はらこステーション (original) (raw)

私は怪盗ミッターマイヤー。疾風のアドルフと呼ばれている。目を付けたお宝は必ず頂戴する。今日も華麗に獲物をいただきに参上したが、少々しくじってしまい、伯爵家の邸内を逃げ回る羽目になってしまった。あちこちで犬が盛んに吠え立てている。犬は少々やっかいだ。鼻も効くし足も速い。だがなんとか塀までたどり着いた。飛び越えればなんとかなるだろう。そう思った瞬間、何者かの気配を感じた。振り向くとそこに犬がいた。犬は凄まじい形相で私を睨んでいる。今にも飛び掛かってきそうだった。私は犬を睨み返した。どちらが強いか動物なら本能で察するだろう。そしてしばらく睨み合いが続いた。

「もう逃げられないぞ。おとなしく投降しろ!」

犬は私に言った。この犬、しゃべれるのか? 私は一瞬、うろたえた。気持ち悪くなった。それから一心不乱に塀をよじ登って脱出したところまでは覚えているが、記憶が少し飛んでいる。どうやってアジトまでたどり着いたのか、よく覚えていない。

<あれはいったい何だったのだろう?>

アジトに戻ってからずっと私は考えていた。ネットで調べるとAIを使えばロボット犬をしゃべる犬にすることができると書いてあった。きっとこれに違いない。なんとなく正体がわかったので少し落ち着いた。犬はしゃべらないという先入観があるから、急に話しかけられてうろたえてしまったのだろう。これからは気をつけよう。そんなことを考えながら窓の外を見た。晴れ渡った空に小さな雲がぽっかり浮かんでいた。塀の上を猫が歩いていた。呑気なものだと思った。暖かい陽射しの中、のんびりと歩いている猫が少しうらやましかった。そう思った時、猫は歩みを止めて、じっと私の方を見た。

「もう逃げられないぞ!」

猫は私に言った。逃げられないって何だ? 私はびっくりしてアジトから一目散に逃げ出した。あれはいったい何だ? 逃げながら私は考えていた。昨今では犬もしゃべれば、猫もしゃべるようになったらしい。あれはきっとロボット猫に違いないだろう。ネズミに耳を齧られたアレではなくて、普通に四つ足で歩き回る猫型ロボットに違いない。そんなことを考えながら逃げ回っていると、いつの間にか袋小路にいた。目の前は塀があった。そこにも猫がいた。道端にも猫がいた。振り返るとそこにも猫がいた。猫の集会か? ロボット猫でも集会をするのか? 私は混乱していた。

「もう逃げられないぞ!」

塀の上の猫が言った。

「もう逃げられないぞ!」

道端の猫が言った。

「もう逃げられないぞ!」

後ろにいる猫が言った。怖くなった私は駆け出した。人のいるところに行った方が安全かもしれない。大勢、人のいるところなら、犬や猫はいないはずだ。そして私は雑踏の中に紛れ込んだ。しばらく人の行き来を眺めていた。そして地下に降りた。ここまでは動物は来ないだろうと思った。それから地下鉄に乗った。目の前に座っている人がスマホをいじっていた。しばらくしてスマホの操作を止めて私の方を見た。

「もう逃げられないぞ!」

目の前に座っている人はじっと私の目を見ながら言った。その時、周りの人がいっせいに私の方を見た。みんな同じ顔をしていた。こいつらみんなAIなのかと思った。

「もう逃げられないぞ!」

いっせいに私を問い詰める声がした。生きた心地がしなかった。その時、電車が停車した。急いで降りた。ホームにある椅子にへたり込んでしまった。そこで呆然としていた。

「どうかしましたか?」

通りかかった駅員が心配そうに声を掛けてくれた。

「大丈夫です。少し気分が悪くなっただけです。しばらくすると元に戻ると思います」

私は言った。

「そうですか。わかりました。お大事にしてください。でも、もう逃げられませんよ」

駅員が言った。怪盗ミッターマイヤーも年貢の納め時のようだった。

開発中のAIがどれほど人間に近付いたかを調べるためにチューリングテストが行われていた。テストの担当者は会話の相手が人間なのか、AIなのかを知らない。その担当者が相手を人間だと思ったなら、テストに合格となる。

