cafe mare nostrum (original) (raw)

ここはどうも、雲や空マニアにとってたまらない場所なのかもしれない。

昼はとても表情豊かな雲がたくさん浮かぶし、夕方はこんな燃えるような、いわゆるマジックアワーがしょっちゅう現れる。車を運転しているとつい空に見惚れて、前を見るのが疎かになりそうです。

この理由が地形なのか気候なのかなんなのかわからない。空の広さは一つの理由かもしれない。面白い雲があるから、夕焼け空もより赤く燃えるような色に染まるわけだし。でもそんな理由なんて、どうでもいいのかもしれない。それが自然の力だとしても、宇宙人の仕業だとしても、気持ちを全て持っていかれるほど綺麗であることには何ら関係ないのだから。

今日も夕暮れ時に、こんな色の空に出会いました。思わず車を止めて外に出て、この空を堪能。パーっと輝いて徐々に引いていく、わずかな時間、ぼーっと空を眺めていました。

ちょうど太陽が木々の向こうに沈んだばかり。雲を真っ赤に染めています。手前の川の水面にも真っ赤な空の様子が写っている。それにしてもすごい色だ。

ちょっと視線を左にずらすと、綺麗な三日月が鱗雲の向こうに佇んでいる。

その下の方にはこんな、ブーメランのような、鳥の羽のような面白い雲が浮かんでる。

何だろう?ここの空の表情の多彩さは尋常じゃない。

空に見惚れて、田んぼに落ちないように気をつけなければ。

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コンドッティ通りを進むとその突き当たりに、競り上がる丘の斜面に面したちょっとした空間が広がります。宮殿のような階段と椰子の木(?)の姿は南国の雰囲気を醸します。ここ、スペイン広場(Piazza di Spagna)に入ると、まずベルニーニの船の噴水が迎えてくれます。夏のローマは猛烈に暑いので噴水の水でのどを潤わせ一息ついてから、スペイン階段を登り、丘の上のトリニタ・デイ・モンティ教会を目指します。

スペイン広場が今の姿になったのは18世紀になってから。正面のトリニタ・デイ・モンティ教会(Trinità del Monte)ができたのは16世紀、ベルニーニの「船の噴水」は17世紀、階段が完成したのは18世紀のことでした。

この「スペイン階段」や「スペイン広場」はスペインと名前が付いていルのだけど、実はフランス人たちが作ったものです。それ以前、ここは丘の上の教会にちなんで「トリニタ・デイ・モンティ広場」と呼ばれていたそうです。「フランス人が作ったスペイン広場」はちょっと複雑です。

フランス人が作ったこの空間が、なぜ「スペイン広場」と呼ばれるようになったのかというと、1622年に「スペイン宮殿」が建って以降ここにスペイン大使館が置かれたことでスペイン広場と言われるようになったとか。

トリニタ・デイ・モンティ教会はフランス系のカトリック教会として1493年にシャルル8世によって建てられました。フランス枢機卿の資金によりフランスの石材が使われ、ゴシック様式の教会として建てられた、というので今とは全然違う姿だったのかもしれません。その後1527年のローマ略奪の被害を経て、1570年に現在見られるような二つの鐘楼を持つ特徴的な姿となりました。今でも内部は建設当初のゴシック様式が残されている一方で、表には特徴のあるファサードを持つ珍しい教会となっています。

この教会のファサードは二つの時計を持っています。正面左の時計はローマの時間、右の日時計はパリの時間を示しています。

このオベリスクは1788年にここに建てられてもので、ローマ帝国の時代にローマ人がエジプトのオベリスクを模して作ったものらしい。

スペイン階段ができたのは1725年、これまたフランスの資金援助のもと136段のバロックの階段が誕生します。このガーデンテラス風に装飾されたデザインに至るまではかなりの年数の試行錯誤があったそうです。

