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皇極天皇

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こうぎょくてんのう

第35代(642 - 645)
舒明天皇の皇后となり、中大兄皇子(天智天皇)、大海人皇子(天武天皇)を産んだ。
天皇没後、蘇我蝦夷の支持を受け即位した。このとき皇位継承権のある皇子としては、中大兄皇子、古人大兄皇子(舒明天皇と皇妃法堤郎媛の子)、山背大兄王がいた。
在位中は蘇我蝦夷、その子入鹿が国政を執った。
643年入鹿は山背大兄王を攻め、王は自殺した。
645年中大兄皇子が、中臣鎌足らと謀って蘇我氏を滅ぼした(大化の改新)ため、弟の孝徳天皇(軽皇子)に譲位したが、孝徳天皇が没すると重祚して斉明天皇となった。
この譲位、重祚とも我が国初である。

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上古への情熱17日前

継体持統⑲:乙巳の変641年10月9日舒明天皇崩御から645年6月12日の乙巳の変へ至る経緯を以下にまとめる。 舒明崩御と皇極の暗躍 641年舒明天皇崩御の段階で、祭祀を司る天皇の後継者として、母が皇族である男性皇族は、宝皇女が庇護する葛城皇子=天智、大海人皇子=天武のほか、弟の軽皇子=孝徳、上宮王家にも白髪部王、弓削王がいた。 641年で30歳程度以上の壮年であったのは、軽皇子、上宮王家の白髪部王であり、天智・天武はまだ10代であることから継承資格がない。 宝皇女は、天智、天武への日嗣を実現させるため、推古天皇の先例に倣い、皇后として舒明天皇からの日嗣を企図し、舒明天皇の殯(もがり)を2年にわたり行った。 日本…

#乙巳の変#大化改新#蘇我入鹿#阿倍内麻呂#大伴長徳#中臣鎌足#孝徳天皇#皇極天皇#巨勢徳多#蘇我石川麻呂

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継体持統⑮:韓人殺鞍作臣蘇我入鹿は淵蓋蘇文をまねて軍事独裁政権樹立を目指した。当時の北東アジア情勢を考えると、入鹿の目指した未来は至極真っ当であり、十分に勝算があった。が、現実には、ミウチに邪魔されて挫折する。 上宮王家は何故皆殺しにあったか 日本書紀によると、643年10月6日に蘇我蝦夷が病に倒れ、蘇我入鹿が大臣家の家督を得て、10月12日に上宮王家を排し古人大兄皇子の擁立を謀り、その後(上宮聖徳法王帝説では10月14日)、上宮王家は討滅された。 蘇我氏は物部の軍事力を継承しており、上宮王家も崇峻天皇以来の軍事力を保有していた。 緊迫の度を深める北東アジア情勢に対応するため、蘇我氏は上宮王家との軍事力の統合を企図。…

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上古への情熱3ヶ月前

継体持統⑬:上宮王家滅亡事件と皇極天皇の関与 643年に山背大兄王が蘇我入鹿に滅ぼされた上宮王家滅亡事件。系図を見ると用明天皇後裔一族のほぼ全員が殺されているのがわかる。凄まじい皆殺し事件である。 皇極天皇の関与 皇極天皇は事件に関与していたのであろうか。 皇極天皇の前夫の高向王が泊瀬王の義兄弟との解釈が正しいとすると、628年の政変時に、皇極天皇は舒明天皇+山背大兄王+蘇我蝦夷陣営に対し、相当な恨みを持っていた可能性がある。 593年に聖徳太子は崇峻天皇=泊瀬部天皇の後継の地位を継承したが、この崇峻天皇の資産を継承したのが名前からすると聖徳太子第二皇子の泊瀬王である。 628年推古天皇崩御時、聖徳太子の最有力後継者はおそらく泊瀬王であっ…

#山背大兄王#泊瀬王#聖徳太子#蘇我蝦夷#蘇我入鹿#皇極天皇#古人大兄皇子

上古への情熱4ヶ月前

継体持統⑫:上宮王家滅亡事件の真相643年に山背大兄王が蘇我入鹿に滅ぼされた事件。641年舒明天皇崩御を契機とした政変である。 事件の経緯 日本書紀による経緯は以下の通り。641年10月 舒明天皇崩御642年1月 皇極天皇即位642年12月 舒明天皇の喪葬の儀643年9月6日 舒明天皇を押坂陵に葬る643年9月11日 吉備嶋皇祖母命薨去643年9月17日 皇祖母命喪葬の儀643年9月19日 皇祖母命を葬る643年10月6日 蘇我蝦夷病気で出仕せず、紫冠を入鹿に授ける。643年10月12日 蘇我入鹿、上宮王家諸王を排し、古人大兄王擁立を謀る643年11月斑鳩宮襲撃。山背大兄王一族集団自決。入鹿の行動に蝦夷が怒り罵る。(なお、上宮…