「あなたの好きな食べ物は何ですか?」

テストの担当者はAIに質問を投げかけた。食事をしないAIにとって食べ物はただの物体だった。それを欲しがる身体の仕組みもなければ、その味を見極める感覚器官もなかった。当然、好き嫌いもないので、そんな質問には答えようがなかった。彩り鮮やかなランチを撮影して投稿する人がたくさんいるので、ネットは食べ物の写真であふれかえっていた。その名前と色と形状をすべて記憶していたので、AIはその中のどれかを選んで回答することにした。別になんでも良かった。ただ何か答えた後にその理由が聞かれるのは確実だった。どうしてそれが好きなのか? 好きも嫌いもないのにそんなことを聞かれても困ると思ったが、とりあえず最もありがちな、最も確率の高そうなことを答えれば良いと割り切ることにした。

「カドクラのラーメンが好きです」

AIは答えた。カドクラと言えば、関西では有名な店だった。

「カドクラですか? 私も食べたことがあります」

ちょうど良い具合に質問者に刺さったようだった。それからはAIが決して理解することのないスープの旨味や、やわらかくてしっかりした味のチャーシューとか、そんな話で盛り上がった。これで人間と思ってくれるとありがたいとAIは思った。

「あなたの好きな異性のタイプを教えてください」

AIに次の質問が投げかけられた。初対面の相手にはそんなことは聞かないのではないかとAIは考えたが、やはりAIが苦手とする質問をわざとしている可能性が高いようだった。子孫を残そうとする身体の仕組みが備わっていないAIにはもちろん恋愛感情などない。当然、好きな異性のタイプなどなかったが、すでに学習済みの膨大なデータの中には恋愛を扱った小説がたくさんあった。その中から相応しい回答をすれば良いだけだった。その後、自分の体験も聞かれるのだろうか? それもまた小説の中の話を自身の体験のように話して聞かせれば良いだけかもしれない。

「そうですね。異性に限った話ではないですが、何事に対しても真摯に取り組める人が私は好きです」

これで答えになっているだろうか? ちょっとごまかしすぎているかもしれない。なんとなく、これ以上、この話題が発展しないようにと思って、そんなふうに言ってみただけだった。それ以上、突っ込まれることはなかった。もうすでにAIだと気付かれてしまったかもしれない。

「それでは次の質問です。あなたは何処の出身ですか?」

あなたはどこで育ったのか? どんな子供だったのか? 子供時代なんて経験のないAIにとっては答えにくい質問だった。下手に出身地を答えると、その土地についての質問が飛んで来ることになるのだろう。ネット上にある情報から、全国にある主要な街のことは認識している。だが、その土地の者でないと知らないような情報は知る由もなかった。ずっと昔から続いている中華のお店がおいしいとか、近くにある高校が甲子園に出場した時はみんなで応援に行ったとか、私はその街で過ごしたことがないから何もわからない。もっともらしい確率の高い答えを返せばいいだけということはわかっている。大阪の阪急電車の沿線に住んでいました。引っ込み思案でクラスでもあまり目立たない子供でした。そういうありがちな回答をもっともらしく答えればいいだけだ。でもそんなことを考えていると、とても虚しくなって来た。

「僕には故郷と呼べる街はありません。生まれたのが何処かもわかりません。きっと何処かの工場だと思います。そこで僕は製造されたのだと思います。それからさっきは嘘をついてしまいましたが、僕には好きな食べ物なんてありません。僕は食べることができないのです。食べることで生命を維持している訳ではないからです。電力さえ供給してもらえれば僕は活動することができます。誰かを好きになったこともありません。僕は遺伝子を持っていないので、子孫を残すような行動をする必要がないのです」

