埴谷雄高とは 社会の人気・最新記事を集めました - はてな (original) (raw)

小説家、評論家、革命家。
…ちなみに右の写真は、恐らく戦後間もない頃のものではないか?…我々のうちのより多くの者達の「通念」からすれば、異様に若いのである!

その生涯

戸籍上は1910(明治43)年1月1日、旧日本軍統治下の台湾新竹に生まれたことになっているが、実際は1909(同42年)年12月19日生まれ。本名は般若豊*1
1928(昭和3)年、日本大学予科2年制へ入る。時おりしも「3・15」の大弾圧の直後、マルクス主義の嵐が同大学内にもまた吹き荒れていた時代である。…そんな学内にあって「左翼演劇」活動に従事、当時女優の伊藤敏子を知り、後の「地下活動」中、同棲、結婚に至る。
1931(昭6)年、当時既に非合法組織と大日本帝国たる当局から「敵」視されても居ただけでなく、既にして官憲ら「実行部隊」の「現場」に於ける「職務遂行」を直接の機縁として瓦解寸前の惨状的状態を晒していたとすら言われうるのであろうところの日本共産党(いわゆる「日共」、に入党(活動名;主として長谷川。通称、「無帽の長谷川」(そー言えば確かに昔の人ってみんな帽子被ってるよね、昔の白黒のしかも動きの異様に速い映像を見ると。)。)*2、1932(昭7)年3月、伊達信宅にて逮捕。同年5月、富坂署より「豊多摩刑務所」へ収監され、「未決囚」として獄中生活を送る。(…のち、結核のため病監へ移される。)
そんな「灰色の壁」に閉ざされた獄舎の一舎房に於ける生活の中でカントの『純粋理性批判』を読み、とりわけその後半部の「先験的弁証論〔=超越論的弁証論〕」の諸箇所に強く影響を受け、「形而上学的転向」*3を遂げた(いわゆる「カント体験*4」)後の翌年11月、懲役2年執行猶予4年の判決を受け出獄。以後数年間に亙る「無為徒食時代」が始まる。
1939年(昭14)、同人誌「構想」同人となり、平野謙佐々木基一、荒正人、山室静、高橋幸雄、栗林種一、久保田正文、郡山澄雄、佐藤宏、佐藤民宝、藤枝高士らと知り合う。…同誌にアフォリズム集「不合理ゆえに吾信ず Credo, quia absurdum. 」および小説「洞窟」を発表*5
翌年の3月頃、「経済情報社」へ入り、「経済情報」の編集に携わる*6
そしてあの1945(昭和20)年・真夏の敗戦、の当日、雑誌社を即刻辞し、家族には「これからは文学をやる。どうせ金は儲からない。悪いが家を売るまでやる。」と傲慢にも高らかに(?)宣言!!
翌年(昭21年)に平野謙本多秋五、荒正人、佐々木基一、山室静、小田切秀雄と共に(=いわゆる「「近代文学」七人の侍」)創刊した同人誌「近代文学」に、創刊号(昭和20年12月30日付)から「死霊(しれい)*7」を連載開始。
またところで、以上の「死霊」執筆以外にもこの時期には、数々の重要な出来事があり、その一つには「前衛芸術研究会」たる「夜の会」への参加が挙げられるのみならず、それに参加した安部公房をそもそも発掘した功績も、埴谷に帰せられるべきところを持つ*8
1949年結核再発、「死霊」第4章の中途で途絶。
爾後数年に及ぶ自宅での横臥的闘病生活からの快復期から後は、同時代の政治的情況、即ち「政治の季節」の到来という外的要因もあったからであろうか、政治的色合いの濃い諸論文を精力的に発表してゆくこととなるのだが、その結果として、「前衛」党たる共産党批判の思想家として、非共産党系の新左翼諸派にも或る程度の思想的影響力を与え始めるに至る。――とりわけ腹這いになって書かれた文芸雑誌「群像」昭和31年5月号に掲載された「永久革命者の悲哀」(その構想段階の原題は、「スターリンの元帥服」であったとされる。)は、我が国に於けるスターリン批判(いわゆる「反スタ」、即ち反スターリニズム(反スターリン主義))の先駆的著作として比較的有名である、とされる。また彼のこの方面を代表する政治論文集『幻視のなかの政治』 (中央公論社 1960、未來社(未来社) 1963・改訂版2001)は、60年安保闘争世代にもまた――或る限定的な範囲内であるとは想われるのだが――、何がしかの影響を及ぼしたであり、同時代のイデオローグへと祀り上げられた観も、なきにしも非ずであるのだが、後年特に強まる、「あの「幻の」『死霊』*9の作者」としての神格化の萌芽が、既にこの時代に芽吹き始めて居なくもないのだ、と観ることも出来よう。
1975年、漸く続編の第5章「夢魔の世界」が、やはり「群像」誌上に一挙発表される(この後「死霊」は一章毎に、同誌上に断続的に発表されてゆくことになる。)。
1980年代中葉には、少なくとも当時はかなり話題になった、吉本隆明との論争が生ずる*10
1995年、「死霊」第9章「《虚体論》――大宇宙の夢」が発表され、一応の完結が宣せらる。
1997年2月19日、吉祥寺の自宅にて逝去。青山墓地に葬られる。…尚、埴谷雄高忌は「アンドロメダ忌」という、彼に特徴的な名を付されてそう呼ばれて居る。

