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ニジンスキー

ヴァスラフ・フォミッチ・ニジンスキー(Vaslav Fomich Nijinsky、1888-1950)
近代バレエに大きな影響を与えたロシアのバレリーノ。1888年3月12日、キエフに生まれる。
1908年サンクトペテルスブルクの帝室舞踏学校を卒業、マリインスキー劇場のソリストになる。
背が低くずんぐりした体型で、バレリーノとしてはかなりの異形と言える。
1911年、ディアギレフにより創設されたロシア・バレエ団のトップダンサーとして活躍。
「舞台の端から端まで跳んだ」「空中に静止して見えた」「そのまま永久に跳び続けるかのよう」等と言わしめた驚異的な跳躍力を持ち脚光を浴びるが、自ら振り付けを行った「牧神の午後」(1912)では敢えて跳躍や回転といった激しい動きを殆ど行わず、また性的な表現でセンセーションを巻き起こした。
この件からディアギレフとの仲が悪くなり、加えて彼に無断で結婚したことで1913年ロシア・バレエ団を追われる。
1918年頃から精神病の兆候が現れ始め、以降は踊ることもなく各地の精神病院を転院、1950年に60歳でこの世を去った。

ニジンスキー

ニジンスキー(Nijinsky II

生年月日 1967年2月21日生まれ、牡、鹿毛
生産者 Edward P.Taylor(加国)
Northern Dancer(ノーザンダンサー)
Flaming Page
母の父 Bull Page
馬主 C.W.Engelhard
管理調教師 Michael Vincent O’Brien(愛国)
競走成績 13戦11勝(英・仏)
主な勝ち鞍 英2000ギニー 英ダービー 愛ダービーキングジョージ6世&クイーンエリザベスDS 英セントレジャー
備考 全弟ミンスキー(*Minsky

現在のところ最後の英国三冠馬。大種牡馬ノーザンダンサーの最高傑作とする意見も多く、事実ヨーロッパでのノーザンダンサー・ブームのきっかけはこの馬の活躍であった。馬名はロシアの伝説的バレエ・ダンサー、ヴァーツラフ・ニジンスキー*1に由来している。
デビューから連勝街道をひた走り、無敗の11連勝で35年振り*2に三冠を達成した。しかし、凱旋門賞でササフラに、続く英チャンピオンSでもロレンザッチョに敗れ、結局これを最後に通算13戦11勝で引退した。最後の2連敗は三冠最後の長距離戦、英セントレジャーに出走した疲れが原因と言われており、現在まで続く「有力馬が英セントレジャーへの出走を敬遠する風潮」が定着してしまう決定打となってしまった。
引退後は種牡馬としてノーザンダンサーの後継として大きな期待が寄せられ、そしてそれに相応しい実績を残した。カーリアン、ラムタラ、シャーラスタニファーディナンドなど欧米で多数の活躍馬を輩出、日本では持込馬のマルゼンスキーが旋風を巻き起こした。1992年4月15日死亡。

ニジンスキー(Nijinsky)の血統

Northern Dancer Nearctic Nearco Pharos
Nogara
Lady Angela Hyperion
Sister Sarah
Natalma Native Dancer Polynesian
Geisha
Almahmoud Mahmoud
Arbirator
Flaming Page Bull Page Bull Lea Bull Dog
Rose Leaves
Our Page Blue Larkspur
Occult
Flaring Top Menow Pharamond
Alcibiades
Flaming Top Omaha
Firetop

リスト::競走馬

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