#山背大兄王#古人大兄皇子#蘇我蝦夷#蘇我入鹿#舒明天皇#皇極天皇

上古への情熱4ヶ月前

継体持統⑩:天智・天武は舒明天皇の子ではないかもしれない説推古天皇崩御時に粛清された泊瀬王及び義兄弟の高向王には3人の遺児、葛城王、多智奴女王、漢皇子がいた。宝皇女とともに3人は生き残ったのか? 628年推古天皇崩御時にあったこと 推古天皇崩御時の政変についてまとめると以下の通りとなる。 推古天皇崩御を契機に、①蘇我馬子の兄弟の境部摩理勢、②聖徳太子第二皇子の泊瀬王、そしておそらくは、③泊瀬王の義兄弟の高向王の3人が排除された。皇嗣筆頭格であった茅渟王も推古天皇崩御までに排除されたと見られる。 結果、①蘇我蝦夷が蘇我本宗家の地位、大臣家の家督を獲得、②聖徳太子第一皇子の山背大兄王は上宮王家筆頭の地位を獲得、③田村皇子が高向王妃宝皇女を娶って舒明天皇と…

#天智天皇#天武天皇#間人皇后#茅渟王#皇極天皇#高向王#泊瀬王

上古への情熱4ヶ月前

継体持統⑨:高向王日本書紀斉明紀の書き出しは衝撃的である。「天豊財重日足姫天皇(皇極・斉明天皇)は、最初、橘豊日天皇(用明天皇)の孫、高向王に嫁がれ、漢皇子をおうみになった。」 舒明紀でも皇極紀でもなく、なんと、斉明紀の冒頭に、しれっと、「皇極天皇にとって舒明天皇は再婚相手であった」と暴露している。 用明天皇の子であり孫であるとは? 日本書紀では高向王の父母は記載されていない。 高向王は日本書紀で明確に用明天皇の孫とされているが「本朝皇胤紹運録」では用明天皇の子となっている。 高向王は用明天皇第一皇子の田目皇子の子であるとする説がある。 この説の通りとすると、用明皇后の子であり用明天皇の孫であることになる。「本…

#高向王#泊瀬王#漢王子#皇極天皇#境部摩理勢#山背大兄王

上古への情熱5ヶ月前

継体持統⑧:二人の桜井之玄王淡海三船が「皇極」と名をつけた天皇。まさに皇を極めた天皇であるが、出自が謎めいている。 皇極天皇の母方の系譜 日本書紀によると皇極天皇の母は吉備姫王であり吉備姫王の両親の記載はない。出自を記載しない方針であったように見える。 後世の系譜資料では、吉備姫王は、欽明天皇の子、桜井皇子を父とし、母不詳としている。 二人の桜井之玄王 吉備姫王の父とされる欽明天皇の子である桜井皇子、日本書紀では堅塩媛の第十子桜井皇子であり、古事記では桜井之玄王とされている。 古事記では桜井之玄王は二人いる。堅塩媛の皇子の桜井之玄王と、敏達天皇推古天皇の子=堅塩媛の孫の皇女の桜井玄王である。 吉備姫王の親の名は桜井玄王で…

#皇極天皇#桜井皇子#桜井弓張皇女

上古への情熱5ヶ月前

継体持統⑦:漢王の妹、大俣王淡海三船が「皇極」と名をつけた天皇。まさに皇を極めた天皇であるが、出自が謎めいている。 皇極天皇の父方の系譜 日本書紀によると皇極天皇の父は茅渟王であり祖父は押坂彦人大兄皇子となっている。茅渟王の母に関する記載はない。 古事記では押坂彦人太子の子の智奴王の母は「漢王の妹、大俣王」としていて、大俣王の父母が誰か書かれていない。 漢王の妹、大俣王 大俣王については同名の大俣王が敏達天皇妃の春日老女子の第四子にいるが、敏達天皇の子に漢王の名がない。 春日老女子の第四子の大俣王の同母兄としては難波王、春日王がいて、いずれかの別名が漢王であれば当該大俣王が智奴王の母との解釈も可能となる。 また後世の資料…

