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忠犬ハチ公
ハチ(1923年11月10日〜1935年3月8日)は秋田県大館市出身の秋田犬。亡くなった飼い主を迎えに毎日渋谷駅まで来ていたというエピソードが有名で、渋谷駅前で銅像*1になっている。銅像は出身地の大館駅前にも存在する。
飼い主
ハチの最初の飼い主は東京帝国大学農学部教授の上野英三郎である。ハチは生まれた翌年の1924年1月14日に大館から上野まで急行列車で運ばれた。1925年5月21日に上野が大学で講義中に脳溢血で急逝すると、ハチは帰宅せぬ主人を慮ってか、3日間エサに手をつけなかったという。
ハチは上野の妻、八重の親戚の家などを転々とするが、1927年の秋に上野宅に出入りしていた植木職人で、富ヶ谷に住んでいた小林菊三郎の所に落ち着いた。富ヶ谷が渋谷駅に程近いためか、ハチが渋谷駅に姿を現すようになったのはこのころからだという。
銅像が建つまでの経緯
1932年、社団法人日本犬保存会初代会長の斉藤弘吉が、日本犬調査の過程で偶然渋谷駅でいじめられていたハチ公のことを知り、ハチを哀れんでそのエピソードを東京朝日新聞に寄稿した。新聞に「いとしや老犬物語」として掲載されたハチのエピソードは一躍有名になり、人々は「忠犬ハチ公」と呼んでハチをかわいがるようになった。
翌年、斉藤と懇意にしていた彫塑家の安藤照が、ハチの物語を聞いて感動し、銅像の作成を思い立つ。飼い主の小林菊三郎はこれを知り、ハチを連れて毎日安藤のアトリエを訪れた。その後1934年1月に忠犬ハチ公銅像建設趣意書が作られ、募金が開始。主に全国の小中学生から募金がなされた。ハチ公のエピソードはアメリカでも知られていたため、アメリカの小中学生からも募金が送られたという。
1934年4月21日に銅像の除幕式が盛大に行われた。ハチも除幕式に出席した。
銅像のその後
初代の銅像は第2次世界大戦中(大東亜戦争)の1945年8月14日に金属不足のために供出され、鉄道省浜松工機部にて溶かされてしまったが、戦後の1948年に安藤照の息子の安藤士によって再建された。
ハチのその後
1935年(昭和10年)3月8日午前6時すぎ、渋谷川の稲荷橋近くにある滝沢酒店北側路地入り口にてひっそりと死んでいるのが発見される。現在の渋谷警察署と渋谷駅南口の間の近辺であるらしい。死因はフィラリア。享年13歳。
ハチの告別式は渋谷駅にて盛大にとり行われ、上野英三郎未亡人の八重、最後の飼い主である小林菊三郎夫妻も出席した。大勢の少年少女がハチに花輪を手向けたためにハチの遺骸は花に埋もれてしまったという。
ハチの剥製は、東京上野の国立科学博物館に保存されている。
*1:待ち合わせ場所として有名
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