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徳川実紀

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とくがわじっき

19世紀前半に編纂された日本の江戸幕府の公式記録。「国史大系」に収録されている。

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探検!日本の歴史5日前

奥平松平家~小幡藩~こんにちは、勘矢です。 今回は小幡藩の奥平松平家について調べたことをまとめました。 1. 上野小幡藩奥平松平家 (1)陸奥桑折藩 (2)上野小幡藩 1. 上野小幡藩奥平松平家 (1)陸奥桑折藩 1681年に陸奥白河藩主松平忠弘の養子となった忠尚は、藩内での評判が悪く、騒動になりかねない状況なったため世子から外され、1688年に白河新田二万石を与えられて分家した。1700年に陸奥桑折に移封され、1705年に奏者番となった。 忠尚の実子は早世していたので、1700年に実弟忠泰を養子に向かえたが、1712年に没したため、甥の忠暁を養子に迎えた。忠暁の母は奥平昌能の娘で以降の当主は女系で奥平信昌の血を…

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探検!日本の歴史1ヶ月前

奥平松平家~桑名藩・忍藩~こんにちは、勘矢です。 今回は奥平松平家について調べたことをまとめました。 1. 武蔵忍藩奥平松平家 (1)家康の養子、要地を治める (2)忠弘の後継者問題 (3)伊勢桑名へ転封 (4)紀州藩と与板藩からの養子 (5)武蔵忍へ転封 (6)幕末の忍藩 1. 武蔵忍藩奥平松平家 (1)家康の養子、要地を治める 奥平信昌の四男忠明は1588年に次兄家治と共に外祖父徳川家康の養子となり、松平姓を下賜された。1592年に次兄家治が没するとその遺領の上野国多古郡内七千石を相続した。1600年の関ヶ原の戦いに従軍し、1602年に一万石を加増されて旧領三河作手で一万七千石を領した。 1610年に伊勢亀山に転封…

遼東の豕1ヶ月前

今日は何の日?岐阜県の大垣市に身内が住んでいたことがあって、そんなこともありはけっこう足を運びました。大垣城もあるし史跡も多いことから、資料も色々集めました。 大垣駅から西北西に4kmほどに関ケ原合戦の際に、徳川家康が本陣を構えた岡山という場所がある。今は小高い森のようになっているが、合戦時は徳川方の旗指物が数多翻っていたに違いない。 家康本隊は9月1日に江戸城を立っている。4日に小田原城、9日には岡崎城に着いている。家康にとっては幼少期に過ごした城であり、桶狭間の後に治めた思い出の土地であるにも関わらず、一泊しただけで翌日には尾張熱田に移動してしまう。 ううむ、家康、まったく情の薄い武将である。目の前に迫…

うまずたゆまず2ヶ月前

花火大会 ~ 8月31日は全国花火競技会・秋田県大曲"夜"花火 〜夏の夜空を美しく彩る「花火」は、 日本の夏の風物詩ですね。 全国各地で趣向を凝らした「花火大会」が 開催されています。 お盆と花火 花火大会の起源とは 令和6(2024)年の「隅田川花火大会」の日程 「玉屋」「鍵屋」は江戸時代の花火師の屋号 花火の日 日本三大花火競技大会とは 全国花火競技大会 大曲の花火 土浦全国花火競技大会 伊勢神宮奉納全国花火大会 その他の全国の人気花火大会 北海道・東北の花火大会 関東の花火大会 中部の花火大会 近畿の花火大会 中国・四国の花火大会 九州の花火大会 お盆と花火 夏の風物詩の一つでもある「花火」。 「お盆休み」の今、 家族で手持ち花火を楽しんだり、 花火大…

一票の格差に反対のブログ2ヶ月前

天明の大飢饉は、1782~1788年まで7年間も続きましたが、是が再び来たらどうしますか?江戸時代の日本の人口は、現在の4分の1の3千万人でしたが、それでも百万人の餓死者を出しています。現在の日本の人口は1億2千万人です。もし江戸時代のような飢饉が来たら、目も当てられない惨状に成りますよね? 数千万人の餓死者が出てもおかしくないですよね? 天明の大飢饉は、岩木山と浅間山の大噴火、そして、アイスランドのラキ火山とギルムスヴォトン火山の大噴火が原因でした。これらの世界的な大噴火によって、大量のチリが北半球を覆って、7年間も植物が育たなくなったのです。再び、岩木山と浅間山の大噴火、そして、アイスランドのラキ火山とギルムスヴォトン火山の、世界的な大噴火が、再び来ないとは、誰にも言えませんよ…

