雨が活きる。最後の雨は、主人公たちがこれからの人生でかく汗でもある。
人間は弱いから強くなろうとする。醜いから美しくなろうとする。
愚痴や不平不満のオンパレードで構成される映画は、最後に豊穣を迎える。
カタルシスのように天に昇華されるのではなく、雨となって降りてくる。
その一滴は大地を固め、世界に流れて大河となる。
男の自分が観ても人生の接続詞を作れる映画。年齢、お金、才能。そんな言い訳を吹き飛ばし、ゼロから始める一歩をくれる。
『ドライブ・マイ・カー』『偶然と想像』に続いて濱口竜介は問題作と秀作が一体になった映画を届けてくれた。すなわち令和の大傑作。
この映画を左脳で語るのは愚の骨頂。理屈などいらない。そもそも「悪は存在しない」というタイトルが破綻しているのだから。この世の摂理に反しており、主人公の最後の行動は紛れもなく悪。
今作のタイトルは「悪意は存在しない」が正確だが、「意」を剥ぎ取った濱口竜介の凄さ。意味などいらない、意義などいらない。まさに映画で表現して欲しいこと。
オープニングは信州の雪山を歩く自分の視点そのもの。八ヶ岳に登るとき、いつもアイゼンで雪を噛み、木々を見上げならが歩く。そこは秒針のない時空。濱口竜介は風景ではなく空白を獲得する。時間の重力を捉える。山の沈黙を奏でる。
途中の会話劇の左脳からラストの右脳へ。世阿弥の序破急。キラー猪木のチョークスリーパー。大真面目にラストの伏線を回収している人間に濱口竜介は舌を出している。答えを求める考察左脳人間にチョークスリーパー。拍手喝采。
P.S.悪は存在しないを観た師匠は「少女は死んでいない。恍惚、エクスタシーの表情。美しい本物の鹿を見てオルガスムスを覚えた。性への目覚め。男はチョークスリーパーで失神。SEX中に逝く。その失神。濱口竜介は女と男の子となる失神を描いている。タイトルの悪は存在しないは、ふたりとも死んでいないからだ」と言った。
1990年10月17日。生き方を決定づけられた。12日後に7歳になる前、この日が人生を産まれ直したバースデーだった。
サラリーマンの悲哀と抵抗、男の死に様を描いたアメリカン・ニューシネマ的アニメ。そんなものを見せられたら6歳の生き方が変わってしまうのも無理ない。会社員になってから「社内不適合者」と呼ばれ続けたのも、たった独りの戦士に憧れたからだ。
孫悟空の父・バーダックは戦争の最中、呪いの拳によって未来が見える体になる。未来に呪われてしまう。変えられない未来が見えてしまうのは、変えられない過去よりも苦しい。
上司であるフリーザの裏切りを知ったバーダックは仲間の血で染まったバンダナを巻き、迷彩柄の戦闘服をまとう。その姿はベトナムから帰還したランボー。惑星ベジータに戻り仲間に蜂起を促すが、サラリーマン気質であるサイヤ人たちは危機感を抱かず、そのまま長いものに巻かれる。孤立したバーダックは、それでも圧政に屈するわけでも逃亡するわけでなく、たった独りで強大な敵に立ち向かう。
息子のカカロットが向かった地球に亡命すれば生き延びられるのに、勝てないと分かりきった怨敵に向かっていく。仲間を殺された怒りやチンケなプライドではない。バーダックは自分の死ぬ未来が見えている。誰よりも冷静で冷徹。なのにフリーザに向かっていく。
抵抗ではなく反抗。理由なき反抗。あるとすればサイヤ人だから。血がそうさせる。容姿や内面は変わっても血は変わらない。己の血に逆らわない。
桜は枯れる姿を見せず、そのままの姿で散っていく。滅びの美。生き様ではなく散り様。敵ではなく己に屈しない。それが戦うこと。
昨年に会社員を辞めたとき、ある女性が「いろんなものと戦ってらっしゃったんですね」とメッセージをくれた。6歳で知った自分の血がそうさせた。
人生で最も影響を受けた漫画が『ドラゴンボール』
小学生は間違いなく「ドラゴンボールを読むために生きていた6年間だった」と断言できる。毎週月曜日の週刊少年ジャンプが生き甲斐だった。奈良県の桜井市民会館で上映される映画を心待ちにしていた。あの映画体験は超えられない。最良の時期に、少年時代を彩ってくれた。卒業後も人生を変えてくれた。40歳になった今もこれからも、『DRAGON BALL』から卒業することはない。
- 一星球:主人公が「殺人者」の設定
- 二星球:悟空にはオリジナルの技がない
- 三星球:ベジータを殺さなかった理由
- 四星球:悟飯が主人公になりきれなかった理由
- 五星球:悟空には負けが多い
- 六星球:なぜ人は何度も生き返るのか?
- 七星球:なぜ最後が元気玉なのか?
