橘奈良麻呂の乱とは 一般の人気・最新記事を集めました - はてな (original) (raw)
橘奈良麻呂の乱
橘奈良麻呂のクーデターとも。
天平勝宝9歳(757年)7月に橘奈良麻呂らが孝謙天皇の廃位と藤原仲麻呂の殺害を企てたとして処罰された事件。乱とは言うが密告によって事前に発覚したため大規模な戦闘はない。
奈良麻呂は仲麻呂の政治に無道が多いとして乱を企てたことを自白。当時、聖武天皇の遺詔によって立てられた道祖王が廃太子にされ、代わりに仲麻呂と親しい間柄にあった大炊王(後の淳仁天皇)立太子するなど仲麻呂の専横が目立っていた。
この事件によって道祖王を含め多数の逮捕者が出、そのうちのいくらかは拷問によって死去。
反乱計画の内容
経過
- 6月中旬 反乱の計画を練る
- 6月28日 山背王の密告により発覚
- 7月2日 孝謙天皇が謀反の密告があったことを公表
- 7月3日 藤原仲麻呂が塩焼王、安宿王、黄文王、橘奈良麻呂、大伴古麻呂を召喚するが、皇太后・光明子の詔により赦免
- 7月4日 藤原永手らによる尋問を受けて奈良麻呂が乱を自白
- 道祖王ほか多数が拷問によって死去
7月27日 塩焼王免罪
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