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源範頼

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みなもとののりより

源義朝の六男。蒲冠者。三河守。
治承四年(1180)、異母兄頼朝のもとに参陣。寿永三年(1183)、異母弟義経とともに頼朝の代官として上洛し、木曽義仲を追討。一ノ谷の戦いでは大手軍の大将を務め、さらには山陽道から九州へと兵站に苦しみながらも転戦を続けた。平家滅亡後は九州に留まり、現地の政務を取り仕切った。
建久四年(1193)、曾我兄弟仇討の際の発言が頼朝の嫌疑を受けて伊豆修禅寺に幽閉された。その後確かなことは不明であるが、誅殺されたとみられている。

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#横浜市歴史博物館#鎌倉武士#畠山重忠#鎌倉殿の13人#源範頼#大河ドラマ

日刊 おっさんの人生これから大逆転だぜえ!(日本史+史跡+旅情報)2年前

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【鎌倉殿の13人】北条政子さえ「政子」、なぜ?YouTubeの鎌倉殿解説に相変わらずはまっています NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は7/31に29回「ままならぬ玉」が放送された。「玉」とは、古井戸へと落ちて行った蹴鞠の玉(たま)を直接には指しているのだろうけれど、オープニングで描かれている蹴鞠の玉は「権力の象徴」らしいので、扱いにくく転がっていく権力を頼家がつかみ切れない様がサブタイトルになっていたのか。 とはいえ、頼家はもがきながらも少し成長した。もう蹴鞠には逃げないそうだし(逃げている自覚があったんだね)、頼家を信じようとぶつかってきた比企家の「せつ」の言葉に心動かされ、彼女が産んだ一幡を嫡男にすると決めたと義時に言っていたし。 …

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広島歴史探索の後は、お好み焼き「そば肉玉」じゃね2年前

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#NHK大河ドラマ#鎌倉殿の13人#変わらぬ人#源範頼

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#鎌倉殿の13人#紀行#変わらぬ人#源範頼#修善寺#修禅寺#日枝神社#信功院跡#源範頼の墓#源頼家

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「鎌倉殿の13人」なぜ曽我兄弟は石を投げた?山の神は金剛(泰時)を祝福した 今期のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は、6/12に23回「狩りと獲物」が放送され、有名な「曾我兄弟の仇討」が重要なモチーフになって話が展開した。(以下感想、がっつりネタバレです。ご注意を) 頼朝が自分の後を継がせて二代目鎌倉殿にしたい嫡男・万寿。そのお披露目の場として催された富士の巻狩り。しかし、万寿は狩りの方はてんでダメで、軽々と猟の成果を挙げたのは義時の長男「成長著しい金剛」の方だったわけだが、この「成長著しい」というテロップには笑った。 それもそのはず、前回の子役からいきなり、大人の役者・坂口健太郎(30歳)になったから、違和感はありあり。当時、金剛は…

#鎌倉殿の13人#蒲殿#源範頼#源頼朝#坂口健太郎#俺たちの泰時#曽我兄弟#源頼家#大河ドラマ#NHK

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【鎌倉殿の13人】青もみじも美しい修善寺のシンボル「修禅寺」2022年4月に訪ねた伊豆市にある修禅寺。 地名は修善寺ですが、お寺の名前は修禅寺です。(変換ミスではありませんので・・・) 修善寺温泉を代表する観光スポットでもあり、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」にも登場する歴史ある素晴らしいお寺です。

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arimahamaの日記19時間前

オートファジー1130日目と荒木村重2024/10/16水曜日 4時45分に起床し長女の朝食とお弁当のおかず作り。 6時過ぎに畑へ。 今日は午前中予定があるのでくず米を撒いたらすぐ帰路に。 6時半に帰宅後、シャワーと洗濯。 ベランダでの水遣りも済ませたら読書。 昨日から荒木村重の本を数冊読んでいる。 そのうちの一冊、岡野正昭著「家傅の石 本能寺の変 つくられた謀反人 光秀」は荒木村重についての記述が多い。 信長と本願寺の対立が深まる中、村重が本願寺へ兵糧を送ったという讒言により、信長の怒りを買った。→「讒言」て言ってる本、これで3冊目や。 1543年に種子島に鉄砲2挺が伝来。そのうちの1挺は島津義久が将軍足利義晴に献上。そして、…