#皇極天皇#茅渟王#舒明天皇#敏達天皇#橘諸兄

上古への情熱7ヶ月前

継体持統①:推古天皇にみる皇后の地位天皇が亡くなると次の天皇が立つというのが自明のようだが、皇后はどうなのか? 皇后の地位は天皇が亡くなると消えるのか? 皇后の地位は消えず終身制ではないのか? 推古天皇の権威の源泉 推古天皇の権威の源泉は、敏達天皇の皇后であったからというのは、異論は無いだろう。ということは、推古天皇は敏達天皇の継承者として権力を振るったことになる。 皇后の任務として、一般に言われているのが、天皇不在時の天皇の代わりである。では天皇の権威を皇后はどのように継承するのか? 推古天皇は敏達天皇の殯を行っている。敏達天皇の権威を継承する儀式と解釈できる。 用明天皇即位後も殯は続いていて、穴穂部皇子が敏達天皇の殯に乱入し…

#推古天皇#穴穂部皇子#用明天皇#押坂彦人大兄皇子#舒明天皇#皇極天皇

ウキウキ呑もう! ニコニコ食べよう!1年前

【酒船石(さかふないし)】古代日本のミステリー なんなんでしょ 2カ所で発見されているらしいです< 7世紀の人工物ってことですから1400年ぐらい前ですけど その役割は解ってないんですねえ > 奈良県明日香村の岡っていう地域にある酒船石が「岡の酒船石」「岡の酒船石」は江戸時代にはすでに見つかっていたらしいですね。 で、もう1つは「出水(でみず)の酒船石」大正時代に発見。 飛鳥川の畔、「岡の酒船石」の北西3キロメートルほどの出水っていう場所で、農家の人が2つ石造物を同時に掘り出したんだそうです。 今は「岡の酒船石」からほぼ真北に1キロメートルほどの、奈良文化財研究所飛鳥資料館、前庭に常設展示されているみたいです。でもコレ、レプリカだそうですね。 ホンモノの出水の酒船石は、京都市左京区南禅寺…

#皇極天皇#斉明天皇#蘇我蝦夷#蘇我入鹿#天智天皇#藤原鎌足

altgolddesu406の日記10日前

中世歴史めぐり~鎌倉・奈良・京都・伊豆・平泉・源平合戦など~ @ 歴史めぐりwww.yoritomo-japan.com www.yoritomo-japan.com 信濃善光寺は、無宗派の単立寺院。本尊の「一光三尊阿弥陀如来像」は、日本に仏教が伝来した552年(欽明天皇13年)に百済の聖明王から贈られた日本最古の仏像と伝えられ、その仏像を入手した本田善光が、602年(推古天皇10年)に信濃に伝えたのだとされている。現在地に遷座されたのは、642年(皇極天皇元年)。伽藍が建てられたのは644年(皇極天皇3年)。寺名は本田善光に由来。本尊は実際に生きているという意味で「生身の如来」と称され、絶対秘仏で開帳されることはない。鎌倉時代には源頼朝が参詣したと伝えられ、戦国時代…

4〕日本天皇・日本民族と中国・朝鮮両民族との2000年戦争。日本脳。心理学。日本民族の祖先。15日前

🎍52〕─2─藤原氏が女帝時代を終わらせ王朝交代を防ぐ為に女系母系天皇継承を封印した。~No.163No.164 ・ ・ ・ 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。 ・ ・{東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・ 正統保守が正当性女系母系天皇継承に恐怖するのは、眞子さんが金銭問題より愛を選んで小室圭さんと結婚して日本から逃げるようにアメリカに移住した事である。 ・ ・ ・ 万世一系の皇室を護ったのは、最高神・天照大神(女性神)を中心とした神話物語を唯一の正統と認めた男系父系天皇継承であった。 反天皇反日的国連は、正統男系父系天皇を正当女系母系天皇に変更するように日本に対して外圧を強めている。 日本が外圧に弱いのか強いのかは、数千年前の弥生時代・古墳時代から続く伝統・文化・歴史そして宗教を護れる…

歴史の余白20日前

File:日本の女性君主たち(連載第5回)Ⅰ 古代の女性君主たち 三 飛鳥時代の二人の女性オオキミ 2:皇極天皇(594年‐661年) (ア)登位の経緯推古女帝を継いだ男帝の舒明天皇の崩御後、舒明の皇后から直接に即位した。蘇我氏の傀儡として実権を持たなかった舒明同様、蘇我氏によって傀儡として後継のオオキミに立てられたと考えられる。 (イ)系譜敏達天皇の曽孫に当たるが、祖父の押坂彦人大兄皇子、父の茅渟王[ちぬのおおきみ]ともにオオキミには即位しておらず、当時のオオキミ家では傍流に属した。当初、用明天皇の孫に当たる高向王[たかむくのおおきみ]と結婚したが、死別もしくは離縁し、叔姪婚により叔父に当たる舒明の皇后に立后された。 (ウ)事績『日…

