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伊藤博

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いとうひろし

国文学者。(1935年-1991年11月12日)
神奈川県生まれ。東大文学部国文科卒、同大学院博士課程中退、九州大学教養部助教授、中央大学文学部教授。

著書

校注

伊藤博

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いとうはく

(1920〜2003)、長野県生まれ。1952年、京都大学文学部卒業、文学博士。国文学専攻、戦後の万葉集研究の第1人者。筑波大学教授、共立女子大学教授を歴任。万葉学会代表を務めた。1995年、長年の研究の集大成として、万葉集の個人全注釈・『万葉集釋注』全13巻・集英社を刊行。

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万葉集の歌碑めぐり1日前

万葉集の世界に飛び込もう(その2683)―書籍掲載歌を中軸に(Ⅱ)―●歌は、「あをによし奈良の大道は行きよけどこの山道は行き悪しかりけり(中臣宅守 15-3728)である。 【奈良の大路】 「中臣宅守(なかとみのやかもり)(巻十五‐三七二八)(歌は省略) 平城京が、南北にわたる朱雀大路を中心に左右両京にわかれ、各条坊にくぎられていた・・・条大路は東西の道で九本、坊大路は南北の道で左右各四本、方四町の坊は小路により方一町の一六個の坪にわかれていた。なお、京東には四条三坊よりなる外京(げきょう)が営まれていた。いまの奈良市街はそれにあたる。・・・中臣宅守の越前流罪のことはいつのことともわからないが、天平一二年(七四〇)大赦があったとき、赦免にならなかった者の中に彼…

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tamutamu2024のブログ2日前

同性パートナーの「家族」扱いを事業案内に明記へ 東京23区の職員互助組合 運用変更後も3年周知せず(2024年10月9日『東京新聞』)東京23区の常勤職員ら約6万7000人が加入する「特別区職員互助組合」は8日、福利厚生事業などで組合員の同性パートナーを「家族」として扱うことを、事業案内に明記して周知することを決めた。既に宿泊や娯楽施設の割引などで、家族の範囲に同性パートナーを含む運用をしているものの、3年余公表していなかった。 組合によると、23区の職員らは自動的に組合員となり、給与額に応じた組合費が毎月天引きされる。 「特別区職員互助組合」の事業案内冊子。同性パートナーを「家族」として扱うことを明記していなかった 運用変更を周知していなかったことは、今月2日の世田谷区議会で判明した。上川あや区議が「情報提供の欠落、実質的…

万葉集の歌碑めぐり2日前

万葉集の世界に飛び込もう(その2682)―書籍掲載歌を中軸に(Ⅱ)―●歌は、「たち変り古き都となりぬれば道の芝草長く生ひにけり(田辺福麻呂 6-1048)」である。 本稿から、「万葉の旅 上 大和」 犬養 孝 著 (平凡社ライブラリー)の「奈良」である。 順に読み進んでいこう。 【平城京】 「田辺福麻呂歌集(巻六‐一〇四八)(歌は省略) 近鉄の西大寺駅から一条北大路を東へ秋篠川をわたってすすむと、北側には佐紀(さき)の民家のうしろに、低い丘陵の佐紀の山がつづき、駅から・・・一・五キロほどで民家のあいだにこんもりした森の平城天皇陵が見える。その真南にあたって、道路の南側一帯に平城宮址がのこされている。そこは旧二条大路以北の中央にあたる。・・・かつて天平一二年(7…

万葉集の歌碑めぐり4日前

万葉集の世界に飛び込もう(その2681)―書籍掲載歌を中軸に(Ⅱ)―●歌は、「・・・言さへく 百済の原ゆ 神葬り 葬りいまして あさもよし 城上の宮を 常宮と 高く奉りて 神ながら 鎮まりましぬ しかれども 我が大君の 万代と 思ほしめして 作らしし 香具山の宮 万代に 過ぎむと思へや・・・(柿本人麻呂 2-199)」である。 【城上の墓】 「柿本人麻呂(巻二‐一九九)(歌は省略)これは持統一〇年(六九六)七月、天武天皇の皇子の高市皇子が亡くなったとき、城上(きのへ)の殯(あらき)宮の儀式のおりの、人麻呂の 長歌の一節である。この長歌は全篇一四九句から成り、万葉中の最長歌であって、とくに、皇子が指揮にあたった壬申の乱の近江進攻の場面は壮大な叙事詩的な古代戦争文…

万葉集の歌碑めぐり4日前

万葉集の世界に飛び込もう(その2680)―書籍掲載歌を中軸に(Ⅱ)―●歌は、「百済野の萩の古枝に春待つと居りしうぐひす鳴きにけむかも(山部赤人 8-1431)」である。 【百済野】 「山部赤人(巻八‐一四三一)(歌は省略) 田原本(たわらもと)の西南四キロほどのところに、・・・北葛城郡広陵町百済・・・がある。この辺一帯の平野がひろく百済野または百済の原であろう。・・・百済寺の址がある。<百済大寺と説明がなされているが、脚注に、百済大寺の建立地については、桜井市吉備で発掘された『吉備池廃寺』説が有力視されている、と書かれている。>・・・山部赤人のこの歌は、おそらく平城京で迎えた春の日に、かつて通ったであろう百済野を回想して、百済野にも春を告げる鶯の声を思い描いた…