スペイン広場が今のような姿になって以降、ここはポポロ広場のポポロ門からローマに入る旅人たちや王侯貴族のための宿やホテルが立ち並ぶようになり、それに呼応するようにさまざまな商店もできたでしょう。長旅の末にローマに入って一息つけるちょうど良い場所、このスペイン広場はそんな位置でした。スペイン広場はとても賑わう場所となります。

王侯貴族がここに滞在したことで、高位の人々への高級なホテルや店がたくさん連ねていた。現在のコンドッティ通りはその名残りかもしれません。

そしてもうひとつ。

ここは映画「ローマの休日」でおなじみの場所。

オードリー・ヘプバーンジェラートをほおばりながら、グレゴリー・ペックとこれからのローマでの遊びの計画を立てるシーン。80年前の映画だけど、この階段もトリニタ・デイ・モンティ教会も当時も今も全く変わらず、目に映る景色はあのシーンそのもの。

ローマの歴史は2000年以上、80年なんて時間はほんの一瞬ということであることを改めて感じます。

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ポポロ広場からコルソ通りをフォロ・ロマーノに向かって南下すると、コンドッティ通り(Via dei Condotti)にぶつかります。そこを左に曲がってまっすぐ行くとスペイン広場に行き当たります。

このコンドッティ通りは元々古代ローマの時代に「ローマの7つの丘」の一つであるピンチョの丘からテヴェレ川まで行くための道として作られたといい、その側に引かれていたアグリッパ浴場への水道の名前が「コンドッティ」の名前の由来と言われています。

そんな「コンドッティ通り」ですが、この名前を聞くだけで心躍る人も多いのではないかと思います。ここはイタリアファッションの中心であり、イタリアの名品、老舗ブティックや世界のブランドが軒を連ねる、ローマで、いやヨーロッパで最も高級なショッピング街なのです。その錚々たる名前は、高級ブランドにはたいして縁もない僕でも知ってるお歴々ばかり。。。。

グッチ、エルメスアルマーニプラダディオール、フェラガモ、ブルガリ、ヴィトン、カルティエモンブランティファニーパテック・フィリップ、ロレックス、オメガ。。。。。でも他の都市の高級ブランド街とはまた一味様子が違います。ここはローマの古い建物の中にひっそりと、店舗を隠すかのように軒を連ねています。派手ではなく、それがまたブランドの重厚さを演出している。ローマという歴史ある古い箱にそれぞれのブランドが収まっている。そのせいか、いつ訪れても不思議なくらい静かで、浮ついたところの無い落ち着きがあった。これが「名品」と呼ばれるブランド街の本来あるべき姿なのかも、と思って当時は眺めていました。

いわゆる高級ブランドは、今に至るまでの長い長い物語があり、それを背負うデザイナーが創造し、腕の立つ職人たちが魂込めて作った製品が並ぶ場所。その製品は、それをまとうにふさわしい人が身につける、あるいはそうなりたいと真剣に生きている人が身につけるべきものだ、と僕は考えていた。

この道の先には特徴的な二つの鐘楼を持つトリニタ・デイ・モンティ教会の姿が見えます。ここを抜けた先にはスペイン広場があります。

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最近撮った、秋の夕焼け空をいくつか。

秋といっても、まだ連日35℃を超える猛暑日で、なかなか秋っぽくならない。ここしばらくは暑い夏が長引いて、一瞬秋っぽさが出たとお思ったらすぐ冬になる、そんな感じです。

お彼岸を迎えて、ようやく涼しくなっていくのやら、日本の四季は無くなってしまうのだろうかと、少々心配になります。

日はとっぷりとくれた後、残照が空と雲を照らします。

この日は中秋の名月でした。

別の日、地平線に夕陽が沈み雲を表情豊かに染めていく姿に会いました。

また別の日、太陽が雲を燃えるような色に染める。空が燃えてましたね。

先日、こんな空の下を車で移動していたら、変なところで車が1台、ハザードランプを灯して止まっています。何だろう?と思ったら、運転手が窓を開けて空の写真を撮っている。。。。「同類だ」と思いながら僕は通りすぎ、少し離れた高台へと外れ、畑の間の道でハザードを灯して、僕はそこから空の写真を撮りました。

