世界に日本のオペレーション・エクセレンスの水準示した長野聖火リレー 野口みずきの言葉がとても印象的だった。「北京オリンピックの成功とそれから平和を願いながら走りました」。素晴らしい。最高のコメントだ。バランスがとれている。賢い子だ。「アスリートは四年に一度の大舞台に合わせている。その五輪が政治に絡んで混乱するのは残念だ」。芯の強い子だ。さすがに金メダリスト。世界のアスリートの女王が語る重い言葉。灼熱のアテネで本命ラドクリフを制してオリーブの栄冠を手にした小さな小さな女王。あの感動のドラマを世界は忘れていない。陸上のアスリートの女王が訴えたこのメッセージを欧米のプレスは聞き逃さずに発信して世界に伝えて欲しい。日本のマスコミは、昨日(4/26)の長野聖火リレーに対して無意味で無価値だったと貶めの論評に躍起だが、私は全くそうは思わない。参加者も裏方もよく頑張った。立派だった。岡崎朋美が笑顔で走るのを見ながら、十年前の長野五輪の感動が甦って懐かしかった。長野五輪は素晴らしい五輪だった。 序盤のスケートで日本選手がよく頑張った。金メダルをとった清水宏保の「母さん」という言葉に胸が熱くなったことも思い出した。清水宏保も聖火ランナーに出場すればよかった。原田雅彦も船木和喜も元気な顔を見せてくれればよかった。政治の場となり、騒然として緊張した政治闘争の舞台になってしまったが、そうなる前の、チベット問題の政治が北京五輪を汚す前の、最初に企画された原案での平和の祭典の祝賀行事の趣向が、昨日の中継の画面にはきちんと映し出されていた。長野市実行委と関係者が一生懸命に準備したイベントの思いが伝わってきた。また、聖火走者の横をガードして伴走する若い機動隊のメンバーの白のユニフォームがよくて、あのジャージとキャップのデザインも長野五輪を思い出させる意匠だった。彼らの聖火を守る機敏な動きがとてもよかった。日本らしい。日本を世界に見せていた。目的と使命を遂行しながら柔らかく対応する。きっと世界中の人間がそう思ったはずだ。 長野駅前で中国人とチベット支援の右翼の衝突を制止した警察官もよかった。日本らしい。こういう場面で日本の警察は優秀だ。彼らは体を張って両者の間に入って分けていた。それが当然の任務だと言えばそれまでだが、誰からも讃えられることのない縁の下の役割で、マスコミから「ものものしい警備」と罵られ、「市民不在」と謗られ、「こんな聖火リレーをやる必要があるのか」と叩かれる日陰の身の仕事なのである。無責任で安全圏の日本のマスコミは簡単にそう言う。しかし、世界中が注目して、一つ間違えば重大な国際問題になる昨日の長野が、現場の警備当局にとってどれほど責任の重い正念場の一発勝負だったか。警察はよく頑張った。声を大にして褒めてやりたい。現場の警察官と長野市の実行委に心から拍手を送ってやりたい。皮肉なことに、この評価は長野に来た「国境なき記者団」のメナール本人が語っていて、日本の警察の対応を賞賛している。他の国ならこうはならなかったことをメナールは知っているのだ。 警察は中立の立場を守っていた。抗議行動を力づくで押さえることもしなかった。中国人にも配慮をしていた。双方の言論の自由を守りながら、混乱が最小限に収まるように現場の秩序を守っていた。まさに「地上の星」の姿。国益を守るということは、マスコミや政治家はそれを軽々しく口にするけれど、まさに昨日の長野の警察と実行委こそが国益を守る真の姿なのである。口先ではなく縁の下の力持ちが守るのだ。聖火リレーは予定のコースを無事に終了した。コースの変更はしなかった。短縮もしなかった。パリやSFの無様の二の舞は演じなかった。粛々と行事を遂行して、聖火を次へ繋ぎ、それを世界と中国に見せつけた。こういうときの日本の当局は実に見事だ。日本の世論が野口みずき的な理性と常識のバランスを回復するのはいつだろうか。日本のマスコミは、遂に五輪は政治と区別することはできないなどと言い始め、北京五輪を人質にした中国への政治圧力を完全に正当化した論調を固めている。スポーツ選手は政治家なのか。 さて、逆にリアルな生の政治として昨日の長野を見た場合だが、見てのとおり政治戦は中国側の圧勝で右翼側の完敗だった。動員の規模で十倍以上の差があった。田中角栄が言ったとおり、政治は力、力は数である。日本の右翼はあれほど2ちゃんねる掲示板とBLOGで動員を呼びかけ、長野をチベット旗で覆い尽くすと豪語して宣伝扇動していたにもかかわらず、逆に中国人の数に圧倒されて存在感を誇示することもできず、追い詰められ、最後は長野駅東口で暴力沙汰を仕掛けて中国人を挑発するという惨めな負け犬に終わっていた。今の政治戦は情報戦である。テレビの映像で何を見せるかが全てだ。中国側は士気が違っていた。テレビ中継の要所要所は悉く中国側が押さえていた。開会式場のゲート前道路沿いの位置を埋め、閉会式会場横の柵を陣取って横断幕を掲げていた。その場所を陣取るためには、敵に与えず味方で制するためには、敵よりも早い時間に現場に着き、敵よりも多い人数で場所を制圧しなくてはいけない。早起きしないといけない。 士気の高かった中国側の勝利である。日本右翼の示威行動を完封し、チベット旗をテレビカメラの撮影角に入れなかった。テレビ局のヘリのカメラは真上から聖火リレーを捉えたが、沿道に切れ目なく林立するのは赤い五星紅旗ばかりで雪山獅子旗の存在感は薄かった。