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後白河上皇

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一般

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ごしらかわじょうこう

→後白河天皇

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El librero la Fontana・ホンタナ氏の本棚2年前

双調平家物語(10) 平治の巻(承前)平家の巻平治の乱の一カ月を描くのに300ページ!ちょっと執着しすぎ? 双調平家物語 (10) 平治の巻(承前) 作者:橋本 治 中央公論新社 Amazon 平治の乱は平治元年(1159年)12月に始まり、その年のうちにはほぼ決着がつき、翌平治2年(1160年)1月上旬には首謀者・藤原信頼が斬首、源義朝が討たれるという短期の争乱。1月10日には永暦元年に改元された。この頃の元号は数年で変わるのだが1年もたなかったけれど歴史には名を残した「平治」。それにしても、この一か月間の出来事のために第10巻300ページすべてが捧げられた。 しかし、乱を起こした藤原信頼もそれに従った源義朝もどういう勝算があったのかよ…

#橋本治#双調平家物語#平治の乱#おっさんずラブ#後白河上皇

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痩田肥利太衛門残日録その二14年前

12月の絵「平家物語 建礼門院の死去、六代の斬られ、それよりしてこそ、平家の子孫はながくたえにけれ」yaseta.hateblo.jp 1185年3月24日壇ノ浦の合戦で平氏は敗れ、多くの平家一門は入水し、最後を遂げる。入水したものの引き上げられた建礼門院、生き残った宗盛と清宗父子、平時忠・時実(ときざね)父子および女房・僧侶など多くの非戦闘員は捕らわれの身となった。 二位の尼は安徳天皇を抱いて神璽(しんじ)と宝剣とともに入水し、海の底に沈んだ。三種の神器のうち宝剣、は行方不明になったが神璽(しんじ、八坂瓊曲玉[やさかにのまがたま])は源氏に回収され、神鏡(八咫鏡[やたのかがみ])は海底に沈む前に回収され、朝廷に戻った。 時忠は義経に対し、三種の神器返還に向けて奔走したことを強調し、義経に押…

#平家物語#建礼門院#後白河上皇#六道輪廻#六代#地蔵十王経

Megurecaのブログ10ヶ月前

『源平盛衰記』 by 菊池寛源平盛衰記菊池寛勉誠出版2004年9月10日 初版発行*日本歴史物語全集全十巻の一冊として発行(新日本社、昭和11年10月) 『文豪、社長になる』を読んで、菊池寛の本を何か読んでみようと思っていたところ、図書館の棚で見つけた一冊。 megureca.hatenablog.com 歴史の棚だったろうか?平家物語も読んだことはないけれど、菊池寛の作品なら、面白いかな?とおもって借りてみた。物語なので、必ずしも史実ではないといわれているけれど、源平合戦のハイライトがギュッと詰め込まれている感じ。こまかく章にタイトルがついているのが読みやすい。 目次一 髻(もとどり)狩り二 鹿ケ谷(ししがたに)三 大…

#源平盛衰記#菊池寛#勉誠出版#読書#歴史#太平記#後白河上皇#平家物語

日本の隅っこの歴史7日前

治承寿永の乱 後半木曽義仲が宇治川の戦いに敗れたことで一息つけた後白河上皇は、安徳天皇復権の芽を摘むために、後鳥羽天皇の即位の大礼を行おうとします。が、大礼に必要な三種の神器は、安徳天皇と一緒に平氏に持ち出されていました。 1184年(寿永3年)1月26日。後白河上皇は、旧平家領500ヶ所を頼朝に与え、平家追討と三種の神器奪還の院宣を出します。一方、福原に戻った平氏の方でも、2月には京都奪還の軍を出そうと、軍備を進めていました。 2月4日、源範頼・義経は京を発ち、範頼は50,000騎以上の兵を率いて大阪側の平地から、10,000騎を率いた義経は丹波の山道を迂回して明石側から福原(神戸市中央区付近)を目指します。…

