安本美典とは 一般の人気・最新記事を集めました - はてな (original) (raw)

安本美典

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一般

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やすもとびてん

1934年満州生まれ。京都大学文学部心理学科卒。元産能大学教授。
文章心理学、計量文献学、日本古代史、日本語史についての著作が多い。
統計学では『因子分析法』という著作がある。
文体統計による筆者推定−源氏物語,宇治十帖の作者について−、心理学評論、1958、Vol.2、No.1では「源氏物語」の宇治十帖は雲隠れまでと文体が違い作者が違うという主張をしている。
数理文献学の手法による日本古代史・日本語史の研究でも知られ、「天照大神=卑弥呼(+台与)」「高天原=邪馬台国=九州北部」を核とした著述が多数。「季刊 邪馬台国」の責任編集者。

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ヒナフキンの縄文ノート3年前

縄文ノート97 3母音か5母音か?―縄文語考女神調査報告2で「千鹿頭(ちかとう)」や下浜御社宮司(みしゃぐじ)神社の「三狐神(みけつかみ)」の語源を書きましたが、その前提として2018年に書いた「3母音か5母音か?―古日本語考」を修正して先に紹介しておきたいと思います。 『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)で書き、前に縄文ノート「93 『カタツムリ名』琉球起源説からの母系制論―柳田國男の『方言周圏論』批判」「94 『全国マン・チン分布考』からの日本文明論」でも少しふれましたが、倭語分析の基本として私は「縄文語からの3母音と5母音の分岐説」を提案します。 これまで「本土の5母音が琉球で3母音方言に変わった」という…

#3母音と5母音#縄文語#方言周圏説#柳田國男#安本美典#宮良信詳#琉球弁#大野晋

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6ブックマーク安本美典 - Wikipedia安本 美典(やすもと びてん、1934年2月13日 - )は、日本の心理学者・日本史研究家(古代史)。文章心理学、計量比較言語学[注 1]日本古代史の分野で著書及び論文がある。日本行動計量学会会員。 来歴[編集] 満洲国奉天省鞍山市に生まれ、1946年に帰国して岡山県高梁市で育つ。岡山県立高梁高等学校を経て、京都大学文...ja.wikipedia.org

関連ブログ

暇な年寄りtomyKのブログ4日前

神話・記紀・倭人伝を繋ぐ 物部氏の東征2024年10月10日時点での考察 ど素人ですので、他人の意見を聞く度 今までの考えが大きく変わります。ご容赦ください。 神武東征の疑問箇所 時代 (宗書)478年 倭王武は中国に使いを出した。 倭王武=21代雄略天皇であろう(定説) 初代神武天皇の間には20代あるので278年が、神武天皇の時代である。 天照大御神は、神武天皇の5代前=50年前 〔安本美典氏(統計学)中世以前の統計で世界の帝王は10年で代替わりしている。〕 卑弥呼=天照大御神の確率が高い 天のやすかわの地に隠れた 夜須では?小石原川(旧 ヤスカワ)は朝倉を通って筑後川水系に 万幡豊秋津師比売命(よろづはたとよあきづしひめのみこ…

4〕日本天皇・日本民族と中国・朝鮮両民族との2000年戦争。日本脳。心理学。日本民族の祖先。2ヶ月前

🗻21〕─1─沼津市の東西最古級の高尾山古墳で“東海勢力”。古代王国による弥生の大乱。~No.68No.69No.70 ・ ・ ・ 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。 ・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・ 古代日本の四大王国とは、大和、吉備、筑紫、出雲であった。 日本全国には大小数多くの王国があり、王国同士は戦争を繰り返して殺し合っていた。世に言う「弥生の大乱」である。 西日本と支配したヤマト王権にとって、東日本はヤマト大王に従わない蛮族の土地であり抵抗する蛮族は「まつろわない(従わない)」人々であった。 ・ ・ ・ 2024年8月2日 YAHOO!JAPANニュース 歴史人「工事中に発見された高尾山古墳の謎 東西最古級の古墳から考える“東海勢力”が存在した可能性 日本列島に広く王権…