空がこういう姿を見せてくれるのは、ほんの一瞬なんです。

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ポポロ広場(Piazza del Popolo)はローマの中心部の北に位置する楕円形の美しい広場です。

「ポポロ広場」のポポロ(Popolo)はイタリア語で「市民」を意味するので、「市民の広場」と言うことになるのだけど、実際の名前の由来はこの広場の北東にあるサンタ・マリア・デル・ポポロ教会(Basilica Parrocchiale di Santa Maria del Popolo)に由来するそうで、この教会のポポロは「ポプラ(ラテン語:Populus)」から名付けられたといいます(ややこしい)。

元々この場所はローマにアウレリアヌス城壁が巡らされていた頃から、ローマの北の玄関口として重要な場所でした。ここはローマの重要な街道の一つ、アドリア海の街リミニへつながるフラミニア街道の起点であり、とても多くの人の往来が集中した場所。今はポポロ門と呼ばれるかつてのフラミニア門を通って、ローマを出発する人はフラミニア街道を北へ行き、フラミニア街道からローマに到着する人はこの門を通って、そのまままっすぐ行けばフォロ・ロマーノにつながる、そういう場所です。ちなみにフラミニア街道は現代のイタリア国道3号線となっています。

ポポロ広場の特徴は、美しい楕円のような、半円を二つ合わせたような広場のフォルムと、中央に置かれた高いオベリスク、そして広場の南側を飾るように存在する、まるで双子のような二つの教会です。

立派なオベリスクは、ローマ帝国の初代皇帝アウグストゥスがエジプトからローマに運んだ「セティ1世のオベリスク」。ラムセス2世が作らせたと言われるこの立派なオベリスクは高さ24mもあり、アウグストゥスはこのオベリスクをチルコ・マッシモに置きました。その後、16世紀に法王シクストゥス5世のローマ都市計画によって、この場所に移設されたといいます。

この広場の南側を飾るのは、双子のように似ているが実は異なる二つの教会。

左がサンタ・マリア・イン・モンテサント教会(Basilica di Santa Maria in Montesanto 1679年)で芸術家を讃える教会として知られます。右がサンタ・マリア・デイ・ミラコーリ教会(Chiesa di Santa Maria dei Miracoli 1681年)。ベルニーニも参加したこの双子教会、ほぼ同時期に作られた二つの教会はのバロック様式で設計され、この場所の景観を決定づけるようにほぼシンメトリな意匠で建設されました。

そして以前は台形のようなイビツな形をした広場が、現在のような美しい形となったのは19世紀初頭になってから。建築家ジュゼッペ・ヴァラディエによって、オベリスクと双子教会を景観の軸に置き、ベルニーニによるバチカンのサン・ピエトロ広場を彷彿させる新古典主義の美しい広場として生まれ変わったのでした。

また、ポポロ広場のすぐ横にはローマの7つの丘のひとつ「ピンチョの丘(Pinccio)」があり、そこには広大なボルゲーゼ公園が広がっています。地勢的にもこの場所が都市ローマにとって重要な場所であったことがわかります。

ローマにはいくつもの歴史が重なる場所がたくさんあります。このポポロ広場も古代ローマに始まり、16世紀にバロックの息吹が吹き込まれ、19世紀に新古典主義の広場として完成し現代に残ります。ローマという街の重厚さというか奥深さというものはこういう背景があるんです。

P.S. ポポロ広場のすぐ脇、ボルゲーゼ公園の横に張り付くように「マルグッタ通り(Via Margutta)」と言う場所があります。もうピンと来た人もいると思います。

”Via Margtta 51”

この住所は、映画ローマの休日アメリカン・ニュース・サービスの記者ジョー・ブラッドレー(グレゴリー・ペック)のアパートの住所、「エレベータのような部屋」があった場所です。

