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風月堂

上野・東京・神戸の洋菓子屋「凮月堂」(新宿の喫茶店とは別物)の(便宜的な)異表記。
現在では本家の血筋、本流を汲んでいるのが上野風月堂で、他は分家であったり、風月堂の名を使用しているだけの店舗も多い。
風月堂の歴史は、初代大住喜右衛門が江戸に下った1747年(延享4年)がその始まりとされ、二代目喜右衛門のときに松平定信公より、「汝が心事の清白なるを愛する。これをもって屋号とせよ」と「風月堂清白」の五文字を賜った。
しかし、四代目は若くして亡くなり子もなかったために廃家となり、風月堂総本店の家督は、四代目の弟の五代目喜右衛門が継ぎ、五代目喜右衛門は自身の三子を廃家となっていた四代目喜右衛門の養子にいれ、兄の家を復興させた。すなわち五代目喜右衛門の三子であり、四代目喜右衛門の養子である大住省三郎こそが、のちの上野風月堂の創設者となる。
省三郎は、総本店を継いだ兄、六代目喜右衛門のもとで、修行を積んだのちに1905年(明治38年)、上野風月堂を立ち上げた。

上野風月堂本サイト
ゴーフルや東京カステラのオンラインショッピング
http://www.tokyo-fugetsudo.co.jp/syamei.htm

風月堂

新宿の伝説的な喫茶店。

略史

60年代、世界中のバックパーカーにその名を知られた『フーゲツ』こと『風月堂』は、オーナーである横山夫妻の手によって終戦直後の1945年秋、新宿の地に産声を上げた(註1)。その名からすると、洋菓子の『風月堂』チェーンかと思われるが、まったく関係は無い。あちらの「風」の字は、キ(几)の中に「百」と書くのだが、わが『風月堂』は新かなづかいにのっとっている。

第一期は、改築をする1948年までで、喫茶部は洋菓子の製造販売をする店内に、申し訳ばかりのスペースだったらしい。そこで横山氏所蔵のクラシックレコードを掛けたところ、「文化」に飢えていた愛好者が集まりだす。「クラシック喫茶」(当時は「名曲喫茶」と言った)としても草分け的存在である。当時、新宿には「純喫茶」といえる店自体が3軒ほどしかなかった。

第二期は、1948年(昭和23年)から1954年まででモルタル建築の時代である。喫茶部を拡充し、クラシックレコードはもちろん、壁面を絵で飾る。白い円柱、彫刻、天井からはシャンデリア。白い壁面。ギリシャ風とも、ロココ風ともサロン風ともいえる内装だった。この店鋪で「名曲喫茶」としての『風月堂』のスタイルが確立される。道を一本隔てた、武蔵野館通りに洋装店「日吉屋」ができる。オーナーはうら若き女主人森英恵である。

第三期が、カウンター・カルチャーの殿堂『フーゲツ』の時代で、区画整理にともなうリニューアルで、1955年1月に黒い鉄骨で組み立てられたモダーンな「カフェ」として新宿駅中央口(現中央東口)中央通りの真ん中(新宿区角筈1-1)に生まれ変わる(現在、「三越新館」に占拠されている辺りである)。
60年代の終わり(1967年)頃から、新左翼の活動家や学生が出入りするようになり、それにともなって公安警察や私服刑事も情報集めに来ていた。そのような、過激派の新宿拠点と『フーゲツ』が目されるようになったのは、時代的背景もあったが、何といっても米軍空母イントレピットからの米兵の脱走をほう助していたベ平連関係者が、出入りしていたせいもある(いわゆるイントレピット脱走兵事件)。ベ平連の反軍・基地解体の運動は『フーゲツ』にイントレピットから脱走した兵士たちが立ち寄ったことから始まったといっても過言ではない。行くあてのない脱走兵士たちは、『フーゲツ』に行けばどうにかなるだろうと考えていたらしいのだ。それほど、当時のフーゲツはバックパッカーやドロップアウトの世界では、知られていたということである。この事件は、60年代の終わりベトナム戦争が激しくなる中で『フーゲツ』が置かれていた状況を象徴するものだし、エポックであったと言って良いだろう。連合赤軍もいた。後に、リンチ殺人事件の犠牲になった青年も来ていた。また、ブント、青解(社青同解放派)、中核派もいたが、黒ヘルも多かった。一時は、デモ帰りに堂々とテーブルの上にヘルメットを置いてコーヒーを啜っているという、まるで大学構内のバリケードの中のような光景も見られた。

この頃、つまり1968年頃から党派の活動家の出入りが増え、世界的に高揚していく1970年(70年安保闘争)当たりから、かっての常連客である中産階級の人々の足が遠のいた。時代は、あたかも警察国家の様相をみせ息詰まる管理社会の到来を告げていた。高度成長を続けていた日本経済は、失速しつつあり第一次石油危機は目の前にあった。こうして、まるでこの世の春を告げていた新宿文化も焼跡闇市からの戦後の民主化、好景気の後ろ楯を失うとあっけないものであった。アプレゲールが終わり、幕は降ろされつつあった。『風月堂』も、こうして惜しまれつつ1973年8月31日に、その役割を終えたかのように閉店した。

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