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足利義政
室町幕府の第8代将軍。(在宝徳元(1449)年〜文明5(1473)年)
六代将軍の足利義教の子。夫人は日野富子。
元服後の最初の名前は義成(よししげ)。後に義政と改名。父義教の政治姿勢を継承して守護大名への家督への介入を行なおうとした。関東公方足利成氏が関東管領上杉憲忠を誅殺した享徳の乱に介入し、今川範忠に命じて関東公方を古河に追い、さらに弟の足利政知を関東公方に任じるが、鎌倉に入ることが出来ず、成氏(古河公方)と政知(堀越公方)の関東公方分裂を招く。尾張国守護代織田氏の内紛にも介入しようとするが、尾張国守護の斯波氏の反発を受け、さらに管領畠山持国や母の日野重子も反対したため、失敗に帰する。
寛正の大飢饉(1460−61)にあたって百貫文(1000万円ほど)の援助のみで、自身のぜいたくを改めなかったことから反発を買う。
子がなかったので弟の足利義視を養子として後継将軍とするつもりが、実子足利義尚の誕生に伴う相続争いが発生。文正元(1466)年政所執事で義尚後見役の伊勢貞親が義尚の家督継承を願い、義視排斥を企てるが、細川勝元・山名宗全ら幕閣の実力者に反対され、貞親の他に貞親に近いとみられた斯波義敏・赤松政則・季瓊真蘂らが没落し、義政は主導権を失い、義政親政は挫折する(文正の政変)。
幕閣の有力者である畠山持国の子の畠山義就と甥の畠山政長の対立を調停できずに応仁の乱の勃発を招く。
応仁の乱には一貫して東軍側に属し、弟の義視を後継者と考えていたが、義視が日野勝光(富子の兄)排斥を迫ると、義視の仇敵の伊勢貞親を復活させ、義視を西軍に追いやる。
宗全・勝元の死に伴い、乱は終息すると義政は義尚に将軍職を譲って隠居するが、富子との不和や義尚との不和が起こり、文明12(1480)年に大病を患ったこともあって政務にも嫌気が差したので、芸術方向に走り、のちの銀閣寺(慈照寺)となる別荘(東山殿)を造営。「東山時代」と呼ばれる文化上の一時代を画す。
義尚は父から逃れるように近江国の六角氏討伐に向かい、長享3(1489)年に陣中で病死する。義政と富子は義視の子の足利義材(義稙)を将軍として迎えることに同意し、延徳元(1490)年正月に観音殿(銀閣)の完成を待たずに死去する。
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