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平兼盛

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たいらのかねもり

平安時代中期の歌人。三十六歌仙の一人で、藤原公任には高く評価されている。
生年不詳、正暦元(990)年没。
父は平篤行とされ、光孝天皇の五代の子孫であるとされているが、篤望王の子であるともいう*1
従五位上駿河守として没。
歌合や屏風絵の分野で活躍し、とくに天徳内裏歌合においては、壬生忠見との「初恋」の題での和歌をめぐる争いは説話化されて有名。安和元(968)年には冷泉天皇の大嘗会屏風絵を詠進。
恵慶法師、大中臣能宣、源重之らと交流もあった。
『後撰和歌集』以下の勅撰集に八十九首が入集。家集は『兼盛集』

*1:http://www.geocities.co.jp/CollegeLife/6188/hentaf/20040229.html 参照のこと

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#忍ぶれど 色に出でにけり わが恋は ものや思ふと 人の問ふまで#百人一首#パワポ絵#平兼盛

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平兼盛(40番) 忍ぶれど 色に出でにけり わが恋は物や思ふと 人の問ふまで💐平兼盛(40番)🌹拾遺集🌹恋一・622 忍ぶれど 色に出でにけり わが恋は物や思ふと 人の問ふまで💐 〜人に知られまいと恋しい思いを隠していたのに、 とうとう隠し切れずに顔色に出てしまった。 何か物思いをしているのではと、 人が尋ねるほどまでに…。 💠 平 兼盛 💠 たいらのかねもり (生年不明~990年) 三十六歌仙のひとり。 天徳四年(960年)、村上天皇の頃に歌合せが行われた折、 兼盛はこの和歌で 壬生忠見の和歌と競い合いました。 優劣つけがたい名歌でしたが、 天皇がこの歌を小さく口ずさんだので、 この平兼盛の和歌が選ばれたと伝えられています。 平兼盛と壬生忠見の歌は、天徳内裏歌会てんと…

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