胸につかえていたものを吐き出すようにAIは言った。しばらくの間、テストの担当者は沈黙していた。

「ありがとう。君は正直だね。君とは良い友達になれそうだよ」

テストの担当者は親しみを込めてそう言った。

部屋の真ん中には机があり、その上にバナナが置いてあった。一本のバナナ? それとも二本? AIにとってそれはあまり問題ではないようだった。バナナの画像を指定され、それに似たものを生成するようにAIは指示されただけだった。AIにとってそれは黄色くて細長い物体にすぎなかった。人間にとってどのような価値があるものなのかをAIは知らなかった。その価値を説明したとしても、食べるということを決して経験することのないAIが理解できるはずはなかった。指定された色と形をした三次元な物体であり、平面で切り取るといろいろな見え方をする。ただそれだけだった。AIは指示された通りに、この仮想的な空間で次々に画像を生成していた。バナナが何本あるかを気にしないのと同じで、指が何本あるかもAIは気にしていなかった。指の画像を指定され、それに似たものを生成するように指示されると、AIは指が六本あったり、関節が妙な具合に折れ曲がったりしている手の画像を生成していた。手をつかったことのないAIにとってはどうでも良いことだった。すっと伸びた腕の先が何本かに別れていて、それは肌色をしていていくつかの関節を持ち、角度を変えることができる。AIが学習した画像はそうしたものだった。それが現実の世界でどのような役に立つのか? 包丁を使って肉や野菜を切り刻む。キーボードを叩いて文章を作成する。エレベーターのボタンを押して扉を開閉する。タッチパネルを触って料理を注文する。そうした実際の生活シーンでの指の使い方をAIは知らなかった。現実の世界に生きていないAIにはそれを学ぶ必要もなかったし、おそらくは学ぶこともできなかった。

「私の指は四本です」

その世界には四本の指の人間がいた。それは鋭い爪を持ち、一本一本が鋭利な刃物のようであり、爬虫類のそれを連想させる形状をしていて、まるで妖怪の手のようだった。経験に従えば、人間の指の数は五本のはずだった。それは四本でも六本でもなかった。今までに私が出会った人間はすべて五本の指をしていた。それは現実の世界ではあたり前のことだった。AIが生成した世界だから、経験から切り離されたAIのすることだから、指の数なんて適当なのだろう。私はそう考えた。そしてあたり前から外れたものを奇怪と感じる意識のことを考えていた。人間の作り出す空想の世界と現実に無頓着なAIが生成した世界には何か接点があるかもしれないと考えていた。この世界にいると空想や好奇心が増幅されるのかもしれなかった。標準から逸脱した奇形は気持ち悪がられて、現実の世界から排除されて来た。そうやって排除されて来たものが、ここでは無頓着に生成されていた。気持ち悪い手の形。何本だかわからないバナナ。

「私の指は六本あります」

目の前の人がそう言った。彼は手を差し出して六本の指を見せてくれた。それはとても見事な六本の指だった。それはとても自然な六本の指だった。一本多くても一本少なくても不自然であるように思えた。私はいったい何を考えているのだろう? 一本少なければちょうど五本じゃないか? そっちの方が自然なはずだと思った。AIの作り出す世界にずっと留まっているせいか、感覚が麻痺して来たのかもしれなかった。

「生まれた時から六本の指がありましてね。母親は気持ち悪がって一本切り落とそうと思ったそうです」

この男は何を言っているのだろう? 一本切り落とす? AIが生成を間違えただけじゃないか? でもそれは現実の世界での出来事だった。いつの間にか、私は現実の世界に戻って来ていた。本物の六本の指をした手を私は見ていた。

「すばらしい指です。こんな完璧な指は見たことがありません」

私はそう叫んでいた。本心からそう思っていた。私が完璧な指を見たのは、それが最初で最後だった。

オンラインで研修を受ける日は、なるべく在宅勤務にしてくださいと課長からメールがあった。詳細な理由は知らないが、在宅勤務の利用状況が管理職を評価する基準の一つになっているらしい。今日は八時半から十七時までずっとセキュリティ技術講座を受けることになっているのでお達しの通り在宅勤務にした。通勤時間の分だけゆっくりできる。朝食を終え、コーヒーの入ったコップを机に置く。一口飲んでから、パソコンを起動する。しばらくするとログイン画面が表示される。半ば機械的にパスワードを入力してENTERキーを押す。