りんごの時間。9日前

【図鑑】MOVE『日本の歴史』を買って大正解!歴史学習の補助的活用にもオススメです!!おはようございます、りんごです(・∀・)ゝ 新3年生(2年生2月)から塾生活がスタート。 当時から歴女だったこともあり、「早く歴史を学んでみたい」と楽しみにしておりました。 そこから2年半の時を経て(←長っ)!! やっとこさ待ち望んだ歴史の授業がスタートしたよーーヽ(`∀´)ノ ヒャッホーーイ!! 初回の授業、それはそれは楽しかったようで、ニコニコで帰宅しておりました(●´艸`) 縄文時代楽しいよね~、わかるわかる。 こんなに好きなんだし、本も山ほど持ってるしたくさん読んでるし、歴史の成績はまぁ、大丈夫でしょう。 と余裕ぶっこいていたワタクシですが。 思わぬ伏兵の登場に、大変慌てふためいており…

日本の隅っこの歴史17日前

鹿ヶ谷の陰謀 ~ 治承・寿永の乱前半さて、平治の乱から15年くらい経った1176年(安元2年)、夏ごろから急に宮中は不幸が続きます。後白河上皇の妻、建春門院。二条天皇の中宮、高松院。後白河上皇の孫、六条上皇。近衛天皇の中宮、九条院。と、相次いで亡くなってしまいます。 この時の天皇は、六条上皇の三つ年上の叔父で、後白河上皇の息子、高倉天皇です。六条天皇は享年13才ですから、この当時16才ということになります。高倉天皇の母親は建春門院こと平滋子(たいらのじし)。清盛からみれば義妹にあたる人です。つまり、高倉天皇はお母さんを亡くしたことになり、同時に母方のバックアップを失ったことになります。奥さんは清盛の娘の平徳子(たいらのとくし)で…

日々是好日23日前

国宝中の国宝!今日は予定がなく長男と寺社巡りにでも出かけようと待ち合わせしました。京阪七条で降りてマクドでブランチ(一人暮らしの長男なのでさぞマクドにお世話になっているかと思ったら…一人暮らし始めてから食べてないとのこと。えらい!)。 歩いてすぐの三十三間堂を拝観しました。長いお堂に中尊の十一面観音様、その両側に五百体ずつの観音様。お一人の観音様でも素晴らしい国宝があるのにこの数には圧倒されます。筆舌に尽くせないとはこのこと。国宝中の国宝です。平清盛が後白河上皇のために建てたもので、当時からの観音様も百体以上残っているとか…清盛も後白河院も本当に生きてこの観音様を拝んでいたのかと思うとぞくぞくするくらいでし…

笑楽日塾の事件簿23日前

歴史の「乱」「シニアの風」も今回で28回目の投稿で38編になりました。「シニアの風」は毎月発行している会報誌(笑楽日塾だより)の中の1部分で、塾生全員が輪番制。内容は自由で、自分の体験や趣味、思い、感じたこと、話したいこと等を書いています。 今回は塾生のS氏が「歴史の「乱」」と題し、「朝廷や公家・武士たちが天下取り合戦を繰り返した戦国時代の乱」について書かれています。 この記事は2年半前の笑楽日塾だより2022年3月号に載ったものです。当時の時代背景をご考慮のうえお読みください。 日本の歴史上に「乱」として刻まれる、飛鳥時代(592-710)から室町時代(1336-1573)までの主な「乱」を列記するなら…

kotarosandayoneの日記24日前

自転車で世界遺産めぐり(5)新宮市~熊野市 花の窟神社・獅子岩自転車で世界遺産めぐり(4)新宮の夜🐟️🍶と熊野速玉大社 - kotarosandayoneの日記 (hatenablog.com)【前回まではコチラ】 2024年8月24日(土)先負 ☀➡⛅ 新宮34℃ / 26℃ 朝7時に新宮市の熊野速玉大社(くまのはやたまたいしゃ)に参拝に来ています。本当は朝6時に来なければ。日が高くなれば🚴のコンディションは悪くなるばかり。【先負】と記しているのは「負け惜しみ」です。 土曜日の朝一番という事で静か。境内を掃き清めている人に挨拶しました。「おはようございます。蒸し暑いですね」。 熊野速玉大社のご神木 梛(ナギ)の木 「千早ふる 熊野の宮のなぎの葉を 変わ…

