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大江広元

鎌倉幕府御家人。政所別当。
小外記、因幡守、明法博士、左衛門大尉、検非違使、兵庫頭、掃部頭、大膳大夫、陸奥守。
建保四年(1216)、中原姓より大江姓に改姓している。

大江維光を実父、中原広季を養父とする説が有力。*1
また、中原広季を実父、大江維光を養父とする説*2や、藤原光能を実父とし、中原広季が母の再婚相手で、母の兄弟である大江維光を養父とする説*3もある。

はじめ朝廷の下級官人であったが、鎌倉に下向して源頼朝の側近官僚として活動。同じく中原広季の養子であった義兄弟中原親能の縁故によったものとみられる。
鎌倉下向後は、公文所(のち政所)別当となり、幕府の行政運営、朝廷・幕府間の交渉に活躍し、草創期の幕府を支えた。また、頼朝死後は北条氏との協調関係を築き、武力抗争で数多くの御家人が失脚・滅亡する中で宿老として存在感を示し続けた。

子女

長男・親広は、嫡男として政所別当・京都守護などの幕府要職を歴任したが、承久の乱で朝廷方に付き失脚。出羽国寒河江荘に逼塞し、子孫は当地に土着した。
次男・時広の系統が嫡流となり、彼を祖とする長井氏からは評定衆・引付衆の要職に任じられた人物を多数輩出している。
四男・季光は、毛利氏の祖。承久の乱で戦功を挙げて台頭し、評定衆に任じられ重きをなしていたが、宝治合戦にて三浦氏に加勢して自刃。子孫は長らく雌伏のときを過ごし、戦国時代の毛利元就に至って飛躍を遂げる。
この他、三男宗元は那波氏を名乗り、上野国那波荘に勢力を扶植。末子忠成は海東氏を名乗り、兄季光と共に評定衆を務めていたが、宝治合戦における兄への加担を問われ辞職。

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