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今回紹介するのは、おそらく僕が一番長く一緒に仕事をした上司のお話。

僕の会社の事業部は、誰もが知ってる製品を手がけ、その分野では世界一と言われる技術を持っていました。その中でも僕の所属する部隊は、世界的にも希少な技術分野でカッパさんのような面白い天才はじめ、タチの悪い秀才、他優秀なメンバーがわりと集まっていて能力の凸凹とともに、人格的な凸凹も相当なものでした。技術的なキレものと、人格的にキレちゃったものまで、まあ面倒くさくも面白い集団でしたね。

当時20代中盤だった僕は、それまで自分のやりたいことをさせてもらえず腐っていました。そんなある日、僕はチームを変えることになります。

そこで上司になったのが「(仮称)しんちゃん」。僕より20歳近く年上で、ピチッとした7:3分けの髪型で、背が低く、体型はコロっとして目がクリッとした可愛らしい顔のおじさんで、「ザ・昭和のサラリーマン」と「少年」が共存する、そんな風貌でした。

*名前が同じというだけですが。。。。

当時の二十代後半、三十代に差し掛かるころの僕は、世界一と言われたうちの会社の技術を発展させてきたスゴイ人(噂)と仕事ができること、世界に先駆けた製品を開発するチームに加わることへの期待感と、今までのやりたいことができなかったことからの解放に、胸いっぱいな感じでした。

そしてチームが動きだして程なく、徐々にしんちゃんという人の素顔が見えてきた。

しんちゃんの特徴その1: いつもニコニコとても温和で、穏やかな空気を持っている。

しんちゃんの特徴その2: ニコニコしながら不用意なひと言を連発して場の空気を凍りつかせる。さらにみんなのやる気を削ぐようなことをさらっと言う。

しんちゃんの特徴その3: みんなが問題解決のためやむを得ず残業で対応せざるを得ない時に、「今日は用事があるから」とささっと定時退社をすることいとわない。

で、そこでも特徴その2が発動し、言わなきゃいいのに「今日はクラシックのコンサートでさあ。。。」みたいなことを正直に言ってしまい、更にみんなの顰蹙(ひんしゅく)を買う。。。。

プロジェクトを進めるのも技術課題への対処も、考えがあるのかないのかわからない。そのくせチームのメンバーのやることにはケチだけつける。。。チームが動き出してまもなく、みんなのストレスは最高潮に達していたのでした。僕も当時はまだ血気盛んな20代、僕もみんなと同じようにしんちゃんの不用意な行動や言動の数々に「もうやってられるかー!」と日々頭を抱えていました。

重要プロジェクトのリーダーとしてやるべきことはやってもらわないと。で、できれば最低でもみんなのやる気を削ぎ落とすような不用意な物言いだけはやめてもらいたい。でもなかなかそれは改まらない。

上の上に相談したり、しんちゃん本人にも直接話をしたりもしたのだけど、そんなことはどこ吹く風としんちゃんの行動言動は変わらない。なかなか状況変わらずチームの空気は最悪で部下一同、しんちゃんに対しては敵意を隠さないような状況がしばらく続きました。

しんちゃんは決して根が悪い人間ではないんだけど、いかんせんリーダーとしての責任感や本来のリーダーらしい行動は見えてこない。僕たちは一触即発な状況を過ごしていたのです。これでは新技術の開発どころではありません。

ただ、そんな中で、じわじわとわかってきたことがありました。まず、しんちゃんの不用意な言動は、しんちゃんの言葉の選択の問題にあった。おそらくしんちゃんが伝えようと意図していることと、実際に発する言葉は随分違い、空気を読めないが如くの言葉を選択してしまうということを発見したのです。しんちゃんをよく観察してると、「不用意な一言」の直後に一瞬「あ、しまった、またやっちゃった」と言う顔を覗かせていることを僕は発見してしまったのです。この人は「伝える能力」が壊滅的に低い。。。。