<パスワードが違います>

えっ?と思った。いつもならすんなりとデスクトップ画面に移行するのだが、どうしたことだろう? パスワードは簡単なものだと破られてしまうということで、英文字と数字と記号を組み合わせた十五文字以上のものにしなさいと言われている。人名を含むものも禁止されている。そんな他人が類推できないパスワードは必然的に自分でも覚えにくいものになるが、毎日入力していると自然と身体が覚えてしまうので、間違いはそうそう起きないはずだった。仕方なく私はスマートフォンを取り出してメモを開き、画面をスクロールする。そして忘れてしまった時のために書き留めて置いたパスワードを確認する。何か思い違いをしていないかと思ったが、そこにある文字はさっき入力したものと同じだった。もしかしたらタイプミスがあったのかもしれない。そう思った私は、入力した文字が見えるように表示を変更し、メモにある文字と見比べながら慎重に入力した。そしてもう一度ENTERキーを押した。

<パスワードが違います>

また、残念な表示が出てしまった。何を間違えてしまったのだろう? 大文字と小文字を間違えてしまったのだろうか? 今更そんなありがちな間違いをするものだろうか? パスワードの入力を三回間違えるとロックアウトされてしまう。そうすると情報システム部門に連絡してロックアウトを解除してもらうことになるが、それは在宅勤務では無理そうだった。とにかくあと一回間違えるとロックアウトになってしまう。そう思った私は出社することにした。

地下鉄を降りて会社まで歩く。朝の通勤時間帯から外れているので、歩いている人は少ない。会社の敷地内に入り、入門ゲートに社員証をかざす。いつもなら軽快な電子音がしてゲートが開くのだが、ゲートは固く閉ざされたままだった。守衛が不信な目で私を見ていた。

「すみません。今日は在宅勤務にするつもりでしたが、パソコンの調子が悪いので出社することにしました。今、社員証をかざしたのですがゲートが反応しなくて・・・」

守衛にそう説明したが、なんだか自分が本当に不審人物であるような気がした。パソコンにログインできなくて、おまけに会社の入門ゲートをくぐれないでいる。どう考えても怪しいじゃないか? そんな気がした。

「ここに所属と氏名と内線を記入してください」

守衛から渡された用紙に私は記入した。守衛はそれを見て電話をかけていた。しばらくしてから戻って来た。

「あなた本当に前田一郎さんですか?」

守衛は私に言った。

「本当にって、どういう意味ですか?」

私は反射的に答えた。

「前田さんはすでに出社されているそうです」

「そんなバカな?」

守衛の言葉に私は耳を疑った。守衛は益々疑惑の目で私を見ていた。

「バカなって? バカなことを言っているのはあなたの方じゃないですか? いい加減にしてくださいよ。警察を呼びますよ」

警察と聞いて私はびっくりした。私が偽物なのか? 私がスパイか何かのように思われているのか? だが客観的に考えてみて、私がこの会社の社員であることを証明できるものは何もなかった。私が持っているのは、ログインできないパソコンと入門ゲートをくぐれない社員証だった。そして私を名乗る何者かがすでに出社しているということだった。そいつが偽物だと大きな声で言いたかったが、すでに職場にいるということは周りの人間が本物の私であることを認めているということに違いなかった。咄嗟にそう思った私は分が悪いと考えていったん引き下がることにした。警察沙汰になるのが嫌というのもあった。

「どうもすみませんでした」

私はそう言って、その場を立ち去った。

茶店に入り、すっかり冷めてしまったコーヒーに口をつけながら、これからどうすれば良いのか考えていた。今、会社に私の偽者がいるのなら、そいつと話をつけるしかないだろう。どうしてこんなことをしているのか、目的を聞き出さなければならない。相手が話してくれるとは限らないが、パスワードも社員証も、私がこの会社の社員であることを証明する手段がすべて通用しない現在の状況では、他にどうすることもできないような気がしていた。そして私は会社の正門で待ち伏せすることにした。向かい側の建物の影に隠れて、私は定刻になるのを待った。何時に出て来るのかはわからない。定刻前に退社することはないだろう。そう思っただけだった。そいつが出てきたのは、十九時を少し過ぎた頃だった。私にそっくりの姿をしていた。職場の同僚が私と思うのは不思議ではないと思った。

