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信濃源氏

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しなのげんじ

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日本の隅っこの歴史17日前

鹿ヶ谷の陰謀 ~ 治承・寿永の乱前半さて、平治の乱から15年くらい経った1176年(安元2年)、夏ごろから急に宮中は不幸が続きます。後白河上皇の妻、建春門院。二条天皇の中宮、高松院。後白河上皇の孫、六条上皇。近衛天皇の中宮、九条院。と、相次いで亡くなってしまいます。 この時の天皇は、六条上皇の三つ年上の叔父で、後白河上皇の息子、高倉天皇です。六条天皇は享年13才ですから、この当時16才ということになります。高倉天皇の母親は建春門院こと平滋子(たいらのじし)。清盛からみれば義妹にあたる人です。つまり、高倉天皇はお母さんを亡くしたことになり、同時に母方のバックアップを失ったことになります。奥さんは清盛の娘の平徳子(たいらのとくし)で…

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10ブックマーク城ぶら「泉小次郎親衡館」!めざすは北条義時の首…信濃源氏・泉親衡の乱favoriteslibrary-castletour.com

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湯の中で屁を放ったようなブログ -とりとめのない無料温泉-2ヶ月前

⭐️長野県上田市 小鍋立の湯跡長野県上田市は、平安時代末期の信濃源氏の武将、木曾義仲(源義仲)が平家を追討した際、挙兵をした地だそう。 ja.wikipedia.org 至る所に木曾義仲に関連する史跡があるのですが、こちらもその一つ。 詳しい伝承は不明で、木曾義仲との関係性も分からないけど、一応関連史跡となってるらしい。 昔、ここに鉱泉宿があり、皮膚病によく効いたそうです。 ぱっと見、濁った泥水みたいですが、いやいやどうして、周囲には硫黄臭がプンプン漂ってます。 今でもこの鉱泉を組んで持ち帰る人がいるんでしょうね。 4.4℃と極冷鉱泉ですが、今でも硫黄から成る鉱泉が湧き出していました。

シン・ニホンシ2ヶ月前

410.諏訪にまつわる金刺氏と武五百建命とは長野県、諏訪と関りの深い金刺氏、武五百建命について取り上げる。次の流れで紹介してく。・金刺盛澄(かなさしのもりずみ)・手塚光盛(てづか みつもり)・金刺氏(かなさしし)・磯城島金刺宮跡(しきしまかなざしぐうあと)・金刺氏の出自・「かなざし」とは・金刺氏・科野国造(しなぬのくにのみやつこ、しなぬこくぞう)・建五百建命(たけいおたつのみこと) ■金刺盛澄(かなさしのもりずみ)平安時代後期の諏訪大社下社の神官・大祝(おおほうり)でかつ武士である。弟は手塚光盛。 金刺盛澄は治承・寿永の乱(1180年~1185年)では源義仲(信濃源氏の武将)の挙兵に従った。源義仲が討伐され、源頼朝によって捕縛されて梶原…

ホリショウのあれこれ文筆庫3ヶ月前

第1101話 冠者・源義高と大姫の絆序文・又従兄弟同士 堀口尚次 源義高は、平安時代末期の河内源氏の流れを汲む信濃源氏の武将。清水冠者〈冠者とは元服して間もない若者〉と号す。木曾義高とも。源〈木曾〉義仲の嫡男。母は『尊卑文脈』では今井兼平の娘としているが、兼平は義仲と同年代の乳母子なので、義高の母は兼平の妹〈中原兼遠の娘〉と推定されている。 寿永2年、挙兵した父・義仲は以仁王の遺児・北陸宮を奉じて信濃国を中心に勢力を広げ、同じ源氏の源頼朝とは独立した勢いを見せた。また頼朝と対立していた叔父の志田義広と新宮行家を庇護したことにより、3月には頼朝と義仲は武力衝突寸前となる。義仲が11歳の嫡子義高を人質として鎌倉へ差し出すことで、両者…

