映画『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』ネタバレ感想 アーサーの中身はすっからかん (original) (raw)

ロングランとなりアカデミー賞の主演男優賞と作曲賞にも輝いた前作『ジョーカー』は、日本でも社会現象となり、当時多くの意見が散見された。ジョーカーとなる主人公アーサーに共感する人、共感する人を馬鹿にする人、観る人の心を否が応でも鬱へと誘う前作は、とにかく「語りたくなる」ほどに鮮烈で悍ましい映画だったと思う。当時、公開日を逃した私は「アーサーに共感する奴はアホ」という言説が主流になり、世間に何となく「ジョーカーはこうやって観る映画」という枠組みが生まれた辺りから興味を失くしてしまい、結局劇場で鑑賞することはなかった。「映画をこう観るのが正しい」というような一面的な感想が横行する風潮に嫌気が差していたのである。その後、レンタルで自宅で観た時には既に作品への熱は下がっていたため、「ああ、確かに話題になりそうだな」などと、一歩引いた目線で観てしまった。

自分は映画の感想なんて所詮一個人が出力するものでないという立場のため、感想の方向性に「正解」を設けるやり口には反対である。監督や脚本の意図を理解する必要はなく、あくまで受け手の思ったことが全て。誤読や無理解もれっきとした「感想」であり、『ジョーカー』に共感する様を嘲笑うような真似はあまり好ましくない。何より作品のテーマを用いて語るのであれば、自分と異なる考え方や立場、出自、意見を持つ人を蔑んで放置することこそが、前作が真に訴えたかった警鐘だったのではないかとも思う。「ジョーカーに共感してしまう人がヤバい」のではなく、「共感した人を突き放し馬鹿にする姿勢」こそが最も醜悪で、それはアーサーに殺された人々の振る舞いと変わらないのではないだろうか。もちろん正解はないと考えているが、とにかく前作『ジョーカー』は社会問題とも密接に絡めることが可能で、アーサーに次々と繰り出される悲劇に何らかの感情が喚起されずにはいられない作品だった。個人差はあれど、人の心を刺激する作品だったと言えるだろう。

そして続編の『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』。138分という長丁場で私がずっと気になってしまったのは完成度である。完成度などというものに基準はないが、アーサー可哀想ポイントやアーサー自業自得ポイントを着実に積み上げていく前作とは違い、今作は長ったらしいミュージカルシーンがとにかく多い。音楽は1作目でも重要な要素だったし、今作でもアーサーの夢と現の境界線という意味で上手く機能していたとは思うが、やはり衝撃的だったあの1作目を超えるまでの力はなかった。1作目のテンポの良さとしっかり感情を喚起させてくれる手腕は見事だったのに、2作目ではしっとり&ジメジメしたシーンが続く。確かに事件を起こしたアーサーの物語の続きとしては裁判をやるのは正しい。しかしその正しさが、1作目のようなインパクトや感動を損なってしまっているのである。

また、1作目は単純に「アーサーがジョーカーになるまでの物語」だと約束されていたのが大きい。私はジョーカーがバットマンシリーズに登場するヴィランだと知っていたため、この物語は一個人が悪のカリスマになる物語であり、その背景を描くものだと、心の準備ができていたのである。そして実際映画は、アーサーがジョーカーになるという爆弾に向かっていく導火線の火を追っていくような危険性に満ちていた。アーサーを襲う悲劇の数々に対して、「彼がいつジョーカーとして覚醒するのか」を期待できる作りになっていたのだ。しかし『フォリ・ア・ドゥ』の結末は観る前には示されていない。つまり私を含めて観客の多くは、この映画がどこに向かうのか分からない状態なのだ。そういった意味でも1作目はかなり特異な映画であり、あれと同じ衝撃を2作目でも展開するのはかなり困難と言えるし、実際そういったインパクトは作り手が意図したものではないだろうなとも思う。私にはトッド・フィリップス監督はアーサーという男の虚しさや心の空洞を描きたかったように見えた。

そう見えた理由は簡単で、『フォリ・ア・ドゥ』がどこまでも悲劇だったからである。リーという女性と出会いアーサーは生きる意味を見つけ、人生に喜びを見出す。リーはジョーカーに陶酔する女性で、それはつまり彼の所業が運んでくれた運命の出会い。そりゃあ妄想とはいえ踊り出し歌い出したくなる気持ちはよく分かる。何より、1作目で誰にも理解されなかった彼が、あんなにも嬉しそうにしている姿に感動してしまった。だが、同時にアーサーには1つ問題が起きていた。それは、ジョーカーと自分は別人格であることを強調するよう弁護士に言われていたこと。冒頭のアニメの通り、ジョーカーは彼の影であり、事件はアーサーが起こしたものではないと主張しなければならなかったのだ。

