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愚禿鈔

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ぐとくしょう

愚禿鈔(ぐとくしょう)

親鸞の著作(1255年)。全二巻。

amazon:愚禿鈔

親鸞全集〈第3巻〉愚禿鈔・如来二種廻向文 他

親鸞全集〈第3巻〉愚禿鈔・如来二種廻向文 他

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むなしさとともに3ヶ月前

真宗とは深信自身に尽きるのではないだろうか?土日に法座があり、ZOOMで参加させて頂きました。 まだ頭の中が整理できていないので、今自分が感じていることをまとめておこうと思います(先生のお言葉も含め) 我執を破ろうとする我執は最も深い我執である。 我執と考えた時は常に対象化せざる負えないため、我執を捕らえることは困難である(というかむしろできない) 孤独であること、と、孤独感は異質である。 孤独であることは存在の問題であり、存在として構造的に抱えている問題といえる。 孤独であることはなくならない、死ぬまで解決できない。ただし、孤独なるわれらという世界が【深信自身】から拓く。 ※第一深信 決定深信自身 即是自利信心也(親鸞聖人 愚禿鈔 下…

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夕顔の日記6ヶ月前

✩.*˚真偽検証さんに聞いてみよう 涙のPart 2 ✩.*˚阿弥陀仏は念仏称えよと仰っている『行文類』では、大行について述べられた後、まず経文による引証がなされます。経典に無いことでは仏説とは言えませんから、称名がキチンと本願にあることを経典の上で証明されるわけです。ところで阿弥陀仏の名号を諸仏が称揚讃嘆することは、衆生に聞かせ与える、すなわち衆生に回向するために他なりません。そのように往生の行を回向することを誓われた願だから、親鸞聖人は第十七願を往相回向の願と名づけられています。そして、なぜ名号を回向するかというと、それは阿弥陀仏が本願(第十八願)において、衆生往生の行として称名念仏の一行を選択されたからだとして、続いて選択称名の願と名づけられています。諸仏称揚の願、諸仏称名の願、…

「21世紀の浄土真宗を考える会」ブログ(アーカイブ)6ヶ月前

善巧方便と権仮方便2009/11/12(木)善巧方便と権仮方便については、これまで幾度も述べてきました。要門考(ここでは真実と方便の関係のみ)観無量寿経 覚書 その7方便方便といふこと 3方便といふこと 4まとめの意味で、木村世雄氏の論文 『歎異抄』における真実と方便の関係 より引きます。(浄土真宗の方便義がよくまとめられているということで、木村氏独自の考えではありません)・・・つまり方便には《善巧方便》と《権仮方便》の二種類があるというのである。《善巧方便》 仏・菩薩が衆生をさとりに導くために、衆生の素質や能力に応じて巧みに化する大悲の具現としての手段、方法、巧妙の智用。《権仮方便》 真実の法に入らしめるため…

「21世紀の浄土真宗を考える会」ブログ(アーカイブ)6ヶ月前

親鸞会教学聖典のちょっとした研究 まだ途中です 2009/11/07(土)昨日は、親鸞会の教学聖典に取り上げられているお聖教の言葉を、出典別に分類しておりました。多少の数え間違いは御寛恕願うとして、次のような結果となりました。これに基づいた分析は漸次していきたいと思います。少しだけ言いますと、(順不同です)1.阿弥陀仏の48願中、設問にあるのは、第17願、第18願、第19願、第20願の4願のみです。 以前のテキストにあった、第11願、第12願、第13願がありません。 また、同じく以前のテキストにあった五願開示がなくなっています。2.一方、以前指摘したように、三毒五悪段からの設問は8あります。 しかも、多くの人が勉強する1冊目に五悪段の文が5…