これを境に何かが変わった。

しんちゃんの言動はあいかわらず基本は何も変わらない。周りにどれほどキレられても呆れられても、しんちゃんのそれは変わることはなかった。いや、変わりようがなかったんだろう。すると僕の頭の中にはこんな言葉が浮かんできたのでした。

「しんちゃんだから、仕方ない」

僕は根負けしたが如く、こういうモードになったのでした。程なく周りのメンバーもそれに気付いてチーム全体がそういう空気となった。元々悪人ではないから、どんな言葉が飛び出そうとこちらが「しんちゃんだから仕方ない」と言う状態になると、しんちゃんとのコミュニケーションは格段によくなり僕たちのストレスも随分と軽減されたのです。

そうなってようやく、なんだかチームがまとまり、物事が回りだしました。今思い出してもとても面白い現象だったと思う。

このチームが開発したデバイスはリンゴの会社の製品に搭載され、世界初のデバイスとして世界に売り出された。その後これと同様の装置が爆発的に世の中に広がっていった様は、その一代目を開発したエンジニアとしてとても誇らしい。僕のエンジニアとしてのキャリアの中でもクライマックスとなったものでした。

振り返るとしんちゃんは、不用意な発言はついに無くなることがなかったが、プロジェクトの最後の方には責任感とかリーダーシップ的な行動の面では変化が感じられるようになったと思う。その点しんちゃんは「カッパさん」と同じく「変われる人材」だったと言える。

これだけだと、しんちゃんが全くのダメ上司みたいなので、良いことも書きます。

ひとつ目、僕の仕事は結果が出るまで一切口を出さず、待ってくれた。おかげで僕は僕のやり方と責任で難題を切り抜けることができた。よく「上司だから」とあまりわからぬまま、あれこれダメ出しだけする人間が多い中、よく我慢してくれたと思う。

ふたつ目、不用意な一言は部下にだけではなく、さらに上層部への報告や他部門への説明などでももれなく発揮される。実際に上層部への報告場面に立ち会った時、不用意な一言を発してしまい大目玉を喰らう場面に遭遇したのだけど、そこでしんちゃんは口下手ながらも、一生懸命誤解を解こうと必死にがんばっていた。口下手にも程がある。だけど仕事は真剣に取り組んでるんだなということがわかった瞬間でした。

その後もそんな場面はたくさんあり、しんちゃんが大炎上したところで、「いや、こういうことなんです。。」と代わりに僕が説明して事なきを得たこと多々あり。どっちが上司かわからん、という場面もたくさんあったなあ。

しんちゃんだから仕方ない。しんちゃんはそれでいい。

あ、思い出した、しんちゃんは小遣い稼ぎの講演を僕らに黙ってこっそりやるんだけど、脇が甘いからすぐバレる。そういう時は笑って誤魔化してたけど、その講演で使った資料に僕が徹夜で編み出した技術のデータを勝手に使ってたのを発見した。その瞬間はもう許さん!と思いました。でも1週間もたつと「仕方ないか、しんちゃんだもん」というモードになってしまう。これはすごい能力だと思う。周りが「しんちゃんだから、仕方ない。自分たちでなんとかしなければ!」ということになるのだから、究極のマネジメント術かもしれない。まさか全て計算づくの行動か?いやいや、そんなはずはない。もしそうだったら、しんちゃんは何度も僕に自慢したはずだ。

僕がしんちゃんに悟りを開いて以降、何人もの人がチームに加わったり、関わったりすると、しんちゃんと仕事をするのが初めてという人が来る。すると面白いくらいにほぼ例外なく最初の僕たちのように、しんちゃんを嫌いになり敵意むき出しになるんです。その時僕は「あーまたか。いつものパターンだな」と身構えると、その人たちはこれも例外なく僕に問いかけてくる、「あなたはなんであの人と、あんな人と一緒に仕事できるんですか?」と。