日本の隅っこの歴史1ヶ月前

保元の乱と平治の乱 おさらい筑前秋月家 その2でちらっと書いた、源平合戦こと治承寿永の乱をおさらいしようとしたんですが、なにしろ知識が中学レベルの素人なもので、ここからおさらいしないと理解できませんでした。 なので、保元の乱からはじめます。 承平天慶の乱で、平将門と対立した将門の従兄弟、平貞盛(承平天慶の乱 おさらい参照)は、北山の決戦で平将門を討ち取り、従五位上に叙せられ、その後も出世を重ねます。貞盛の息子たちもそれぞれに地歩を固め、四男維衡(これひら)は伊勢国に地盤を築き、藤原道長の元で『道長四天王』と呼ばれるまでになります。以後、平維衡の子孫たちは『伊勢平氏』とよばれることとなりました。 維衡から100年ほど経った…

古典文学読書会のブログ2ヶ月前

『平家物語』 古川日出男訳 前半 読書会議事録2024年8月の読書会では、 『平家物語』古川日出男訳の前半部分を読んだので 読書会議事録を公開する。 ・途切れ途切れの話の集合体 一つの話は短い。短いお話の集合体。全体のテーマは掴みにくかった。 ・平家物語における無常をどのように捉えれば良いのか? 平家の栄枯盛衰から、驕れるものが衰退するという意味での無常なのだろうか? 無常とは、常なるものは存在しないとする仏教的な意味での無常であろう。 ・「もののあわれ」が捉えにくい。 平安時代の文学、源氏物語も、しばしばもののあわれの文学と形容されることがある源氏物語を英語に翻訳したアーサー・ウェイリーは、「もののあわれ」を sympathy, rom…

おでかけ ももよろず2ヶ月前

【光る君へ】紫式部ゆかりの寺 石山寺をぐるり一周参拝7月にNHKの大河ドラマ「光る君へ」にも登場する紫式部ゆかりの寺 石山寺に行ってきました。 大河ドラマ放送期間には境内に大河ドラマ館も開設されており、ドラマの世界観と重ね合わせながら参拝をすることができます。

Megurecaのブログ3ヶ月前

『マンガ日本の歴史14 平氏政権と後白河院政』 by 石ノ森章太郎マンガ日本の歴史 14平氏政権と後白河院政石ノ森章太郎中央公論社1990年 12月5日 初版印刷1990年 12月20日 初版発行 『マンガ日本の歴史 13 院政と武士と僧兵』の続き。いよいよ、平氏の時代! megureca.hatenablog.com 目次序章 嵐を呼ぶ 清盛第一章 内紛ー嵐の前夜第二章 保元・平治の乱第三章 平家にあらずんば人に非ず 14巻は、いきなり『平家物語』の描写で始まる。 “祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色 盛者必衰のことはりをあらはす おごれる人も久しからず ただ春の夜の夢のごとし たけき者もついには滅びぬ偏に風の前の塵に同じ” チーーン・…

Megurecaのブログ3ヶ月前

『マンガ日本の歴史 13 院政と武士と僧兵 』 by 石ノ森章太郎マンガ日本の歴史 13院政と武士と僧兵石ノ森章太郎中央公論社1990年 11月5日 初版印刷1990年 11月20日 初版発行 『マンガ日本の歴史 12 傾く摂関政治地方の社会』の続き。 megureca.hatenablog.com 親政を取り戻した後三条天皇(71代)。 目次序章 中世への胎動第一章 天下第一の武者・源義家 第二章 白河院政へ 第三章 伊勢平家の進出 付章 熊野詣 1073年(永久5年)、後三条上皇は前年に貞仁親王(白河天皇・72代)に譲位し、病気平癒祈願として、石清水八幡宮、住吉神社、四天王寺への参詣の旅を続けていた。御年40歳。病気平癒とは表向きで、実のところは寺社勢力…