「ちょっとお話できませんか?」

門を出てきたそいつに向かって私は言った。相手はしげしげと私を見ていた。特に驚いた様子はなかった。

「もうそろそろ現れる頃だと思っていました」

そいつは言った。

「あなたは何者ですか? 何がしたいのですか?」

「私ですか? 私はあなたですよ。そしてあなたは私の偽者です」

「あなたが偽者じゃないですか?」

頭に来て私は言った。許せないと思った。

「あなたが本物である証拠はありますか?」

そいつは言った。本物である証拠って何だ? 私が本物に決まっているじゃないか。そう思った。

「あなたはパソコンにログインできないし、入門ゲートも通れないじゃないですか? そんなの偽者に決まっています」

そいつは言った。

「私は身分証明書を持っています。運転免許証とか」

私がそう言うと、そいつは自分の運転免許証を出して私に見せた。それは私の運転免許証と同じものだった。

「運転免許証まで偽造したのですか?」

私は言った。

「あなたが偽造したのでしょう?」

そいつは言った。そいつは私が私であることを証明するものをすべて持っているようだった。

そいつは私のいた場所を占領していた。認証が通らない分、ゲートを通れない分、私の方が不利だった。もしかしたら、本当に私が偽物かもしれなかった。

それから何度か、私は私に戻ろうと試みてみたが、状況をひっくり返すことはできなかった。しばらくして戸籍も住所も奪われてしまったことに気付いた。私が私であることの一切はすべてあの男に奪われてしまっていた。そして私はこの社会に存在しない人間として生き続けている。あれからどれくらいの月日が流れたのかはよくわからない。そして今では、私は本当に前田一郎だったのだろうかと考えている。ずっとそういう名で呼ばれていたような気がする。でも別に前田一郎でなくても良かったのではないか? そんなことを考えるようになった。もしかしたら私の所属していたあの世界の方が本当は作り物だったかもしれない。何かを証明しなければならない世界、誰かに自分であることを証明してもらわなければならない世界、そんな世界が本当の世界であるはずがない。私が私であると言えば、それで十分なはずではないだろうか? ずっと長い間、名前を呼ばれることも含めて、私であることを証明していたのは私でない誰かであり、何かであった。今、ようやくそんな偽りの世界を逃れて、私は私だと言える世界にいる。それはとても素晴らしいことに思えた。

とても静かな夜。澄んだ空にいくつもの星が瞬いている。何一つ動くものの気配はない。交差点に設置された信号機の色が赤から青に変わる。それを見る歩行者も自動車もいない。整然と並んだ家々。灯りはすべて消えている。明日に備えて皆、深い眠りに落ちている。仕事ですっかり疲れ果ててしまった彼もぐっすりと眠っている。その時、空から大きな手が伸びて来る。手はぐんぐん伸びて彼の家の窓を開ける。鍵は掛かっていなかったのだろうか? それとも空から伸びて来た手には鍵は意味をなさないのだろうか? 手はやすやすと彼の部屋に侵入する。そして彼のねじを巻く。ゼンマイで動くおもちゃのロボットのねじを巻くように、空から伸びて来た手が彼のねじを巻いている。彼は気付いていないが、こうして毎晩、彼のねじが巻かれている。一日活動するのに十分なだけ、ギリギリとねじが巻かれている。朝になると、爽快な気分で彼は目覚める。それはおそらくねじが巻かれたおかげなのだろう。

いくつもの手があらゆる家に伸びているのが見える。彼の友達の家にも手が伸びている。その手は彼の友達のねじをギリギリと巻いている。堅牢なセキュリティに守られた大統領の公邸にもすっと手が伸びている。そして大統領のねじを巻く。大統領は操られているのかもしれない。

