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バルトーク
Bela Bartok/ベーラ・バルトーク 1881-1945、ハンガリーの作曲家。
代表作
- 「弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽」
- 「管弦楽のための協奏曲」(1943)
- 「ピアノ協奏曲第3番」(1945)
- 弦楽四重奏曲第1番〜第6番(1908,1917,1927,1928,1934,1939)
- 青ひげ公の城(1911)
- 無伴奏ヴァイオリンソナタ(1944)
などがある。
年譜
1905年、ルビンシュタイン音楽コンクールでピアノ部門2位になり、ピアニストとして道を選ぶのか相当の落胆をする(なお、優勝者はヴィルヘルム・バックハウスである)。
1906年、コダーイ・ゾルターンに出会い、各地の農民音楽を採集するようになる。
1909年、ツィーグレル・マールタと結婚。翌年長男ベーラ(ジュニア)が生れる。
1911年、政府により政治的見解から台本の作家バラージュ・ベーラ(Balázs Béla)の名を伏せるように圧力をかけられていたが、それを拒否し同時に仕事から身を引く。
1914年、第一次世界大戦の勃発によりこうした民謡の収集活動を断念して作曲活動に戻り、1914年から16年にかけてバレエ音楽「かかし王子」、1915年から17年には「弦楽四重奏曲第2番」を書く。この《かかし王子》によってある程度国際的な名声を得る。
1923年、ツィーグレル・マールタと離婚し、ピアノの生徒ディッタ・パーストリと結婚。翌年次男ペーテル誕生
1940年、第二次世界大戦の勃発の後、圧制を嫌い、アメリカ合衆国へ移住。コロンビア大学で民族音楽の名誉博士号を得る。
1942年、白血病に蝕まれる。1943年にはアメリカ作曲家協会の援助でサラナクレイクで療養生活を送る。貧窮したバルトークのために指揮者フリッツ・ライナー、ヴァイオリニストであるヨーゼフ・シゲティらの働きかけがあって、指揮者セルゲイ・クーゼヴィツキーがボストン交響楽団に委嘱(彼の生誕70周年とBSO就任20周年を記念)した作品が「管弦楽のための協奏曲」である。
1945年、ニューヨーク、ブルックリン病院で死去。妻の生活のために作曲した「ピアノ協奏曲3番」は17小節を残して、ウィリアム・プリムローズから依頼された「ヴィオラ協奏曲」はスケッチのままで、それぞれ未完に終わった(両曲とも友人のティボール・シェルリによって補筆完成された)。
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