日本の隅っこの歴史3日前

乱?変? 梶原景時予告通り今回は梶原景時の変です。『変』が正しいのか『乱』がいいのかわかりませんけど、個人的には『乱』にはなってないんじゃないかと思いました。 大河ドラマなんかをご覧になっている方は、よくご存知ではないかと思います。『鎌倉殿の13人』なんかはこの辺がクライマックスなのではないでしょうか?私は大河ドラマがどうにも苦手で、この事件のこともわかっていないので、しっかりおさらいしようと思います。知らない事を「おさらい」って、そこが『変』ですけど さて。 治承寿永の乱で義経と超仲が悪かった梶原景時ですが、頼朝には心底信頼されていたようです。 と、いうのも、1180年(治承4年)に小田原で頼朝が惨敗した時、…

日本の隅っこの歴史13日前

治承寿永の乱 後半木曽義仲が宇治川の戦いに敗れたことで一息つけた後白河上皇は、安徳天皇復権の芽を摘むために、後鳥羽天皇の即位の大礼を行おうとします。が、大礼に必要な三種の神器は、安徳天皇と一緒に平氏に持ち出されていました。 1184年(寿永3年)1月26日。後白河上皇は、旧平家領500ヶ所を頼朝に与え、平家追討と三種の神器奪還の院宣を出します。一方、福原に戻った平氏の方でも、2月には京都奪還の軍を出そうと、軍備を進めていました。 2月4日、源範頼・義経は京を発ち、範頼は50,000騎以上の兵を率いて大阪側の平地から、10,000騎を率いた義経は丹波の山道を迂回して明石側から福原(神戸市中央区付近)を目指します。…

日本の隅っこの歴史23日前

鹿ヶ谷の陰謀 ~ 治承・寿永の乱前半さて、平治の乱から15年くらい経った1176年(安元2年)、夏ごろから急に宮中は不幸が続きます。後白河上皇の妻、建春門院。二条天皇の中宮、高松院。後白河上皇の孫、六条上皇。近衛天皇の中宮、九条院。と、相次いで亡くなってしまいます。 この時の天皇は、六条上皇の三つ年上の叔父で、後白河上皇の息子、高倉天皇です。六条天皇は享年13才ですから、この当時16才ということになります。高倉天皇の母親は建春門院こと平滋子(たいらのじし)。清盛からみれば義妹にあたる人です。つまり、高倉天皇はお母さんを亡くしたことになり、同時に母方のバックアップを失ったことになります。奥さんは清盛の娘の平徳子(たいらのとくし)で…

TAKESHIのブログ1ヶ月前

201回目【静岡県伊豆市の探索したスポット】静岡県伊豆市で探索したスポット ◼️は探索完了▲は探索途中赤字は今後探索予定 ブログで紹介したスポットはリンクを貼ってある 今後探索場所が増えたりブログで紹介したらここに追記していく ■修禅寺の鐘2018■独鈷の湯2018■修禅寺2018修禅寺奥の院■指月殿2018■源頼家の墓2018源範頼の墓■日枝神社2018修善寺虹の郷修善寺梅林しいたけの里■修善寺ハリストス正教会2018ラフォーレ修善寺日本サイクルスポーツセンター西伊豆スカイライン木彫不動明王座像夏目漱石詩碑梅林句碑湯くみ式達磨山の霧氷益山寺の大カエデ修善寺のカツラ▲桂谷八十八ヶ所参拝2018■新井旅館2018湯ヶ島温泉吉奈温泉月ヶ瀬温…

ホリショウのあれこれ文筆庫1ヶ月前

第1168話 捕虜になった平重衡序文・源頼朝と対面 堀口尚次 平重衡(しげひら)は、平安時代末期の平家の武将・公卿。平清盛の五男。母は清盛の側室・平時子。三位(さんみ)中将と称された。 平氏政権の大将の一人として各地で戦い、南都焼討を行って東大寺大仏や興福寺を焼亡させた。治承・寿永の乱〈源平合戦〉においては墨俣川の戦いや水島の戦いで勝利して活躍するが、一之谷の戦いで捕虜になり、鎌倉へ護送された。平氏滅亡後、南都衆徒の要求で引き渡され、木津川畔で斬首された。その将才は「武勇の器量に堪(こた)ふる」〈『玉葉』治承5年閏2月15日条〉と評される一方、その容姿は牡丹の花に例えられたという。 一之谷の戦いで平氏は源範頼・義経の鎌倉源氏…