一星球:主人公が「殺人者」の設定
悟空は大猿になって育ての祖父である孫悟飯を踏み殺している。殺人者が主人公。孫悟飯は悟空が大猿に変身すること知りながらを殺めなかった。危険人物だから殺しても不思議ではない。孫悟飯の寛容は敵キャラを殺さない悟空に受け継がれる。
二星球:悟空にはオリジナルの技がない
主人公なのに悟空にはオリジナル技がない。幼少期に編み出した「猿拳」という、しょーもない技くらい。人はオリジナル性を尊ぶが、悟空のように他人の踏襲でも、その価値を高めることはできる。オリジナルを生み出すことがすべてではない。自分次第で本家を超えられる。
三星球:ベジータを殺さなかった理由
悟空は一人ではベジータに及ばなかった。だからリスペクトがある。負けず嫌いはリスペクトの同義語。魔人ブウを元気玉で消滅させるまで、悟空は敵を殺さない。魔人ブウを含め、すべての敵をリスペクトする。
四星球:悟飯が主人公になりきれなかった理由
戦闘能力の数値だけなら圧倒的に一番なのに悟飯は主人公になりきれなかった。理由は戦いが好きではなかったから。一方の悟空は戦闘を楽しんでいた。楽しんでる奴が最強。
五星球:悟空には負けが多い
悟空は初期の天下一武道会をはじめ、ピッコロ大魔王など最初は負けることが多い。そこから立ち上がる強さこそ本当の強さ。自分が無敗のボクサーや格闘家に興味はないのも、そのため。這い上がる姿にこそ人生の真実がある。
六星球:なぜ人は何度も生き返るのか?
ドラゴンボールは、とにかく何度も人が生き返る。荒唐無稽な設定ではあるが、人生は何度でも「生まれ変われる」ことを表している。後悔を抱えながらも、何度でも生まれ直せばいい。
七星球:なぜ最後が元気玉なのか?
ドラゴンボールは天下一武道会のピッコロ以降、タイマンの勝負ではなくなった。悪役のほうが独りで立ち向かっている。最後の最後は地球人全員で独り戦う魔人ブウを倒す。圧倒的なハンディキャップマッチ。勝てば官軍。それが正義。最後は魔人ブウvs.地球。ドラゴンボールの戦闘には正義の苦悩と深淵が描かれている。そして倒れていく敵キャラへの、鳥山明の無限の愛と敬意が込められている。
宮崎から岩手まで全国を縫う『すずめの戸締まり』の中でも特に重要な地が神戸である。「神の戸」であり、未曾有の大地震があった場所。本作のテーマをクリティカルに表す場所。
三ノ宮は神戸のなかで自然の色が濃い。観覧車で戸締まりを行った摩耶山が隣接し、すぐ目の前が瀬戸内海と淡路島。山と海の自然の両方に囲まれている。神戸で鈴芽を導くのが二ノ宮ルミ。「二ノ宮」は舞台である二宮商店街を表す。『すずめの戸締まり』の旅は「登山」と「擬似家族」の2つだが、詳しくは2025年7月7日に発売する新海誠作品のレビュー本で記すのでここでは省略する。
令和6年(2024年)8月28日、野球取材のため三ノ宮を訪れる機会があった。駅前のロータリーはルミが鈴芽にスポーツキャップをあげる場所。ルミと出逢う前、愛媛で千果から私服をもらった。ルミは帽子。これが重要な意味を持つ。
そして新神戸駅から歩いて10分ほどの二宮商店街はルミのスナックがある場所。劇中では「九宮商店街」と架空の名前に変えていた。
左の建物がルミのスナックがあった場所。わずかな時間で鈴芽は物語のテーマとなる大きな経験をする。
・双子の子守り
・スナックのママ
・故郷の焼きうどん
3つに共通するものに気づいた人が観客の中でどれほどいたか。
映画の舞台を訪ねるたびに驚くのは、よくここを舞台に選んだということ。おそらく新海誠のセンサーに引っかかったというより、舞台に導かれたのだろう。それこそが新海誠が授かった最大の才能である。
令和六年6月18日、新宿に大雨が降った。火曜日。憂鬱な気分になるが今年は違う。この雨を待ち侘びていた。雨の言の葉の庭に行ける。
『言の葉の庭』は靴に人生を捧げる15歳の孝雄が、27歳の古典教師・雪野に靴を作る物語。孤悲を卒業し、愛に向かう。旅立ちと卒業式の映画。雪野は「あの庭で靴がなくても歩ける練習をしていたの」と強がるが、コンクリートジャングルで生きるために靴はなくてはならない。
朝ごはんの卵かけご飯を食べになか卯へ。レインカバーをかけたザックを見たお姉さんが「あら、今日はリュックにお洋服、着せてるのね」とお菓子をくれた。
新宿駅の東口を出て世界堂を見上げながら新宿門へ。開門直後の9時、意外にも人が結構いる。
欅の息吹が瑞々しい。赤ちゃんのようにスーハー静かに呼吸している。
孝雄のようにピョンピョン水溜まりを跳ねながら進む。晴れの日は何も意識せず歩く道も、波紋ができると無機質な地面に生命力を感じる。
霞む摩天楼。雨はコンクリートで乾いた新宿に潤いと艶を与える。雨は都会の化粧水。人の砂漠に病んだ雪野にとって、雨の言の葉の庭はオアシス。
川になった日本庭園を渡ると、藤棚が見えてくる。
旧御凉亭(台湾閣)に人が多い。気にせず雨宿りの場所へ。
雨は雪に変わる前の水滴。孝雄に「雪」野を連れてくる。そして、孝雄は好きな女性の心の雪を溶かす。ふたりはふたりを待っていた。
雷神の 少し響みて さし曇り 雨も降らぬか 君を留めむ
東屋の天井に雨が打ちつける。雨はふたりの出逢いへの万雷の拍手、歓喜のタップダンス。
恋は変化する。失うこともある。愛は永遠。愛は不滅。
この東屋から雪野がいなくなっても、孝雄の愛は変わらない。
鳴神の 少し響みて 降らずとも 我は留らむ 妹し留めば
言の葉の庭の雨は、空が淹れてくれたホットコーヒーのようにあったかい。美しいものがそこにあるのではない。美しいと想う心が美しいのだ。