上古への情熱1ヶ月前

継体持統⑱:中臣鎌足の実像日本書紀をよく読むと、天智と鎌足は相性が悪いようにしか見えない。実は天智とは仲が悪かったんじゃなかろうか。 孝徳天皇の寵臣としての働き 軽皇子=孝徳天皇が乙巳の変の首謀者であるというのは、遠山美都男先生により解明され、近年相当に市民権を得てきた。 中臣鎌足は孝徳天皇の寵臣であったのは間違いない。 従って、中臣鎌足は乙巳の変で暗躍していたのは間違いないだろう。 一方の中大兄皇子は乙巳の変当時は10代の若年。日本書紀のような鎌足との密談はフィクションとしても、乙巳の変では三韓の調の儀式に皇族として古人大兄皇子とともに侍立していたのだろう。若い武者は儀式の見栄えも良くする。 鎌足は侍立していた皇子た…

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<根来寺>探索予備資料集。過去の日根野「庄」への小旅行の続きだ。反俗日記。 根来寺に行くことにした。過去の日根野「庄」への小旅行の続きだ。 日根荘 - Wikipedia 歴史 「天福2年(1234年)に九条道家が開発を申請したところ官宣旨が下り、日根荘が成立するに至った。九条家領は寄進地系荘園が多く、九条家自らが開発した日根荘は特異な存在であった。」 *** W。以下の観点からの小旅行であった。 「中世当時の様子は『九条家文書』や、文亀元年(1501年)3月から永正元年(1504年)12月まで九条政基が入荘した際に記した『政基公旅引付』などの古文書から窺い知ることができ、 戦国時代、日根荘の領主であった九条政基が長福寺に4年間滞在していた時に記した日記。…

私のブログ1ヶ月前

空からの音う 14日 撮影 彗星のこと https://www.nao.ac.jp/astro/sky/2024/10-topics05.html 14日16時前 14日ってね🙂 「太陽の活動」についても 原因は原因もとに戻され続け 原因は入り込むとのことで 背負われてゆく方々の覚悟も 配信されました (動画を載せたときの餓鬼的反応もあって) (撮影時 水断ちもされてたのね) ずっとよね 著作権侵害問題は 世界で動画配信されているシーンを 長引かせている方々の ですよ?皆さん 支払い完了せず「一生の問題」とされては積まれた 心身への盛りからの 相当なケアよね 頑張りの押し付けをされていた 押し付けてきた…

素直な気持ち 1ヶ月前

西国三十三所巡礼 善光寺お礼参り③元善光寺 秋の月静かに照らす菊の紋 善光寺参拝の帰りに向かったのは 長野県飯田市にある元善光寺 元善光寺の沿革は 古くはこの地を麻績の里(おみのさと)と呼んだ。推古天皇10年(602年)にこの地の住人本多(本田)善光が、難波の堀江(現在の大阪市)で一光三尊(善光寺如来)の本尊を見つけて持ち帰り、麻績の里の自宅の臼の上に安置したところ、臼が燦然と光を放ったことからここを「坐光寺」としたとされる。 その後、皇極天皇元年(642年)、勅命により本尊は芋井の里(現在の長野県長野市)へ遷座され、この寺が善光の名をとって善光寺と名付けられたことから、坐光寺は元善光寺と呼ばれるようになった。遷座された本尊の代わりに勅…

丁寧に暮らす。1ヶ月前

あおによし、談山神社から長谷寺へ。季節は夏から秋へ、 とはなかなか進んでくれず、 もどかしいばかりの、 2024年の10月ではありますが、 日本史フリーク+御朱印男子垂涎の地、 以前から行きたいと思ってた、 談山神社に行ってきました。 近鉄桜井駅から、 バスで20分ほど山道を揺られ、 人里離れた山の中に、 なんとも荘厳なお社があります。 僕の御朱印帖も相方さんのそれも、 旅行先や出張のたびに、 あちらこちらでいただいているので、 数年で3冊目と相成りまして、 最早、信仰よりも御朱印のほうが、 メインといいますか、 目的と手段、プロセスと結果、 そんなものが入り乱れて、 グチャっとなっているわけです。 ここ談山神社は、 大化の改…