ひまわりの咲くころ3ヶ月前

京都弾丸ツアー数撃つ鉄砲もバチに当たるの巻今日も品川駅6時発の新幹線で京都に向かいます、 品川駅では『貝づくし弁当』が復活していて幸先良いです、 連結部付近にある大型荷物コーナーにも無事輪行袋が収納できました、 このコーナーを使う人の席は決まっているらしくってまだ使う方が少ないようなので今のところに2席独占で来てます、 京都駅8時1分到着、7分発竹田行の地下鉄に飛び乗ります、 竹田駅で自転車を組み立て、蒸し暑くってすでに汗が滴ります、 まずは城南宮へ、 ここは車も通れる大きな茅の輪が有名ですがこれが設置されるのが7月1日ということで今回は人用をくぐってきました、 続いて草森神社、 こちらはまだ設置されていませんでした、 北上して伏見稲…

映画とドラマに沼る主婦3ヶ月前

大河ドラマ「平清盛」第36話のあらすじ大河ドラマ「平清盛」第36話のあらすじは以下の通りです。 大河ドラマ「平清盛」の第36話「巨人の影」のあらすじは以下の通りです。 京の鞍馬寺で、源義朝の子・遮那王(神木隆之介)が修行に励んでいました。遮那王の母・常盤(武井咲)は、彼に自分の父が源義朝であることや、平清盛(松山ケンイチ)が父の敵であることを教えていませんでした。これは遮那王を戦乱に巻き込まないための配慮でした。 1169年、清盛は福原(神戸)の別邸で後白河上皇(松田翔太)を招き、千僧供養を行いました。この供養には、僧侶たちを束ねる導師・比叡山延暦寺の明雲(腹筋善之介)も参加していました。後白河上皇は、明雲と清盛の関係が突然親密に…

映画とドラマに沼る主婦3ヶ月前

大河ドラマ「平清盛」第34話のあらすじ大河ドラマ「平清盛」第34話のあらすじは以下の通りです。 大河ドラマ「平清盛」の第34話「白河院の伝言」 仁安3年(1168年)2月、清盛は突然倒れ、体に毒が入っていると診断されます。宋の薬も効かないと言われ、清盛の回復の望みは絶たれ、一門は騒然となります。時子は祈りの僧を集め、重盛に棟梁の務めを果たすよう命じます。 この間、清盛は夢の中で、実の両親である白河法皇と舞子と再会します。清盛は高みに登った自分が父・白河を越えてみせると語ります。白河法皇は清盛に対して、のぼり切ったその果ての景色を見ることができるかと問いかけます。清盛は賽を振り、父を追い越す決意を新たにします。 一方、後白河上皇は滋…

映画とドラマに沼る主婦3ヶ月前

大河ドラマ「平清盛」第32話のあらすじ大河ドラマ「平清盛」第32話のあらすじは以下の通りです。 大河ドラマ「平清盛」の第32話「百日の太政大臣」 このエピソードでは、清盛が武士として初めて大納言に就任し、朝廷で港湾整備を推し進めようとしますが、清盛を気に入らない公卿たちに阻まれてしまいます。それでも清盛の勢いは止まらず、摂政・藤原基実を後ろ盾に大臣の地位を目指してまい進します。しかし、基実が急逝し、その後を継いだのは平家を忌み嫌う基房でした。清盛は頭を痛めていたところ、藤原邦綱が基実が所有していた広大な荘園を盛子が受け取り、その財をバックに平家が発言権を得ればよいと進言します。さらに、後白河上皇の妃である滋子からも息子の憲仁を東宮…