万葉集の歌碑めぐり5日前

万葉集の世界に飛び込もう(その2679)―書籍掲載歌を中軸に(Ⅱ)―●歌は、「真鳥棲む雲梯の杜の菅の根を衣にかき付け着せむ子もがも(作者未詳 7-1344)」である。 【雲梯の社】 「作者未詳(巻七‐一三四四)(歌は省略)・・・雲梯(うなで)の村なかから曾我川の橋を東へわたると、すぐ橋ぎわにこんもりと大木の茂った森がある。ここが雲梯神社の森で、いま天神社といわれる小さな社である。(注 河俣神社がこの天神社である) 畝傍山から西北二キロほどのところである。もと、出雲の事代主(ことしろぬし)神をまつった社として、真鳥(鷲など)の住む鬱蒼(うっそう)たる森となって、その威霊を恐れられもしたのであろう。『菅(すが)の根を衣(きぬ)にかき付け』は菅の根を染料にして衣にす…

万葉集の歌碑めぐり6日前

万葉集の世界に飛び込もう(その2678)―書籍掲載歌を中軸に(Ⅱ)―●歌は、「ま菅よし宗我の川原に鳴く千鳥間なし我が背子我が恋ふらくは(作者未詳 12-3087)」である。 【曾我川】 「作者未詳(巻十二‐三〇八七)(歌は省略)・・・曾我川は巨勢(こせ)の谷重阪(へえさか)峠に発して(重阪川)、越智をすぎ、曾我の南で檜隈川をあわせ、飛鳥川(東)や葛城川(西)とならんで平野を北流し、大和川にそそいでいる。曾我の村は蘇我氏の本拠ともいわれるが、蘇我部の部民による名ではなかろうか。・・・『千鳥の声の絶え間のないように、わたしはあの男(ひと)を恋こがれている。』竹田庄での大伴坂上郎女の歌もこれに似た表現だった。こうした類歌はたいへん多く、下二句の類型的表現の上に、上三…

万葉集の歌碑めぐり7日前

万葉集の世界に飛び込もう(その2677)―書籍掲載歌を中軸に(Ⅱ)―●歌は、「うちひさつ三宅の原ゆ直土に足踏み貫き夏草を腰になづみいかなるや人の子ゆゑぞ通はすも我子うべなうべな母は知らじうべなうべな父は知等地蜷の腸か黒き髪に真木綿もちあざさ結ひ垂れ大和の黄楊の小櫛を押へ刺すうらぐわし子それぞわが妻(作者未詳 13-3295)である。 【三宅の原】 「作者未詳(巻十三‐三二九五)(歌は省略) ・・・一首としては自問自答になっている。『真木綿(まゆふ)』は楮(こうぞ)の繊維のきれ、『あざさ』髪の形か飾か、植物説もある。古代の演劇風な歌曲としてうたわれた歌であろう。『みやけ』はもともと屯倉、すなわち皇室御料地の稲穀を収める倉庫の意で、したがってこの地名は各地にあるが…

万葉集の歌碑めぐり8日前

万葉集の世界に飛び込もう(その2676)―書籍掲載歌を中軸に(Ⅱ)―●歌は、「うち渡す竹田の原に鳴く鶴の間なく時なし我が恋ふらくは(大伴坂上郎女 4-760)」である。 本稿から、「万葉の旅 上 大和」 犬養 孝 著 (平凡社ライブラリー)の「平野南部」である。 順に読み進んでいこう。 【竹田の庄】 「大伴坂上郎女(巻四‐七六〇)(歌は省略) 耳成山の東北二キロほどのところに寺川(竹田川)の小流をはさんで東竹田の村があり、式内竹田神社の小森が村中の川岸にある。このあたりに大伴家の領地があって竹田の庄(たどころ)といわれていた。南に三山をのぞみ、東方はるか三輪巻向の山々をのぞむ平野のただ中でまさに『うち渡す(見渡す)竹田の原』である。作者の大伴坂上郎女は旅人(た…

万葉集の歌碑めぐり9日前

万葉集の世界に飛び込もう(その2675)―書籍掲載歌を中軸に(Ⅱ)―●歌は、「吉野にある菜摘の川の川淀に鴨ぞ鳴くなる山陰にして(湯原王 3-375)」である。 【なつみの川】 「湯原王(巻三‐三七五)(歌は省略) 宮滝の柴橋の上から上流真東に見える山地は菜摘(なつみ)(吉野町)であって、吉野川は菜摘の山裾を東側から北側、そして西側と曲流し、さらに宮滝へと西流している。この菜摘の村の西側を流れる部分を『夏見(なつみ)の川』といったのであろう。・・・なんとも静寂の山川である。万葉の歌がそのままそこにいきづいているようなところだ。 この幽暗な山かげの淀みで鴨が鳴くなら、声はせまい谷あいから空へと澄みとおってきこえるだろう。『吉野なるなつみ』『なくなる』の同音のひびき…