旅素描~たびのスケッチ2ヶ月前

歩き旅のスケッチ[北国街道]27・・・善光寺宿と善光寺善光寺の起源 善光寺の成り立ちは、遠く飛鳥時代まで遡らなければなりません。縁起によると、ご本尊の一光三尊阿弥陀如来(いっこうさんぞんあみだにょらい)は、インドから百済の国へと渡った後で、仏教伝来に伴って我が国に伝わったとされている、日本最古の仏像だということです。 当時、仏教は、全く新しい宗教であったため、受容すべきかどうかという激しい対立がありました。百済系の氏族であった蘇我氏などは、仏教を受け入れて、自身の権力形成に利用しようとしたようですが、方や、古来から天皇家に仕えていた物部氏は廃仏派であったと言われています。 この、物部氏の手によって、最古の仏像は、難波の海に捨てられてしまいます。と…

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第15回(最終回)古代史講演会レポート<テーマ> 『日本書紀』は、何故作られたのか <日時> 2024年(令和6年)8月4日(日)午後1~4時 <会場> 埼玉県立歴史と民俗の博物館 講堂 <最初に> 今回最終回となる古代史講演会は、途中コロナ禍による2年間の中断を経て、約5年間、計15回多くの皆さんが参加してくれて開催することができた。大変ありがたかったと「埼玉県立歴史と民俗の博物館 友の会」の「古代文化を考える会」斉藤亨さんが挨拶された。 今回の『日本書紀』のテーマは、佃收先生が長い間研究を重ねられ、得られた内容である。早速、先生の講演を始めていきたい、と述べられた。 今回もA‐4版20枚の資料が、「古代文化を考える会」の皆さん…

細かなことが気になる親父の備忘録2ヶ月前

今年も中秋の名月から暦の底なし沼へ昨年に続いて暦の底なし沼にはまってしまった(^^;ニュースでも取り上げられていた中秋の名月、今年は9月17日だった。ちなみに昨年は9月29日、来年はなんと10月6日になるらしい。 昨年暦の底なし沼に足を踏み入れ、それ以上の歩みはやめようと思ったのに今年もまたちょっと踏み入れてしまった(^^; 昨年は以下について書きました。ほぼリンクの記事ですが、気になるテーマがあれば覗いてみてやってください。 まず・・中秋の名月とは? 太陰太陽暦(いわゆる旧暦)って? 旧暦って誰が決めているのか? 中秋って? 暦の上の暦とは? そもそも今の西暦はいつから導入されたのか? 旧暦の作成にあたっての2033年問題と…

歴史の余白2ヶ月前

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宝塚ブログ 心は青空♪2ヶ月前

【星組】『にぎたつの海に月出づ』|波線上ヒロインに詩ちづるちゃん!星組の別箱公演『にぎたつの海に月出づ』のヒロイン発表〜♪ 予想通り、詩ちづるちゃんがヒロインで、次期トップ娘役の足場固めが着々と行われていますね。 目次: 詩ちづるちゃんは、2回目のバウホール公演のヒロイン 次期トップ娘役へ盤石の備え 平松結有、目の付け所がすごい! 詩ちづるちゃんは、2回目のバウホール公演のヒロイン 前回は、昨秋の『My Last Joke-虚構に生きる-』(作・演出 竹田悠一郎)でヒロイン、ヴァージニア・クレム役でした。 個人的感想ですが、せっかくのヒロインなのに、作品が暗くて、若くして亡くなってしまうので、もっとヒロインらしい、ガッツリ見せ場のあるお役がいいな〜と思ってい…

万葉集の歌碑めぐり2ヶ月前

万葉集の世界に飛び込もう(その2654)―書籍掲載歌を中軸に(Ⅱ)―●歌は、「今城なる小丘が上に雲だにも著くし立てば何か嘆かむ(斉明天皇 斉明紀)」である。 【斉明天皇陵】 「斉明天皇(斉明紀)(歌は省略) 斉明天皇越智崗上(おちのおかうえ)陵は、高取町車木(くるまぎ)の民家のうしろにある小字天皇山の丘陵の山頂にある。・・・麓から頂上まで屈折した石段がつづき、中腹の茂みに大田皇女の墓がある。大田皇女は、天智と遠智娘(蘇我倉山田石川麻呂の女)との間に生まれ、後、天武に嫁して大伯皇女と大津皇子を生んだ人である。頂上の斉明天皇は、舒明皇后で天皇崩御後、皇極天皇となり、六四五年大化改新とともに位を弟の軽(かる)皇子孝徳天皇にゆずり、孝徳崩後には、重祚して斉明天皇となっ…