藍川由美「倭琴の旅」3ヶ月前

もう一つの豊後国一ノ宮大分へは何度も行っているのに、前回もルートに入れていたのに、 どうしても行けなかった柞原八幡宮(大分市八幡987)。 天長四年(827)に延暦寺の名僧金亀(こんき)和尚が宇佐神宮の参篭にて神告を蒙り、 柞原山に勧請したのを当宮の創設起源とすると公式ページにあり、 比較的新しいので行かなくてもいいかとの気持ちもありました。 でも、今回がラストチャンスなので、午前中2時間だけバイクを借りることに。 レンタル819大分店は西大分港フェリーターミナルの近くにあります。 柞原八幡宮へは15分ほどだそうです。 とはいえ、走り始めたばかりでもう一ノ鳥居? ははあ…この左手に「お旅所」があるんですね。 ストレ…

あぁ長良川、長良川。3ヶ月前

義経じゃないほうの源平合戦 源範頼どうもこんにちは今回の本はこちら 義経じゃないほうの源平合戦 (文芸社文庫) 作者:白蔵 盈太 文芸社 Amazon 一昨年大河ドラマで、【鎌倉殿の13人】が放送され、この時代に関心を持つ人も多くなったんじゃないかと思う。 今回の主人公は、偉大な兄と戦の申し子の弟に挟まれた地味だけどやる事はやる男 源範頼。 兄の頼朝、弟の義経とは別腹の母から産まれ、その母の身分も低かった為、成人になるまでは三河蒲郡の荘園の警備を行っていたな過ぎない範頼が、兄の頼朝の平家に対して反旗を翻した時から目まぐるしく動き出す。 ※ちな、本書のはじめにでこの範頼の事がしっかりと書かれているので抜粋したい。 神の如き義経の…

ホリショウのあれこれ文筆庫3ヶ月前

第1127話 道元を産んだとされる冬姫序文・木曾義仲の正室 堀口尚次 藤原伊子(ふじわらのいし)〈仁安2年 - 承元元年〉は、平安時代末期から鎌倉時代初期の女性。父は摂関家の関白・松殿〈藤原〉基房(もとふさ)。源〈木曾〉義仲の正室で、後に公卿・源通親(みなもとのみちちか)の側室となり道元〈曹洞宗の開祖〉を生んだとされる。位階は従三位。松殿伊子とも記され、冬姫とも伝わる。 寿永2年、木曾義仲は法住寺合戦で後白河法皇を幽閉した。独裁権力を獲得した義仲は、後白河院政の体制下で干されていた基房と接近する。公卿・近衛基道に関白の座を奪われていた基房は、これを好機と見て義仲に協力した。『平家物語』によると、義仲は基房の娘を正室とし、これが伊子…

戦国日本の津々浦々 ライト版3ヶ月前

温泉 次郎 ゆの じろう大内氏被官。石見国温泉郷を本拠とした国人温泉氏に関係する人物とみられる。文安元年(1444)十月、温泉次郎に与えられていた邇摩郡井尻村(現在の大田市温泉津町井田)が周布和兼に返還されることになっている。 温泉郷と温泉氏 邇摩郡井尻をめぐる経緯 参考文献 温泉郷と温泉氏 元暦元年(1184)十一月、源範頼は藤原兼栄・兼高父子の知行地を認める下文を発給。その中に、美濃郡の益田庄や高津、那賀郡の周布郷などとともに邇摩郡の宅野別符、そして温泉郷が見える(「益田家文書」)。また温泉郷は大家荘の一部であり、貞応二年(1223)三月の「石見国中庄公惣田数注文案」にて「おうゑのしやう(大家荘)」の内として「ゆ…