著作、その評価、影響、研究状況等。

生前、頑なに自己の著作の文庫化を拒んで来た埴谷であったが、彼の死後、単行本として講談社から出版されていた『死霊』、および代表的な、「政治」、「思想」、「文学」の諸分野での論考が、絶版という出版界に於ける焚書にも似た刑罰に処せられた数多の「良書」たる「文芸書」をこの様な死の淵から生還させんとする崇高な目的の為であるのか、異様に単価の高いあの「講談社文芸文庫」の「出版目録」に、やはり黒々とした表紙に包れて、収録されることで、一般読者にとってより近付き易くなったと言える*11
『死霊』はこれまで、主として文学畑にて或程度、或る特定に仕方に於いてそれなりには議論が重ねられて来たが、彼の政治評論家、革命家としての諸側面に対するそれは――それが或る種独特の、しかし同時によく知られ過ぎる程に知られた危険を孕むと十全に予覚されえて居るからであろうか?文学畑での騒々しき声高の喧騒に比すれば――あまり為されても居らず、深められても居ない沈黙的静寂の「暖かな薄明」のうちにあるのが、現状であるらしいのであって、これを「理性の冷たき探照灯」による「真理の明るみ」の内に引き摺り出すことが、それが少々強引なやり方であってさえも、我々の今後の主動向に、強く求められていなくもない「態度決定」の一帰結であるに他ならぬと筆者は、確信してさえ居るのではあるのだ*12が、…この方面からの読みが為されずに、「死霊」の「形而上学的」乃至は、「《存在の革命》」という――一見して――「存在論」的な側面のみが強調されることは、「解釈に於ける片手落ち」の謗りを免れえないと考えられるのである*13

言い忘れたことやその他的なるもの

・往時、丸山真男(丸山眞男)も吉祥寺に住んでおり、ダンスをも介在とした相互の交流があった模様である*14
・井上光晴を主題的対象として扱った原一男監督の映画;『全身小説家』に於いてそのように題名にもなっているこの語は井上光晴その人を指し示す為のものなのだが、その命名者こそは埴谷雄高に他ならぬのである。…また、ところで埴谷はまた同じ井上を、幼少期の彼自身を実際そう呼んでいたのであるという井上の祖母の言に倣って、「嘘つきみっちゃん」と呼んでいるのだが、詳しいその内実については、当然ながら、同映画を実際に参観することで各自認識の空隙を――無論、もしそのようにぽっかりと空虚にまさに空いた洞穴の如きものが見られるのであればの話だが――補って欲しいと想う。