日本の右翼は中国と在留中国人の実力を思い知っただろう。政治は数を動員できる方が勝つ。数を一点に結集できる方が勝つ。今日(4/27)の朝日新聞は、一面で、長野の五星紅旗乱舞の問題に触れ、中国のナショナリズム高揚に対して露骨に警戒感と不快感を示す記事を書いている。筆調は産経新聞の日常の謙中記事と変わらない。朝日新聞が忘れているのは、どうしてこのような中国ナショナリズムの現象が起きたのか、何が中国人のナショナリズムを刺激したのかという基本的事実である。国際社会が、北京五輪を人質にしてチベット問題で中国に圧力をかけるという政治をしなければ、五輪に政治を持ち込む愚を犯さなければ、このような中国ナショナリズムの発揚はなかった。問題の発端の責任は欧州にある。 長野への動員についても、ネット右翼が無用な反中行動を策謀扇動しなければ、あれほど膨大な数の中国人が長野に集結することはなかっただろう。長野を政治騒動の場にしたのは、チベットを支援する反中右翼の陣営であり、騒動と混乱の責任は右翼と右翼に加担した善光寺の側にある。善光寺が市実行委と歩調を合わせていれば、あれほどネット右翼が増長することもなく、中国側がカウンターの政治に奔走して数を動員することもなかっただろう。長野の象徴としての公正公平な立場を逸脱して混乱に拍車をかけ、長野市民と関係当局に迷惑をかけた善光寺は自己批判すべきだ。そして、日本の国民もマスコミも、隣人の大国である中国との関係のあり方を再度真摯に考え直すべきだろう。一党独裁批判や言論の自由不在批判の一般論だけで、単純に国論を嫌中反中へ固める方向が日本にとって正しい選択なのか。大国である中国とパートナーシップを組む発想がマスコミや評論家には根本的に欠落している。本当なら、欧州に向かって「北京五輪を人質にするな」と常識と正論の声を上げるべき国が日本なのだ。 それができる国がアジアのリーダーなのだ。それができれば、日本は中国と欧米の間に入ることができ、さらにチベットと中国の間に入って調停することができる。双方に自制を求める有意味な第三者の立場たり得ることができる。そういう役割こそが国際社会に必要で、中国はそういう役割を果たしてくれる国を求めているにもかかわらず、日本がその役割を果たすことができない。宮沢内閣とか細川内閣とか橋本内閣とかの時代の日本なら、あるいはそういう第三者の仲介者の役割を果たすことができたかも知れない。森内閣以降の日本は戦慄するほど極端に右傾化し、小泉内閣の靖国参拝で最後のとどめを刺して中国との関係を破壊した。修復はできていない。東シナ海ガス田の領海問題も、中国製ギョーザの食品問題も、日中の根本には靖国問題がある。今回、私が本当に残念だったのは、崔天凱中国大使の人品と言語で、前任大使の王毅とは比較にならないほど見劣りする人物が式典で何か言っていた。ショックだった。王毅は魅力的な人物だった。王毅の日本語は素晴らしかった。崔天凱は日本語が話せないらしい。 日本のマスコミの前で中国語で話す中国大使を初めて見た。これほどの衝撃はない。日本人はこの事実をどう受け止める気なのか。前外相の李肇星も日本語で話しているのを聞いて安心したことがある。唐家旋の日本語は言うまでもない。今度の外相の楊潔篪は日本語を話せない。以前は、日本語ができる人間が政府の要職(特に外交部)を占めた。今はそれが変わった。このことがどれだけ重大な問題か日本人は気づいていない。唐家旋は、恐らく自分の後継者(中国外交責任者)の本命を王毅に据えていて、その繋ぎ役が六カ国協議で担当をしていた武大偉だったはずだ。武大偉も日本語がよくできた。唐家旋、武大偉、王毅の日本語ラインで中国外交部の路線ができていた。それが一瞬で変わった。唐家旋も外交のトップを外された。そして日本語のできない人間が日本の大使に派遣されている。つまり、中国政府の中での日本の地位が決定的に下がり、親日家がポストを占めれなくなっている中国政治の現実がある。あらためて言うが、鄧小平路線とは戦後日本がモデルの経済政策だったのである。だから日本語のできるエリートを国家の要職に配置した。中日友好は鄧小平の遺訓であり、中国の国是で国策だったのだ。わずか十年、絶句する思いだ。どうして私と同じ思いの日本人が一人もいないのだろうか。 【世に倦む日日の百曲巡礼】1998年の長野五輪開会式での小澤征爾指揮によるベートーベンの『喜びの歌』この映像と演出は素晴らしかった。日本が世界に誇るモニュメンタルなスペクタクル。五大陸六都市(NY、北京、シドニー、ベルリン、ケープタウン)を衛星中継で結んで同時大合唱。こんな壮大なプロジェクトを企画してプレゼンテーションできる金と力が日本にあった。確か大陸間の通信時差で音がコンマ数秒ズレるから補正をどうのという技術の話があり、なるほど日本らしいハイテク応用の文化演出だと世界を納得させていた。あの頃の日本に帰らないといけない。グローバリズムの前のハイテクの日本へ。 カジュアルな服装のアフリカ人が体をゆすりながらコーラスする「第九」が印象的だった。小澤征爾は旧満州の奉天(瀋陽)の生まれなんだね。中国政府に招聘されて中国の音楽家の指導もしている。 今度の問題を小澤征爾はどう思っているのだろうか。欧州にガツンと発言して欲しい。 |
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