「21世紀の浄土真宗を考える会」ブログ(アーカイブ)6ヶ月前

歎異抄第3章「悪人正機」を読む まず一通り読む & 理解する為の基礎知識2009/08/17(月) 善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを世のひとつねにいはく、「悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや」。この条、一旦そのいはれあるに似たれども、本願他力の意趣にそむけり。そのゆゑは、自力作善のひとは、ひとへに他力をたのむこころかけたるあひだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、あはれみたまひて願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もつとも往生の正因なり。よつて善人だにこそ…

「21世紀の浄土真宗を考える会」ブログ(アーカイブ)6ヶ月前

要門考2009/07/31(金) 今日は「要門」について考えてみます。要門とは「浄土の要門」のことです。簡単に言うと「浄土に往生するために肝要な門」となります。(註釈版聖典の脚注)「要門」という言葉は、道綽禅師の安楽集に出ていますが、善導大師はその言葉を使われながら、意味を変えて、観無量寿経疏 玄義分 定散門に「しかるに娑婆の化主(釈尊)、その請によるがゆゑにすなはち広く浄土の要門を開き、安楽の能人(阿弥陀仏)は別意の弘願を顕彰したまふ。その要門とはすなはちこの『観経』の定散二門これなり。「定」はすなはち慮りを息めてもつて心を凝らす。「散」はすなはち悪を廃してもつて善を修す。この二行を回して往生を求…

親鸞会を脱会した人(したい人)へ7ヶ月前

親鸞会「850の集い」での「仏法讃嘆」は添谷講師のYoutube対談の内容がよいと思う理由宗教法人浄土真宗親鸞会(本部・富山県射水市)の機関誌・顕真2024年(令和6年)3月号を読みました。 以下思った事を書きます。 目次 親鸞会2024年の降誕会について 「850の集い」のメインは「仏法讃嘆」 蓮如上人の「信心の沙汰」と親鸞会の「仏法讃嘆」の違い なぜ「復習会」は信心の沙汰にならないのか 「信心の沙汰」の手本を示した添谷講師と桜嵐坊さんのYoutube対談 救われた瞬間に大きな変化があるのか、ないのか問題 「無明の闇はれ、生死のながき夜すでに暁になりぬべし」の「暁」は明るいのか暗いのか 二河白道の譬えについて、四五寸の白道が無碍の大道に変わるのか変わらないのか問題 「850の集い…

仏教研究室7ヶ月前

私たちの苦しみ悩みの根本原因は煩悩ではなかった人生の目的というのは、一度しかない人生を悔いなく終わるために、とても大事なものです。仏典の中にその答えがあるわけですが、ではどうしてそう言えるのか、詳しく学ぶために、教学をしていきます。教学というのは、仏教の学問です。教学をすることで、人生の目的が「破無明闇」であるということも判然としてきます。人生の目的と聞くと、人それぞれ好きなことをすればいい、という人もあります。ほんの一時は喜べても、そのうちに色褪せてしまう。そんなものばかりを追い求めるだけの人生でいいのでしょうか。「そうじゃない、心の闇を破ることである」言葉では簡単に言えるんですが、仏教は今日、一切経となって残っています。その数は七千巻…

剣持雅舟のブログ8ヶ月前

愚禿親鸞(10首歌)内は愚で外は賢でなければならぬ真宗聖典親鸞『愚禿鈔』 上べだけ生きる誤魔化しに気が付いて懸命に生きる外に向かって 禿といふ破戒僧を乗り超えて謙虚に生きる他力本願 妄執の愚かなる自己直視してひとえにすがる阿弥陀仏に 愚鈍なる己の自覚その上に立てば見倣ふ他者に救はる 只念仏それで全てが救はるる親鸞シンプル真正真宗 仏教が開く平等人間の妄執乗り越え手を携へむ 己が力のみで解決できるといふ思ひ上りは封じ込むべし 自分独りで成し得ることは稀にして他者の力を借りね成らず 自己過信その愚を悟り立ち上がり光明求めいざ共に生きむ 西本願寺派善正寺境内親鸞聖人尊像