実際、アーサーは精神疾患を患っている。しかしそもそもジョーカーとは別人格なのかと言えば、そうではないだろう。アーサーとジョーカーは地続きである。しかし、ジョーカーの名は社会を一人歩きし、人々が日頃の鬱憤を晴らすための分かりやすい記号へと変わってしまった。いやむしろ、最初からそうだったのかもしれない。1作目で生放送中に銃撃事件を起こしたアーサーを崇める人達は既に熱狂の中にあった。しかしそれはジョーカーを崇めているというよりも、彼のようなセンセーショナルな存在の登場に対する興奮によるものだった。海外でヴィーガンを撃ち殺した男性が、日本のSNSで写真を使われ話題になったのとそう違わない感覚である。一見アーサーは人々のカリスマになったように思えるが、その実アーサーの中にある虚無感は肥大化していた。

そして、その報いが訪れるのがこの『フォリ・ア・ドゥ』なのである。最終的にアーサーは自身はジョーカーではないと裁判中に発言し、事件は自分自身=つまりアーサーが起こしたものだと認めた。ジョーカーなどという偶像は存在しない、全ては自分の起こした事件だというのが彼の出した答えである。しかしその言葉は、彼が愛したリーを傷つける結果となってしまう。判決の後に突然建物が爆発し、道行く人に助けられ一旦脱走するアーサー。1作目でも重要なファクターとなったあの階段でリーと会うものの、彼女はアーサーを拒絶する。リーが愛していたのはあくまでジョーカーであり、凡人のアーサーにはそもそも何の興味もなかったのだ。

1作目から「こんなはずじゃない」とでも言いたげに自分自身の行いを誰かのせいにしてきたアーサー。彼が紆余曲折を経て6人の殺害を認めたという大きな変化は、残念なことに彼の求めるリーとの人生への道を完全に閉ざすことになってしまったのである。ここまで惨い悲劇を繰り出してくるとは恐れ入った。映画のテンションや構図は1作目とだいぶ異なるが、アーサーをどこまでも追い詰めようとする姿勢は一貫している。彼の人生の虚しさに共感したり、それを否定したりすることができるという意味では1作目と同様である。悪のカリスマなどではなく、愛に飢え社会に踊らされた哀れな男。その虚しい生き様に感動してしまったし、彼が最期に息子が幸せになれる世界を願ったというのも良かった。唐突ではあるものの、アーサーの胸にあったのは自分のような悲劇が後世に受け継がれないことなのだ。両親から認められず(それを後で知るのが更にキツい)育った彼が、愛に溢れる家族を作りたいと願うのはすごく自然で、その実現のためにはどこまでも社会が邪魔だったのである。そして最期まで彼は社会の道化としての役割を求められていく。きっとラストシーンの後、彼が死んだ後もジョーカーは世間に祀り上げられていくのだろう。アーサーの悲劇的な境遇と英雄的な死に様にスポットライトが当たり、彼の後継を名乗るまた別の悪のカリスマが生まれることになるかもしれない。しかしアーサーの愛に飢えた心は誰にも知られることなく、誰にも受け入れられることなく、見過ごされていく。一個人としてではなくジョーカーとしてのレッテルを貼られ続けていくのだ。それをアーサーは望まなかったが故に、事件について自白したというのに。

もちろん予想を含んでもいるが、以上が私の『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』に対する感想である。1作目と確かに地続きでテーマに対しても真摯だが、1作目を超えるインパクトには残念ながら出会えなかった。ただ、公開前の海外での評価を分析して「ジョーカー1作目に共感してしまった人が多すぎたために、その人達を痛烈に批判する内容」などとは到底思えない。先に映画の感想は人それぞれだと前置きしておいてアレだが。そもそもフィリップス監督は今作のインタビューにて「続編の案は1作目の撮影中に既にあった」「映画に政治的なメッセージは込めていない」と語っており、もちろん丸ごと鵜呑みにできるわけではないが、少なくとも監督がそういった見方を好んでいないことは明白だろう。もちろん1作目共感者へのしっぺ返しと捉えるのも個人の自由だが、少なくとも自分はこの2作に乖離はないと感じている。あくまで地続きであり、2作通してアーサーの空虚さを描いているのだ。

テイストとしては1作目がやはり素晴らしいが、2作目の終わり方やテーマも凄く良く、安易に駄作とは言えない。レディー・ガガの歌も聴くことができ、かなりお得感がある。ただ、バットマンのスピンオフとして、元々存在するヴィランを扱う作品としてはどうなんだろうなあと思わなくもない。言うほどバットマンに詳しくはないのだが、ジョーカーというビッグネームに乗っかった大作だなという思いは1作目から拭えずにいる。

しかし流れとしては1作目でアーサーが悪のカリスマ・ジョーカーとなるまでを描き、2作目の裁判でその化けの皮を剥がし彼の中身がすっからかんであることを説明し続けるという非道な行いが繰り出されていて、そこがかなり好みでもあった。1作目、ジョーカーの姿で踊りながら降りた階段を、2作目で「ジョーカーはいない」と結論づけたアーサーがゆっくりと上っていくのだ。構図や光の使い方も印象的で、1作目が陽なら2作目は陰という趣になっている。

面白いというよりもテーマの真摯さや一貫性が胸を打つタイプの映画だったため、次に観る機会があればじっくりと鑑賞したい。

ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ(オリジナル・サウンドトラック)

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