お城めぐり5ヶ月前

砥石城米山城から尾根を辿っていくと砥石城に至る。 分岐点から砥石城まで15分だという。ぱっと見、緩やかな雰囲気だったので走った。テンションも上がっていたので。 そうしたら意味ありげな石列を見つけた。道に沿って置いてあるわけでもなさそう、規則的にも見えるけど正体が分からず、そのまま先へ。 先にも似たような石列が。 これは一枚の岩盤の先っちょだけ出ているだけみたいな? 出てきた先端部分が浸食されて石列に見えただけのような気がする。 この山から砥石が産出されたので、山や城の名前に「砥石」が入っていると言われる。この石列も砥石を切り出すための跡とかだったりして(それにしては変な場所にあるし、不自然な切り出し…

ken ohwada 雑記帳7ヶ月前

平安時代の出来事平安時代について断片的な知識しかなかったので、 平安時代の出来事を年表にまとめた。 関連記事 参考 平安時代の概要 平安時代の小区分 平安前期 平安中期 平安後期 平安時代の文化 悪霊と祈祷の時代 平安時代の出来事 平安前期の出来事 781年 (天応元年) 桓武天皇 即位 794年 (延暦13年) 平安京に遷都 800年(延暦19年) 富士山が噴火 (延暦の大噴火) (805年 (延暦24年) 最澄 が 比叡山延暦寺 を創建 806年 (大同元年) 平城天皇 即位 806年 (大同元年) 空海が 高野山金剛峯寺 を創建 807年 (大同2年) 伊予親王の変 809年 (大同4年)(809年) …

ホリショウのあれこれ文筆庫8ヶ月前

第967話 木曽義仲と巴御前序文・最期の奉公 堀口尚次 源義仲は、平安時代末期の信濃源氏の武将。河内源氏の一族、源義(よし)賢(かた)の次男。源頼朝・義経兄弟とは従兄弟にあたる。木曾義仲の名でも知られる。『平家物語』においては朝日将軍〈旭将軍とも〉と呼ばれている。 以仁王(もちひとおう)〈後白河天皇の第三皇子〉の令旨によって挙兵、都から逃れたその遺児を北陸宮(ほくろくのみや)として擁護し、倶利伽羅峠の戦いで平氏の大軍を破って入京する。連年の飢饉と荒廃した都の治安回復を期待されたが、治安の回復の遅れと大軍が都に居座ったことによる食糧事情の悪化、皇位継承への介入などにより後白河法皇と不和となる。法住寺合戦に及んで法皇と後鳥羽…

Mottyの旅日記 Archive9ヶ月前

海津城 (松代城)海津城城址碑 海津城二ノ丸から本丸の戌亥櫓台と北不明門 戦国時代は海津城と呼ばれ、江戸時代は川中島城や松代城と呼ばれた平城。城の前身としては、清野氏の居城があった。 清野氏は、村上氏の一族、つまり信濃源氏の裔といわれ、宗家にあたる村上氏に属し、清野村を中心とする9ヶ村を領した小領主であったらしい。 武田晴信(信玄)が村上義清に敗れた天文19年(1550)の戸石崩れの少し前、晴信が戸石城の攻撃の際に行った村上家臣への調略によって武田側に寝返ったようで、信濃先方衆に編入された清寿軒という人物が史料に見える。この清野氏の居城を、後に信玄が山本勘助晴幸に命じて改修拡張させ、善光寺平と上杉氏に対する抑え…

Mottyの旅日記 Archive9ヶ月前

上原城上原城入口にある城址碑 諏訪大社上社大祝であった諏訪氏の居城。 古代より続く諏訪氏の出自には、複数の説がある。古事記には、大国主命の国譲りの際に、その子建御名方神が敗れて科野(シナノ)の州羽(スワ)の海に落ち延びて助命されたとあり、諏訪氏はこの裔であるとも、神武天皇の子神八井耳命の後裔金刺金弓の子孫ともいう。このほか、信濃源氏のひとつである清和源氏源満快流という説や、桓武天皇の後裔という説もあるが、いずれにしても、諏訪大社の神官の家系は神氏と呼ばれ、高貴な血筋として尊崇された。 平安時代末期になると、各地の神職系豪族と同様に、諏訪大社の神職の家も武士化していったが、源平の争乱で源義仲に与した家…

Mottyの旅日記 Archive9ヶ月前

上ノ平城上ノ平城は、平安時代末期に伊那馬大夫と称した、源為公によって築城されたと伝わる。 為公は、清和源氏の主流である源経基の流れで、経基の五男満快を祖とする家に生まれ、この家は、主に東国の官職を歴任していた。為公の父為満は、同じ経基流の中でも最も栄えた河内源氏と関係を結び、源頼信の娘を室に迎えていたため、為公自身は八幡太郎義家や新羅三郎義光とは母方の従兄弟にあたる。 為公の信濃との繋がりは、為公が信濃守に任官した際にこの城を築いて勢力を扶養したといわれ、子孫は各地に土着して信濃源氏の一派となっていった。 その後、上ノ平城には、鎌倉時代に知久氏が拠ったとされるが、知久氏の出自には、この為公の子為衡に始…