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吉田拓郎

本名も吉田拓郎。
1946年4月5日鹿児島県大口市に生まれる。
1955年広島に転居。
1970年6月「イメージの詩/マークII」でデビュー*1
71年夏、第3回全日本フォークジャンボリーに出演。「サブステージ」に於けるおよそ2時間にも亘る「人間なんて」の熱唱、というよりは激唱は最早、伝説的に神話化されているところである*2
1972年、シングル「結婚しようよ / ある雨の日の情景」、さらに「旅の宿 / おやじの唄」が次々にヒット。さらにアルバム『元気です。』は、オリコンチャート通算15週連続で一位を独走し続け、「たくろう」は、一躍スターダムへとのし上がることになるが、さらにこのことが結果として、今まで「アングラ」的要素もその所々に入り交じっていた「フォーク」という音楽ジャンルを、一般にも認知させてゆく上での大きなきっかけともなった*3
同年、日本で初めてツアー形式の全国コンサートを敢行。
73年8月、立風書房から出した初めての自著・エッセイ集『気ままな絵日記』がベストセラーとなる。
同年12月、本格的なブラス・ストリングスを加えて同年11月下旬の2日間にわたり中野サンプラザホールにて行われたライブ演奏曲目から精選し、これらを『LIVE'73』というアルバムに纏めてリリース*4。日本に於ける初めての本格的ライブアルバムとしての定評も高い殆ど文句なしの名盤であり、これは最早フォークアルバムというよりむしろファンクの領域へまで突き抜けていると評する方がより適切であるとする意見もある程である。蓋し拓郎の楽曲が、フォークという一つの音楽ジャンルに決して縛られては居ない所以を構成するものである。また、拓郎のよく知られた代表曲となった「落陽」も、このアルバムに於いて初めて発表されたということは、これも注目に価することであり、この時代の拓郎がまさに絶頂期の真っ只中にあったことをこのアルバムもまた、如実に示しているに違いないのである。
さらにまたこの年に於いては、水面下で、何とあのザ・バンドとの共演の話が進めらて居たのであり、「口頭では契約にこぎつけ公演会場も決まっていたが、」本家のボブ・ディランの例の「偉大なる復活」にちょうとぶつかってしまうこととなり、「流れる」*5。もしこれが実現していたならば、未だに洋楽信仰の根強い我が国の、舶来崇拝的な特殊事情を鑑みるならば、後述する「吉田拓郎・かぐや姫 コンサート イン つま恋」」以上の伝説となっていたに違いないだけに、日本のポピュラーミュージック史の上でも、返す返すも残念なことであったと言わねばならぬところである。
74年、最高傑作との呼び声も高いアルバム『今はまだ人生を語らず』を発表*6

1975年8月には静岡の「つま恋」で、かぐや姫らと共に、徹夜(オールナイト)での野外イベントなどを行い、5万人以上の観衆を集める*7
79年、愛知県篠島で再びオールナイトコンサートを敢行。若き日の長渕剛も参加していたことは、一部では有名な話*8
1985年、再びつま恋で、やはりオールナイトコンサートを敢行。当時拓郎はこのコンサートを以て引退すると宣言していた*9
90年代中葉からは、キンキキッズ(KinKi Kids)の面々とフジテレビ系列にて『ラブラブあいしてるLOVE LOVEあいしてる』という番組にレギュラー出演する。少なくとも、「よしだたくろう」時代からの筋金入りのファンからすれば、嘗てテレビ主演を頑なに拒絶していた頃に比べると隔世の感有りと言うのが偽らざる心情であったことだろう*10
2006年、またもや「つま恋コンサート」。
このように、拓郎といえば「つま恋」という等式はファンにあっては根強いものがあり、冗談半分に彼が亡くなったら「つま恋で国葬」という話が出る程である…ということをここに紹介するのは不謹慎の謗りを決して免れないかもしれぬが、このことは拓郎の全キャリアの中でも本質的な位置を占めうる事柄であるため、敢えて記し置く次第である。

以上のような、極々大雑把な経歴からだけでも既に明瞭であろうと想われるように、吉田拓郎は今や、J-POP界の重鎮的存在と看做されることがしばしばでさえあるのみならず、そもそもその開祖に他ならぬと認定する向きもあり、現在の日本のミュージックシーンの諸源流を考える上で、欠かすこと出来ない存在であると断言さえしうるだろう。

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