万葉集の歌碑めぐり10日前

万葉集の世界に飛び込もう(その2674)―書籍掲載歌を中軸に(Ⅱ)―●歌は、「山高み白木綿花におちたぎつ瀧の河内は見れど飽かぬかも(笠金村 6-909)」である。 「笠金村(巻六‐九〇九)(歌は省略) 宮滝付近にはやくから人の住んでいたことは、縄文式や弥生式の土器が発掘されていることでわかる。・・・万葉の吉野はほとんどこの付近に集中しているといってよく、山川の吉野川を中心として、春秋の花紅葉、白雲や霧の去来、千鳥やかじかの声など景観はあくことなく、歴代従駕の諸歌人のよってたたえられている。しかしなんといってもその中心は、この地の『滝(たぎ)』(激湍)であって、『たぎ』『たぎち』『たぎつ』『たぎのみやこ』『たぎつ河内』『たぎの河内』など延べ二十余を数える。その場…

万葉集の歌碑めぐり12日前

万葉集の世界に飛び込もう(その2673)―書籍掲載歌を中軸に(Ⅱ)―●歌は、「我が行きは久にはあらじ夢のわだ瀬にはならずて淵しありこそ(大伴旅人 3-335)」である。 【夢のわだ】 「大伴旅人(巻三‐三三五)(歌は省略) 大伴旅人が大宰帥となって九州におもむいたのは神亀五年(七二八)ごろと推定される。赴任してまもなく愛妻を失い、老年ではあり、遠い田舎に身をおいて、それだけに大和への郷愁の思いはしきりであった。・・・文人でもあった旅人には前の歌でもこの歌でも吉野の風趣への思慕がひとしお強かったようである。『夢(いめ)のわた』は象(きさ)の小川が吉野川にそそぐ、大きな岩にかこまれた深淵のところといわれる。当時の漢詩集『懐風藻(かいふうそう)』にも『今日夢淵上。遣…

万葉集の歌碑めぐり12日前

万葉集の世界に飛び込もう(その2672)―書籍掲載歌を中軸に(Ⅱ)―●歌は、「昔見し象の小川を今見ればいよよさやけくなりにけるかも(大伴旅人 3-316)」である。 【象の小川】 「大伴旅人(巻三‐三一六)(歌は省略) 象(きさ)の小川は吉野山の金峯山(きんぶせん)と水分(みくまり)山とに発して山裾で合流し、象山と御船山とのあいだの喜佐(きさ)谷を北流して吉野川にそそぐ小流である。その落ち口から小流にそって喜佐谷道にはいると、〇・三キロほどで、川に沿って杉の巨木にかこまれた桜木社(天武をまつる)の幽邃(ゆうすい)な森がある。・・・この歌の長歌(三一五)の題詞に『暮春之月』とあっていつの時かわからないが、『続日本紀』によれば、聖武天皇の初年、神亀元年三月のことと…

万葉集の歌碑めぐり14日前

万葉集の世界に飛び込もう(その2671)―書籍掲載歌を中軸に(Ⅱ)―●歌は、「み吉野の像山の際の木末にはここだも騒く鳥の声かも(山部赤人 6-924)」である。 【象山】 「山部赤人(巻六‐九二四)(歌は省略) 離宮址と伝えるところから吉野川を挟んで真南に見える左右の傾斜の急な山が象山(きさやま)である。東方は喜佐(きさ)谷を挟んで御船山、西方は御園(みその)上方の山との間にあるから象の中山ともよばれ、(巻一‐七〇)(歌は省略)の高市黒人(たけちのくろひと)の歌もある。吉野川の谷は渡り鳥の通路でもあって、しぜん鳥の声も多く、宮滝付近の歌にはほととぎす・呼子鳥・千鳥・鴨など、鳥の声が多くよまれている。山部赤人・・・聖武行幸のおりの作である。大きい景から小さい一焦…

旭亭だより14日前

『萬葉集』と『妹の力』『神聖喜劇』を読むには『萬葉集』は必携です。新潮古典集成の『万葉集』があるのですが、伊藤博著『萬葉集釋注』を、十巻本ですので初句索引のある第一巻を、手許に置いています。柳田国男の『妹の力』の引用がありましたので、それも引っ張り出して読んでいます。在庫で間に合うので、揃えておいた過去の自分に感謝しています。退職後の読書計画は何度も変更されました。当初は日本の時代小説と海外のミステリーの新刊を読むつもりでしたが、未読の本を減らすことに変わりました。今は再読が多くなっています。