戦国日本の津々浦々 ライト版3ヶ月前

温泉津 ゆのつ入り組んだ入江である温泉津湾をに臨む港町。大永七年(1527)に石見銀山の開発が始まると銀山への物資搬入と銀の積み出しのため、各地から多くの船が集まって大いに栄えた。永禄五年(1562)に銀山および温泉津を制圧した毛利氏は、温泉津を重要な戦略拠点と位置づけ、温泉津奉行を配置して直轄支配を行っている。一方で温泉地としても知られ、島津家久が旅の途中で温泉に入っていることが彼の日記にみえる。 温泉氏と大内氏の支配 毛利氏と尼子氏の攻防 対馬との交流拠点 鵜丸城の築城 毛利氏の直轄港 温泉津の「町」 島津家久と薩摩国の舟衆 温泉津の住人たち 関連人物 参考文献 温泉氏と大内氏の支配 元暦元年(1184…

ぐるぐるぐるめ♪3ヶ月前

2024夏至の旅行その2(太陽の沈まぬ温泉)紙の切符を買った瞬間から、非日常が始まる予感でワクワクする。気持ちが昭和レトロに戻っていくのだな。 というか、伊豆箱根鉄道は交通系ICカード使用不可なので強制的に昭和時代に戻らされるのだ。 修善寺は東京から新幹線で三島駅まで(約40分)、伊豆箱根鉄道で修善寺駅(30分強)、修善寺温泉行きのバスに乗り換えて終点まで約10分。とても気軽に来てしまえる観光地だ。 さっきまでの嵐が嘘みたいにすっかり晴れ渡ってる。川はまだ濁流だけど。明日は澄んで透明な川になるだろう。 修善寺温泉は伊豆最古の温泉(約1200年前)と言われ 弘法大師が独鈷で岩を打ち霊泉が湧いたという伝説から始まっている。 (弘法大師は全国…

映画とドラマに沼る主婦3ヶ月前

NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」第18話のあらすじNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」第18話のあらすじは以下の通りです。 第18話「壇ノ浦で舞った男」 元暦2年(1185年)2月、源平合戦はさらに激しさを増していました。平宗盛率いる平家軍は一ノ谷での敗北後、四国の屋島まで逃れていました。源頼朝の戦略は、平家軍を挟み撃ちにするため、源義経が四国から、源範頼が九州から攻めさせ、逃げ道を塞ぐというものでした。義時は範頼の軍と行動を共にしていましたが、範頼は九州に渡る船を集めることができず、周防で足止めされていました。食料不足に悩まされる中、三浦義村が豊後の緒方一族から船を借りることに成功しました。 一方、義経は摂津で足止めをくらっていましたが、梶原…

今へ続く街道を歩くと4ヶ月前

東海道(26)近鉄四日市~石薬師宿~庄野宿~井田川 その42024年4月12日 石薬師宿 東海道は国道1号から反れて、高台の石薬師宿に入ります。宿内の町並みを通ると、佐佐木信綱の生家が残っています。明治の歌人で国学者でもある佐佐木信綱は明治5年(1772年)この地で生まれ、6歳まで過ごしました。その後、一家は松阪へ移り、信綱が11歳の時に東京へ移ります。建屋の中は見学できないようですが、主屋は国の登録有形文化財に指定されています。

週末は古墳巡り4ヶ月前

平重衡の首塚 本庄市児玉町蛭川金鑚神社古墳から北西に徒歩約15分の駒形神社の隣の釈迦堂墓地にある本庄市指定文化財の平重衡の首塚を訪れた。平重衡(しげひら)は平清盛の五男、治承4年(1180年)12月、清盛の命により南都焼打、 寿永3年(1184年)2月の一ノ谷の戦いで平氏は源範頼・義経の鎌倉源氏軍に大敗を喫し、敗軍の中、重衡は馬を射られて捕らえられた。本庄市によると「一の谷の合戦で児玉党の庄四郎高家に生け捕られた重衡は鎌倉に送られて源頼朝に面会した後、南都の僧兵に引き渡されました。その後、処刑された重衡の首を、庄高家は自分の領地蛭河郷に持ち帰り、手厚く供養したといわれています。蛭川の駒形神社の隣の釈迦堂墓地にあります。」 …