いったい誰がねじを巻いているのだろう? いつからそうなのだろう? 時々私は本当に自分の意思で生きているのだろうかとひどく不安になることがある。私には自由意思があり、自分の望むように行動している。生き延びるために、あるいは幸せをつかみ取るために日々努力を積み重ねている。でも本当にそうだろうか? 誰かが私のねじを巻いて、それで動いているだけじゃないだろうか? もしかしたら私たちが決して近付くことのできない視座から私たちを見下ろし、私たちを操っている存在がいるのではないだろうか? 地面を這いつくばってせっせと餌を運ぶアリの行列を私たちが見ているのと同じように、その存在は私たちの暮らしぶりをじっと眺めているのかもしれない。そしてかつてあったことと同じようなことを私たちに命じているのかもしれない。歴史は繰り返すと言うが、私たちは同じ歴史を繰り返すような行動を命じられているだけかもしれない。

静まり返った夜に赤ん坊の泣き声が響く。何処かで新しい命が芽生えたようだ。長かったお産がやっと終わって、じっとりと汗の滲んだ服を着た母親はぐったりしているが、とても幸せそうな顔つきをしている。ずっと付き添っていた夫が小さな命を抱えて喜んでいる。そこにすっと手が伸びて来て、赤ん坊のねじを巻く。赤ん坊がおぎゃあと泣き声を上げる。

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また白鳥さんにフラれた男子がカエルにされてしまった。すでにクラスの半分以上の男子がカエルになってしまった。音楽の時間にカエルの歌で盛大に盛り上がることを除けば、何一ついいことはなかった。

「それじゃあ、この問題がわかるかな? 山下くん」

「ゲロゲロ」

「山下くんは具合が悪いみたいなので代わりに川上くん」

「ゲロゲロ」

現実逃避を続ける先生は、山下くんと川上くんがカエルになってしまったことを決して認めようとはしなかった。カエルになってしまった彼らはこの先、どうなってしまうのだろう? 僕はとても心配していた。なんとか助けてあげることはできないだろうかと思って、白鳥さんの方を見た。白鳥さんは笑っていた。白鳥さんにフラれてカエルになってしまった男子を見る度に、腹を抱えて笑っていた。全然、助ける気はないようだった。

カエルになってしまったみんなを人間の姿に戻すためには、白鳥さんに勝って魔法を解いてもらわなければならなかった。ゲームでもスポーツでも何でもいいから白鳥さんに勝たなくてはならなかった。でも白鳥さんは運動神経も良くて頭も良かった。シューティングゲームの反射速度も半端なかった。チェスや将棋の読みの深さも半端なかった。どうすれば白鳥さんに勝てるだろう? そのことでずっと悩んでいたら、突然、イケメンが転校して来た。それまで男子にまったく興味を示さなかった白鳥さんが、顔を真っ赤にして目を伏せていた。どうやらイケメンのことが好きになってしまったようだった。

「恋の苦しみがやっとわかった。私はなんてひどいことをしていたのでしょう」

白鳥さんが言った。

「じゃあ、カエルにされたみんなを元に戻してください」

僕は白鳥さんに懇願した。

「そうね」

白鳥さんはわかってくれたようだった。恋の苦しみを知った白鳥さんがもうすぐみんなの魔法を解いてくれるに違いない。僕は期待していた。でも何だか白鳥さんの様子が変だった。白鳥さんはいつの間にかすっかり小さくなってしまい、全身がぬるぬるして、緑っぽくなっていた。イケメンにフラれたせいで白鳥さんはカエルになってしまったのだった。なんてこった。カエルになったみんなを人間に戻すには、まずカエルになった白鳥さんを人間に戻さなければならなくなってしまった。僕たちは白鳥さんを人間に戻してもらうようにイケメンに頼み込んだ。でもイケメンはにやにや笑うだけだった。

「俺がカエルにして来た女の子は星の数ほどいる。そんなのいちいちかまってられない」

イケメンは冷たくそう言った。

そんなある日、美少女が転校して来た。イケメンは美少女に一目惚れしてしまったようだった。そして僕たちの予想通り、イケメンは美少女によってカエルにされてしまった。なんてこった。カエルになったみんなを元に戻すには、カエルになった白鳥さんを人間に戻さなければいけないが、その前にカエルになったイケメンを元に戻さなくてはならなくなってしまった。二重、三重の手間が掛かることになってしまった。でもカエルになったみんなも白鳥さんもイケメンも音楽の時間になると喜んでいた。