その度に僕はこう答えるんです

「仕方ないよ、しんちゃんだもん」

問いかけた人物は、この時は納得できなくても、程なくしてこの言葉の意味を理解する。まるでドリフのコントのようです。

しんちゃんとはその後も約10年ほどの間断続的に一緒に仕事をさせてもらった。部署も変わったり、会社も変わったりしたけど、いっときは同じ会社に転職したりして、僕としんちゃんのどっちがどっちかわからない上下関係は続いたのでした。しんちゃんは僕を自由に泳がせ、成果を得る。時々遭遇する大ピンチでは、僕はしんちゃんを先行させ時間を稼ぎ、しんちゃん大炎上したところで、僕が論理組み立て説明して事がおさまる。僕としんちゃんは結構いいコンビだったと思う。

しんちゃんは一般に理想的なリーダー像には全く当てはまらない。でもこういうリーダーの形も「あり」なんだな、という稀なケースを見た気がします。そしてそのスタイルは僕は到底真似することはできない。ま、しんちゃんもなろうと思ってなった形じゃないと思うけど、いずれにせよ僕とってはとても相性の良い上司だったんだなあ〜と実感します。

しんちゃんは昨年現役を引退されて、今頃お孫さんに囲まれて幸せな余生を送っていることでしょう。久しぶりにしんちゃんに会いたくなりました。

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フォロ・ロマーノのど真ん中に現在まで残っている神殿、その名前となっている「アントニヌス・ピウスとファウスティナ」。今回はこの夫婦のお話です。

古代ローマ史上最も平和な時代だった五賢帝の世紀。その中でも優れた皇帝として特筆されるのが、トライアヌスハドリアヌス、そしてアントニヌス・ピウスの三人です。

◾️初代皇帝が定めた禁を破りローマ最大版図を実現したトライアヌス(MARCVS VLPIVS NERVA TRAIANVS AVGVSTVS)

◾️帝国全土をくまなく視察して防衛線の確立や、公共建築やインフラの整備を行いローマ帝国を盤石にしたハドリアヌス(PVBLIVS AELIVS TRAIANVS HADRIANVS AVGVSTVS)

◾️記録に残すようなことが何もない**アントニヌス・ピウス**(CAESAR TITVS AELIVS HADRIANVS ANTONINVS AVGVSTVS PIVS)

華やかな功績を残した二人の賢帝からローマを引き継いだ後、23年の皇帝在位の間、歴史家が喜んで書き残すような事変がなにも起こらなかったため、記録がほとんどないのだといいます。二人の賢帝が作った立派な帝国を引き継いだから何もせずに済んだ「幸運な皇帝」だったと評価される節もありますが、これだけの広範囲にわたるローマ帝国を23年間もの間何も起こらなかったのは、皇帝アントニヌス・ピウスが何も起こらないように舵取りをして、平和な時代を築き上げたということに他なりません。

アントニヌス・ピウスの「ピウス」は「慈悲深い」を意味する尊称。塩野七生著「ローマ人の物語」はこの皇帝を「春の陽射しのように穏やかで、何事も穏便に解決されるよう努め、バランス感覚が抜群であり、虚栄心は皆無」と評します。一級の品格と高い教養を持ち、非の打ちどころのない人格者でありながら、醸し出すユーモアによって周囲の人々を虜にする、アントニヌス・ピウスとはそういう皇帝でした。また、何も問題がなくとも常に危機に備えることを意識して帝国を運営し、無駄を排除し「責任を果たしていない者が報酬を貰い続けることほど、国家にとって残酷で無駄な行為はない」という言葉を残したようにローマ帝国の効率的な運営に努めた。その姿は「皇帝」というより超優秀な経営者という表現が合うかもしれません。

◾️ファウスティナ(Annia Galeria Faustina )

ファウスティナは先帝ハドリアヌスの姪にあたる女性です。

ファウスティナとアントニヌス・ピウスは、アントニヌス・ピウスが皇帝になる前の115年頃、恋愛結婚をしたと言われています。政略結婚が当たり前のこの時代に、とても珍しいケースです。生涯に渡りとても仲の良い夫婦で、アントニヌス・ピウスが周囲に出した手紙には、ファウスティナへの献身的な思いが綴られているといいます。

