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ホロヴィッツ
Vladimir Horowitz(1903-1989)
ピアニスト
年譜
- 1903年10月1日:ロシア,ベルディチェフ生まれ.
- 1915年9月:キエフ音楽院セルゲィ・タルノフスキーのクラスに移動編入
- 1919年11月:セルゲィ・タルノフスキーの後任ブルーメンフェルドに師事
- 1926年:ベルリンでデビュー.名前もヨーロッパ風に改名.すまわちヴラディミール・サモリオヴィッチ・ゴロヴィッツをヴィラディミール・ホロヴィッツに改めた*1。
- 1923年:リストのピアノ協奏曲1番をグラズーノフ指揮レニングラードPOと演奏
- 1924年:ラフマニノフピアノ協奏曲3番をヴァレリア・ベルディアエフ指揮レニングラードPOと演奏
- 1926 パリ社交界デビュー
- 1927年:
- 1928年:
- 1月:トーマス・ビーチャム指揮NYPOとのチャイコフスキーのピアノ協奏曲1番を演奏(有名なエピソード)
- 3月:セルゲィ・クーセヴィッキー指揮ボストン交響楽団とラフマニノフピアノ協奏曲3番を演奏
- 1930年:ラフマニノフピアノ協奏曲3番をウィレム・メンゲルベルグ指揮ロンドン交響楽団と演奏
- 1931年:ホロヴィッツ、ピアティゴルスキー、ミルシュテインのピアノ三重奏デビュー
- 1933年:トスカニーニ指揮ニューヨーク・フィルによるベートーヴェン連続演奏会
- 1934年:
- 1935年:
- 1月:イギリス、アイルランド演奏旅行
- 3月:トスカニーニ指揮NYPOとブラームスピアノ協奏曲1番演奏
- 1936年:
- 2月:ワルターとブラームスピアノ協奏曲1番を演奏
- 9月:盲腸の手術を受ける.その後一回目の演奏活動停止して引退、隠遁.
- 1937年:ヴェネツィアにて義姉ワリーの家で私的演奏会。
- 1938年:
- 1953年:ミネアポリスの演奏会後、大腸炎で入院.二回目の演奏会活動停止.
- 1957年:
- 1月16日:義父トスカニーニ死す。
- 6月:22歳の長女ソニアが海岸でモーター・スクーターによる瀕死の重傷。録音活動停止。
- 1962年:コロンビアに3年契約で移籍,最後の録音.これが1962年度のグラミー賞をとる*2.
- 1965年:12年ぶりにカーネギーホールで歴史的復帰演奏会.
- 1966年:カーネギーホールで演奏会.
- 1968年:CBSでTV・コンサートを録画.TV放送最初のクラシック・ピアノ・リサイタルとなる.
- 1969年:ボストン・シンフォニー・ホールでのリサイタルを最後に演奏会から引退.三回目の演奏活動停止.1971年4月まで録音活動も停止.
- 1974年:
- 5月:クリーヴランド セヴェランス・ホールで演奏活動再開.
- 11月:メトロポリタン歌劇場でリサイタル。
- 1978年:
- 1月:オーマンディとNYPOとの協演でラフマニノフピアノ協奏曲3番を演奏(オーケストラ協演は25年ぶり).
- 2月:ホワイトハウス(東の間)・リサイタル.このとき当時のアメリカ大統領カーターはホロヴィッツ氏は国宝ですと宣言.
- 1979年9月:メータ指揮NYPOでラフマニノフの3番をNBC放送系で生放送(衛星でヨーロッパへも同時中継).
- 1981年:メトロポリタン歌劇場リサイタル.
- 1983年:来日
- 1986年:モスクワにて演奏会.来日
- 1989年:11月5日:アメリカ・ニューヨークで死去。享年86歳。
語録
ピアニストにはホモセクシュアルとユダヤ人と下手糞しかいない.→”There are three kinds of pianists: Jewish pianists, homosexual pianists, and bad pianists”
これで私が1番だ(ウィリアム・カペルの死に際して)
作品
- カルメン幻想曲(編曲)
- 星条旗よ永遠なれ(編曲)
その他
- 世界中のピアニストから神様扱いされたちょっと尋常じゃない人。
- 超絶技巧のテクニックを駆使した編曲家としても有名。
- 彼の信奉者、追随者は後を経たず、ちょっと検索するといくらでも彼を称えたHPは出てくる。
- 日本には1983年と1986年に来日したが、1983年の初来日時は不調なことも手伝って、吉田秀和によって「ひびわれた骨董」なんて評された。
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