一票の格差に反対のブログ2ヶ月前

徳川家康は、何故、イギリスの真似をしなかったのですか?日本は、豊臣秀吉以来、キリスト教を禁止して、江戸時代には「島原の乱」のように、キリスト教徒は皆殺しにしていましたが、これは失敗ですよね? 皆殺しにするのは、良いアイデアでしょうか? 違うでしょう。他に方法が有ったはずです。キリスト教を認めよと言っているのではないです。当時は、ヨーロッパでも宗教の自由は有りませんでした。従って、キリスト教を禁止したとしても、不思議な事ではないです。例えば、ヨーロッパでは、カトリックとプロテスタントの間で、血を血で洗う、激しい内戦が行われていましたし、キリスト教とイスラームの間でも、お互いを「皆殺し」にする戦いが行われていました。しかし、例えば、イギリスからは「清…

ようこそケビンの部屋へ2ヶ月前

『信長公記』を読み解くその14ー家康は大高城兵糧入れに苦労したのか?ランキング参加中日本の歴史『信長公記』には「今度家康は朱武者*1にて先懸がけをさせられ大高へ兵糧入鷲津丸根にて手を碎くだき御辛勞しんろうなされたるに依よりて人馬の休息大高に居陣也」と書いてあります。(図1) 図1:『信長公記首巻』家康記述部分(改訂史籍収攬収録町田本)この記述が典拠になり、江戸時代以降「神君兵糧入れ」として徳川家康(当時は松平元康)の大手柄として語られるようになります。 通説ではこの時の兵糧入れは鷲津・丸根砦からの攻撃を避けながら入れなければならない非常に困難な役目であったされています。 しかしよく考えると、これは少しおかしな話です。兵糧を入れるのに織田方の砦が邪魔なのなら、先…

小高旭之の幕末維新人物探訪録3ヶ月前

19の(3) 神に祀られた旧幕士松岡萬(元治元年~慶応4年8月)10 翌元治元年(1864)中の松岡萬に関して筆者の把握している資料は、水戸天狗党史料『波山始末』に記される一事だけである。そこには、「筑波勢の大平山を引揚ぐるに当り田中源(愿)蔵は一隊を率ゐ最初旧幕人松岡萬(原注・百俵小普請組)同大草瀧三郎(多喜二郎)は応援すべしと約したるを以て大草の家に伝わりし朝鮮分捕の品なりとて陣太鼓一個甲冑一領を田中に贈りたり之を所持して上州桐生に在りたるが云々」と記されている。 水戸の郷校時擁館々長田中愿蔵は、筑波挙兵に参加したものの、後に一隊を率いて離脱し、各地で幕兵等と戦ったが、その軍費調達は暴虐を極め、特に栃木宿を灰燼に帰して悪名を轟かせた人である。「水戸藩党…

攻城団ブログ4ヶ月前

攻城団テレビで「復活大名」について話をしました2月に南部氏の動画を公開してからまた日があいてしまいましたが、攻城団テレビに新しい動画を公開しました。今回は関ヶ原の戦いで西軍についたことで改易となったものの、江戸時代に見事大名として返り咲いた「復活大名」について榎本先生に教えてもらいました。ぜひご覧ください。 www.youtube.com そもそも改易とは 本来の意味は「改め易(か)える」という職務交替以上の意味はなかったそうです。ただ現代社会でも栄転もあれば左遷や降格、あるいは解雇もあるわけで、職務が変わる際に無職になることもあり、次第に職務を奪う刑罰のニュアンスが含まれていったとか。鎌倉時代、室町時代には地頭や守護を交代させた際、処罰…

小高旭之の幕末維新人物探訪録4ヶ月前

19の(2) 神に祀られた旧幕士松岡萬(文久2年11月~文久3年)6 水戸藩尊王攘夷派の領袖住谷寅之助(信順)の日記(「住谷信順日記」・東京大学史料編纂所所蔵)の文久2年11月17日の条に、「青川来る、一同間埼へ行く。夕刻高橋謙三郎(泥舟)へ行き一泊、松岡、山岡在。いつ刀被贈候事。幕府有志奸物名前取調事」と記されている。ここに「青川」とあるのは出羽庄内清川村の郷士清河八郎で、「間崎」とあるのは土佐藩士の間崎哲馬(滄浪)である。なお、これより以前の同月朔日の条には、「此夜、下野(隼次郎)、山口(徳之進)、青川同行酒家ヲ訪。明日出立の筈也」とあり、翌2日の条には「青川ハ別盃傾ケ、夫ゟ同行二丁めへ行下野へ立寄談論、(中略)台町迄送候事」とある。水戸と江戸間の行程は…

