己を理解できないよりかは、ずっといい (original) (raw)
今日も1日疲れました。年を重ねるほど疲れる日の割合が増えてきているように感じる。要因第1位が年齢だろうけど、第2位に自分自身の理解が進んだのがある。
自分は静かな場所で、黙々と作業するのが好きだ。単純作業を繰り返すのがそれほど苦ではない。PCと向かい合って、思いつきのメモを取ったり、文章をかいたり、ゲームをしたりネットしたりなんかが1番落ち着く。内省をしがちで、自己の内面に渦巻く感情を、正しく、形に残しておきたいと思う。
人が周りにいるとどこか緊張する。内に深く没入できたら周りを見失えるが、音楽や、物音、何より人の声は、神経が砥がれる。言葉がどこの誰に向かって放たれているのか、耳を傾けるべきか否か判断が必要になる。集中のため耳を塞がねばと思うと、閉じる行為に意識を持っていかれる。人と人とが共に在ると自然とコミュニティが作られる。コミュニティを保つために上手く振舞い、集中して作業する。このマルチタスクがもう少し自然にできたらな。
ここ1~2年で、自分の性格が団体行動に向かないのをようやく理解できるようになった。理解とは、頭と体が一致することだ。苦手な分野に足を浸したら、足がきちんと痺れ、休息が必要だと理解し、休息へ向け行動できることだ。
今から6~7年前はそれができなかった。何が苦手なのかも把握していなかったし、どんな仕事もやれば何とかなると思っていた。継続すれば誰でも上手くなる、成長するものだとも思っていた。思い込んだ結果、体調を崩したのだけど。
1日とっても疲れた。正しく疲れるのはきっとよいことだ。
全てを正しく理解するのは不可能だし、理解したと思っても毎日更新がかかるものだから、この不器用な肉体とはうんざりするほど長い付き合いにはなるのだけど。まあ、まあ、…まあ、…いいのだ。己を理解できないよりかは、ずっといい。