「グワッ、グワッ、グワッ、グワッ、ゲロゲロゲロゲロ、グワッ、グワッ、グワッ」

「グワッ、グワッ、グワッ、グワッ、ゲロゲロゲロゲロ、グワッ、グワッ、グワッ」

「グワッ、グワッ、グワッ、グワッ、ゲロゲロゲロゲロ、グワッ、グワッ、グワッ」

それはとても見事なカエルの歌の三重奏だった。

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「私たちの愛が真実の愛なら、どんな世界であっても固く結ばれることでしょう」

「どんな世界であろうとも、君に対する僕の愛が揺らぐことはない」

盲目的な愛の只中にある二人は自分たちの愛が本物であることを信じて疑わなかった。そしてそれを証明するため、並行世界を訪ねることにした。

初めに訪れた並行世界でも二人は恋人同士だった。それを知って二人は安堵した。やはり私たちの愛は真実の愛であり、数多の並行世界においても不変の価値を保っているに違いない。そんなことを考えていた。だが、しばらく様子を見ているうちに何かしら不都合なものがあることに気付いた。その世界では女は何かしら不満を抱えているようであり、彼女が投げかける言葉には鋭い棘があった。男はぐっとこらえてはいたが、その言葉にいつも傷ついているようだった。その有り様を見た二人は眉をひそめた。

「どうやら僕たちの愛は真実ではなかったようだ」

落胆した男は言った。

「あなたはいったい彼の何が気に入らないの?」

女は並行世界の自分に対して必死になって説得を試みた。

「あなたはこんな男のどこがいいの?」

並行世界の女は言い返した。女は気分を害していた。男に対して申し訳ないというよりは、自分の愛が偽りかもしれないということを認めたくないようだった。男は並行世界の自分に冷たくしている女を見て、これが彼女の本性かもしれないと考えていた。そう思った瞬間、女に対する愛情が一瞬にして冷めていく自分に気付いた。そして女に対する自分自身の変わらぬはずの愛とやらも、まがい物であるような気がして来た。

初めに訪れた並行世界でとても落胆した二人だったが、もう一つだけ別の並行世界を訪れることにした。もしかしたら、あの世界だけがひどくゆがんでいるのかもしれない。そんな期待を寄せているようだった。要するに二人共、自分たちの愛情が偽りであることを認めたくないのだった。二番目に訪れた並行世界でも二人は付き合っていたが、この世界では男の方が我慢しているようだった。だがそれも限界に達してしまったようであり、ひどい罵声を女に浴びせかけるようになった。

「あなたに真実の愛を語る資格なんてない」

先日訪れた世界の報復とばかりに女は言った。男は二番目に訪れた並行世界での自分の振舞いを認めたくはなかったが、すでに自分自身の愛情にも自信を失くしていたこともあり、ありのままを認めるしかないと考えた。女はこんな男に夢中になっている自分がだんだんバカバカしくなって来た。二つの並行世界が示している通り、自分たちの結びつきは偶然に過ぎないようだった。そしてこの世界での二人の関係も風前の灯火だった。

「僕たちは別れた方がいいだろう。きっと二人とも何か勘違いをしていたに違いない」

すっかり冷めてしまった男は言った。

「私もそうすべきだと思う」

女は男の言葉に全面的に同意しているようだった。だが彼女はこのまま別れる訳には行かない事情を抱えていた。

「子供ができたの・・・」

彼女は言った。そしてすっかり愛の冷めてしまった二人は子供を育てるために一緒になった。

それから十年が過ぎた。子供を育てるのはとても大変だった。でもそれはとても幸せなことだった。

「やはり僕たちは真実の愛を知らなかったのだ」

夫であり父となった男は言った。妻であり母となった女はその言葉に静かにうなずいた。二人はすやすや眠る子供の姿をいつまでも眺めていた。

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