【本 買います】JR小倉駅北口(新幹線口)古書城田6ヶ月前

本の買取強化中です。JR小倉駅北口「小倉の古本屋」古書城田 JR小倉駅北口(新幹線口)の古本屋、古書城田です。北九州市内をはじめ福岡県内&近県、本の出張買取、本の遺品整理を行なっています。大量歓迎です。査定無料、出張費無料です。どうぞご相談くださいませ。 (買取専門)090-8839-9159 メール:shirota@mx71.tiki.ne.jp 古物商許可証 [第32483号/福岡県公安委員会] 全国古書籍商連盟北九州古書組合所属 店舗はJR小倉駅北口、徒歩1分の場所にございます。ファミリーマート小倉駅北口店さんのすぐ裏手となります。ご来倉の折は、どうぞお気軽にお立ち寄りくださいませ。 〒…

超革新ひふみ神示7ヶ月前

東遷したのは邪馬台国ではなく日本*今回は新情報はあまりないです。 諸説の整理・照合くらいかな。 昨年末から今年の正月にかけて紹介した 「古代史の復元」というサイトでは 神武天皇即位をAD82年末ではないかとし、 倭国大乱を紀元67年から119年の間とし、 7.80年後(後漢書によると147~189年の間)に 卑弥呼が女王となって大乱がおさまったとされています。 したがって、饒速日尊の河内降臨はさらに早く、 紀元前100年頃と想定されています。 「古代史の復元」が独特なのは 方形周溝墓や四隅突出型墳丘墓の分布から そうした推論を補強している点です。 大和朝廷成立後に畿内系土器が全国に見られるようになるが, この土器は河内地方の…

ヒナフキンの縄文ノート8ヶ月前

「邪馬台国ノート54 『神武東征』は『若御毛沼(わかみけぬ)東進』」の紹介Seesaaブログに「邪馬台国ノート54 『神武東征』は『若御毛沼(わかみけぬ)東進』」をアップしましたので紹介します。http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/ 笠沙天皇家3代の始祖ニニギの「天下り」なるものは、筑紫日向(ちくしのひな:旧甘木市の蜷城(ひなしろ))の高台・高天原の卑弥呼(霊御子=大霊留女=アマテル)の死後の後継者争いで女王派(壹与派)に敗れた男王派のニニギが女王派の国々を避け、険しい九州山地を薩摩半島南西端までの逃避行であることはすでに明らかにしました。 続く笠沙天皇家4代目の若御毛沼(ワカミケヌ)3兄弟の皇国史観のいうところの「神武東征」…

たっちゃんの古代史とか9ヶ月前

吉野ヶ里遺跡の神殿は、日時計・カレンダーの施設だった件(卑弥呼が使った鴨)前々回には、倭迹迹日百襲姫命(やまととひももそひめ)は、時間を司る巫女だとか言ってました。前回には家屋文鏡には日時計が描いてあるとか言ってました。 今回は日時計が設置されていた場所が、見つかったとか言ってます。 吉野ヶ里遺跡の変な環濠集落 弥生時代の後期、倭迹迹日百襲姫命が時間を日々測ったのは神浅茅原。それは奈良だと言われてるのですが。どうもそうとは限らない感じがします。 というのも奈良の三輪山と同じ名前の山が、福岡の筑前町にもあるからなのです。現在は小鷹城山と呼ばれてますが、その昔は大三輪山だったそうですよ。 その福岡の大三輪山に向かって中心軸をむけてるのが、弥生時代に作られた吉野ヶ里遺跡の…