探検!日本の歴史5ヶ月前

明石松平家こんにちは、勘矢です。 今回は明石松平家について調べたことをまとめました。 1. 播磨明石藩松平家 (1)越前国内から播磨明石へ (2)播磨明石藩(前期) (3)播磨明石藩(後期) 1. 播磨明石藩松平家 (1)越前国内から播磨明石へ 明石松平家は結城秀康の六男直良からはじまる。1624年に次兄忠昌が長兄忠直の跡を継いで福井藩主となったとき、越前国大野郡木本周辺に二万五千石を与えられた。1635年に一万石を加増されて越前勝山三万五千石、1644年に一万五千石の加増されて越前大野五万石となった。 二代直明は1682年に播磨明石六万石へ転封となった。新田開発に力を入れ、煙草栽培を奨励し、藩の特産物…

戦国日本の津々浦々 ライト版5ヶ月前

安原 知種 やすはら ともたね備中国早島庄塩津出身の鉱山師。官途名は田兵衛尉。後に徳川家康より「備中守」の名乗りを与えられた。弟に徳忠、子に直種がいる。16世紀末から17世紀初頭にかけて石見銀山における銀採掘で辣腕をふるった。銀山や生国である備中国の寺社造営にも多額の資金を提供したとみられる。 徳川家康への銀献上と釜屋間歩の開発 毛利氏の時代 備中国との繋がり 死後 参考文献 徳川家康への銀献上と釜屋間歩の開発 『徳川実紀』によれば、慶長八年(1603)八月一日、「石見国の土人安原伝兵衛(安原田兵衛知種)」が大久保長安に伴われて徳川家康に拝謁した。 知種は、大久保長安の許可を得て石見銀山で銀を採掘し、年に三千六百貫、あるい…

探検!日本の歴史6ヶ月前

旗本新庄家~麻生藩分家~こんにちは、勘矢です。 今回は常陸麻生藩新庄家について調べたことをまとめました。 1. 旗本新庄家 (1)旗本:新庄鹿之助家 (2)旗本:新庄勝三郎家 (3)旗本:新庄数馬家 (4)旗本:新庄安太郎家 (5)旗本:新庄采女家 (6)旗本:新庄六郎左衛門家 (7)旗本:新庄内蔵助家 1. 旗本新庄家 (1)旗本:新庄鹿之助家 新庄直頼の二男直綱ははじめ会津蒲生家の世話になり、1633年に召されて御書院番に列し、甲斐国内で千石を賜った。二代直方のとき、甲斐国内から上総国内に知行地を移された。 三代直恒は御小納戸をつとめた。直恒の妻は紀州家付家老水野家の分家出身で、長男重期は母方大伯父の水野重上の養…

大和徒然草子7ヶ月前

安産祈願の帯解地蔵と貴重な和算の算額・帯解界隈を歩く~上街道散歩(10)飛鳥時代に設けられた奈良と桜井を結ぶ古代官道をルーツに持ち、中世から近世にかけて大和国の南北を結ぶ主要幹線だった上街道。 その周辺には、古代からの長い歴史の中で生まれた数多くの旧跡があります。 上街道沿いには旧跡が集まるスポットがいくつかありますが、JR帯解駅周辺もその一つで、前回は中世城郭の今市城を紹介しました。 今回は上街道と五ヶ谷街道の交差点付近を中心に、安産祈願のお地蔵様で有名な帯解寺、龍伝説とこちらも安産祈願のお地蔵様で信仰を集める龍象寺、そして江戸時代の貴重な算額が奉納されている円満寺を巡ります。 帯解周辺図(国土地理院HPより作成) JR帯解駅 上街道・五ヶ谷街道交差点 帯解寺 …

墳丘からの眺め7ヶ月前

岩屋古墳(付近) 福岡県田川郡糸田町鼡ケ池前回の位登古墳のあとは北西に3㎞半の岩屋(ごうや)古墳へ向かいました。 古墳がある丘の南東の、道路沿いに説明板。 岩屋(ごうや)古墳岩屋古墳は6世紀後半頃築造の円墳。埋葬施設は複室構造の横穴式石室で、石室長7.5m・墳丘の大きさ約24mをはかる。前室の天井部から進入した状態で石室内が盗掘を受けており、敷石もそのほとんどが抜かれているものの、当時の状態をよく保っており、墳丘の保存状態も非常に良好である。現在、糸田町で発見されている古墳の中では最大級の古墳であり、糸田町の古墳時代の様子を知る上で重要な遺跡である。平成10年6月30日、町文化財第5号に指定糸田町教育委員会 説明板から15mほど南に、…