またファウスティナは模範的な女性としても知られ、元老院アントニヌス・ピウスが皇帝に即位するのと同じころにファウスティナにも「アウグスタ」の尊称を与えました。ファウスティナは慈善活動にも力を入れ、そのライフスタイルは広くローマの人々に影響を及ぼしたと言います。また、ファッションでもローマの女性に影響与え、ファウスティナの「三つ編みをぐるぐる巻き」にしたヘアスタイルはローマ世界の女性に広まったといいます。

仲睦まじいことで世間に知られたアントニヌスとファウスティナの夫婦でしたが、アントニヌス・ピウスが皇帝即位して3年後の141年にファウスティナは亡くなってしまいます。この時のアントニウス・ピウスの落胆ぶりは相当なもので、悲嘆に暮れた皇帝は亡き妻を神格化してフォロ・ロマーノのど真ん中、聖なる道(Via Sacra)沿いの一等地に妻を讃える神殿を作り「神となったファウスティナ」に捧げました。これが今に残る神殿の成り立ちです。

上の写真のコインもファウスティナが亡くなった後に、ファウスティナを忘れないようにと発行されたコインだそうです。またファウスティナの遺産を基に、孤児となったローマの少女たちを支援するためにPuellae Faustinianae(「ファウスティーナの少女たち」)という慈善団体を設立しました。

生前どんなふうに仲の良い夫婦だったか知る術はないのだけど、ファウスティナが亡くなった後のアントニヌス・ピウスの公の行動からも、その愛情の深さが感じられます。それらを認めた元老院やローマの市民もまたファウスティナを慕い、神殿を作ることやコインに肖像刻むことを望んだのでしょう。

23年間もの平和を維持した皇帝アントニヌス・ピウスは161年に74歳で亡くなります。それまで仲睦まじい夫婦の姿を間近に見ていた次代皇帝マルクス・アウレリウスは、アントニヌス・ピウスを神格化し、このファウスティナの神殿に夫婦一緒に祀ることとしたのです。その時からこの神殿は「アントニヌス・ピウスとファウスティナ神殿」と名前を変えたのでした。以降古代ローマの新婚夫婦は国家公認の「模範的な夫婦」にあやかるため、この神殿の祭壇で祈りを捧げたそうです。

フォロ・ロマーノの真ん中に、今でも「アントニヌス・ピウスとファウスティナ神殿」は残っています。

この神殿は7〜10世紀頃にキリスト教会に転用され「聖ロレンツォ教会」となったおかげで、ローマ帝国崩壊後も決定的な破壊を免れ現在に至ります。現在の姿は15世紀初頭のルネサンス期の改修の結果で、コリント式神殿として作られた「アントニヌス・ピウスとファウスティーナ神殿」のポルティコ(円柱楼)と神殿の本殿を利用して、ルネサンス様式のファサードが加えられたとても不思議で、かつ貴重な様式折衷の建物となっています。

アントニヌス・ピウスという皇帝は、どこかを征服して歴史に名を刻むとかという虚栄心的発想とは全く無縁でした。二人の先帝が派手に築きあげたローマ帝国を受け継ぎ、ひたすら帝国の平和を維持することに心血注いだ皇帝でした。在位23年間、見事に平和な世界を維持したことによって派手な征服行や武勇伝などの人々が好んで書き記すようなことは何もなく、人格者であるが故にスキャンダル的な浮世話もない。よって歴史家にとっては「面白くない時代」、「面白くない皇帝」とされて記録があまりないといわれます。でもその人柄は同時代に生きた人々を惹きつけ、万人に慕われるまさに慈悲深い(Pius)皇帝として記憶に残ることになるのでした。

そしてファウスティナという妻と共に理想的な夫婦としてもローマ世界の模範となり、夫婦の名前が冠される神殿が2000年後の現代にまで残っている。

すごいことだと思う。

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