学舎の記憶|廃校を旅するブログ|10ヶ月前

新発田市立五十公野小学校天の原分校■学校データ 創立:1887年 ・尋常科内竹小学校として開校。 ・1901年に五十公野村立天ノ原尋常小学校と改称。 ・1911年に五十公野村立五十公野尋常高等小学校天ノ原分教場と改組。 ・1941年に五十公野村立五十公野国民学校天ノ原分教場と改称。 ・1947年に五十公野村立五十公野小学校天の原分校と改称。 ・1955年に市町村合併により新発田市立五十公野小学校天の原分校と改称。 閉校:1966年 コメント: 若干場所をミスった。跡地には保育園が建っているのだが、その向かって左隣が実際の敷地になっていたようだ。しかし保育園の遊具などがあり、保育園自体も現役の施設のため写真撮影を控えた結果、敷地…

西田利の日記1年前

2023年11月15日の日記自宅サーバー上の同じ記事 [その他]朝 6時に起床。7時まで前日の日記を書くが、終わらず。 [メシ]朝飯 松江ユニバーサルホテルのビュッフェ朝食。 [その他]午前 シャワー。乾燥肌予防に腰と背中にニベアを使う。いまは予防だが、乾燥肌が出る年は11月半ばから出ている。 近くのα-1に泊っている西新宿のKさんと8時20分に待ち合わせ。 Kさんのレンタカーで松江市内の現場に向かう。 装置が1台入っている現場で、機械的な点検、運転を伴わない警報等の点検、運転を伴わない電気的点検。 [メシ]昼飯 早めの昼食。西新宿のKさんがいっしょの時は王将と決まっている。大阪王将でも餃子の王将でもいいらしい。現場近く…

邪馬台国「新証明」1年前

(B120) 「苅谷俊介」氏の纏向遺跡に関する説について([追記]では「古墳時代」の名称について)前記事で、「大型建物の”柱列中心線の延長線上”に箸墓古墳の後円丘の中心が有る」という事実関係を紹介しました。 纏向を都として、都市計画の可能性が有りますが、そうなると色々考察が膨らみます。 例えば、箸墓古墳は平地(緩やかな扇状地)に盛り土をして築造したと推測されています。これは箸墓古墳より後の「丘陵切断型」に比べて工期も投入人員・資材等も多く必要であることは確実です。それは当時の人も重々分った上で、都市計画を優先して箸墓古墳は「盛り土型(当方仮称)」にしたことが推測できます。 しかし、その後は「丘陵切断型」になったのは何故か? 個人的には「曹操の薄葬令」が倭まで影響したのではないかという推測を…

邪馬台国「新証明」1年前

(B119) ”纏向遺跡大型建物と箸墓古墳の配置は都(みやこ)の都市計画だった”仮説アヂ@csagevさんから吉備について以下のコメントを頂きました。 <吉備分裂自体は2世紀末か2世紀いっぱい(〜庄内式前半)と考えます。AD200前後には最初に瀬戸内と南関東(廻間I式末〜II式初)で前方後円墳が出現し、吉備の纒向型前方後円墳と大規模な弧帯文様の変化を経た宮山式、矢藤治山式の出現が庄内式後半併行で卑弥呼共立後と考えられ3世紀初頭〜前半です。> →当方も吉備に大きな関心を持っていて、アヂさんの知見と考察に納得性を感じました。この件も深掘りしてみたいのですが、その前に「吉備の後のどこかの時期に倭の中心となった」ことが確実な纏向遺跡について先に当方の考えを述べておきます。 纏向遺跡と…

超革新ひふみ神示1年前

縄文人を右翼だと思う? チャラい奴ほど幅をきかせてどういう仕組みなのか、YouTubeで 「講演番号 関西の巨大古墳は誰が造った?その2 講師:内倉武久」 などで検索しても、「その1」や「その3」が全然出てこず、 全く関係ないようなのが上位にあがってくる事があります。 「武内宿禰 内倉武久」などでも同様です。 上がってくる(ゴリ押しされてる)動画の質の低さに 閉口するというか・・・。 まぁ内倉先生の講演も、タイトルが大きく違っても 内容は重複が多かったり、何でも九州に結びつける傾向が あったりもしますが、そういう方向から見る方なのだと 知った上で、その方向からの見方を学んでみる分には 新しい見方の獲得はプラスになるでしょう。 一つの見方を獲得…