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津田左右吉

歴史学者。岐阜県出身。(1873年〜1961年)

主に日本古代史の人。東京専門学校*1出身。卒業後は満鉄で研究員になり白鳥庫吉の指導を受ける。

当時絶対視されていた古事記や日本書紀の内容についても、通常の歴史学と同様の文献批判(史料批判)を行うことを主張した(記紀批判)。史料批判とはつまりは歴史書を作った者の意図を割り引くという作業であり、つまりは記紀の内容が大和朝廷によって史実から枉げられているとする立場を意味する。

当時の皇国史観・神国史観では日本神話は日本建国の史実だとされていたわけであり、そうすると津田の研究は天皇制の正統性に異議を唱えるものと捉えうる。このため昭和期になり世情の右傾化が進むと、研究内容は不敬に当たるとして国粋主義者から睨まれるようになった。
ついに1940年には「古事記及び日本書紀の研究」などの著書4冊が発禁処分とされ、早稲田大教授職から退いている。さらに出版法違反で版元の岩波茂雄とともに起訴され、1942年に有罪判決を受けている*2

敗戦後には逆に軍国に屈しなかった進歩的学者と持ち上げられたりもした。
が、津田本人は1946年に天皇制を擁護する文章を「世界」に掲載して物議を醸した*3りもしている。
何にせよ皇国史観がほぼ消滅した戦後日本では、津田史学は唯物史観とともに広く受け入れられるところとなった。
1949年に文化勲章を受章。

津田史学について

今日的に見れば研究内容の学術的価値よりは周囲の政治的状況によって必要以上に大騒ぎされただけとも言える*4
仮に津田と同分野の研究が多数の学者によって行われていたのであれば、「津田左右吉? 先駆者としては評価するけど、疑わしい部分は全文捨てるとか、ちょっと学問としては荒っぽいよね」あたりの評価で落ち着いていたかもしれない*5

なお、日本の近代的な意味での歴史学はランケの弟子のリース(Ludwig Riess)が1887年に帝大(東大)の史学科に招請されたことに始まり、史料批判を主流の方法論としていた。ランケ史学は、本来は歴史の普遍法則は存在しないとする立場であり、マルクス的な唯物史観とは相容れない。後に帝大史学科は(平泉澄らの影響により)皇国史観によって支配されることとなる。
津田本人は日本独自の歴史を重んじる立場で、大陸には批判的な目を向けており、かつ、マルキシズムにも敵対していた。皇国史観との関係を別にすれば、戦前日本ではごくごく標準的な立場だったと言える。早稲田出身だったことで、官学主体であった当時の史学全体からすると周辺的な位置におり、ここに皇国史観と相容れぬ記紀批判を行う余地があったと言える。

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