元寇とは 社会の人気・最新記事を集めました - はてな (original) (raw)
元寇
鎌倉幕府8代執権・北条時宗の代、元(モンゴル)軍および高麗軍の二度に渡る日本攻撃のこと。(当時の)日本では1274年の文永の役、1281年の弘安の役がある。ちなみに、元軍はこの時期にアイヌ*1にも攻め入っていた。2011年10月、元寇で沈没した船が長崎県松浦市の鷹島沖で見つかったと、関連遺跡・遺物を調査、研究している琉球大法文学部の池田栄史教授(考古学)の研究チームが発表した。全体の形などが分かる良好な状態で発見されたのは初めてという。
武士の世に移った承久の乱が時代の転機としてよく知られているが、元寇が後世に及ぼした影響も鎌倉幕府滅亡に止まらず、大きい。
意外と知られていなかったりするが、この戦いは白村江の戦い以来初の異国との戦争ではない。刀伊の入寇など、その間にも何度も交戦している。
文永の役(1274年)
日本を属国化あるいは国交を結ぼうとし応じなければ軍を送るという、1271年に送られてきた元からの書状および使節を無視し続けたことに端を発する。
戦力差の上に日本の武士は始めの内、行儀よく戦っていたため*2、対馬、壱岐と次々攻め落とされる。ついには博多湾に至りここでも当初は一方的に攻められるが、ようやく戦い方が分かって来たためなんとか応戦し、海上に追い返す。
が、なぜか次の日にはいなくなっていた。
暴風雨が元軍を沈めたとする説が通説となっており*3、また大陸側の史料によれば撤退途中に暴風雨に遭い大損害を被ったことは事実であるようだが、_当時の日本の史料には忽然と姿を消したとあるのみである_。撤退理由としては他に、元軍は海戦に慣れていなかったためとする説、もともと恫喝のみが目的だったという説がある。
弘安の役(1281年)
1275年、1279年と再び恫喝のために元から送られてきた使節を、今度は斬り捨ててしまったことに端を発する。元に滅ぼされた南宋(1279年滅亡)の僧侶が促したとする説、スパイ容疑とする説などがある。
文永の役では後手に回ってしまった感のある日本の武士も、今度はその時の経験を分析して戦闘に備えていた。防塁を築きその後ろから改良した弓矢を射て上陸を防ぎ、夜討ちで元軍に対抗する。そもそも士気の低かった旧宋兵らを含む元軍は兵糧攻めにされて消耗し、今度こそ暴風雨の追い討ちがかかり元軍は壊滅。海は元軍の溺死体で埋め尽くされたとある。
その後も元軍の残党との戦闘は続き捕らえた高麗人やモンゴル人は死罪にしたもののの、交流のあった南宋人は助命したという。博多の唐人町はこのときの南宋人の街だそう。
結果
鎌倉幕府は御家人を大量動員して応戦したが新恩給与するための土地が得られず、彼らに対して恩賞として与える物はほとんど無かった。さらには加持祈祷によって戦争に勝てたとする公家方により、本領安堵と保障されていた土地すらも旧神領は寺社に返すよう命じられてしまった。これらが永仁の徳政令の実施へとつながり、さらには鎌倉幕府滅亡へと至ってしまったのである。
後に元軍の本格的な進攻がなかったから言えるものの、幕府の元寇への警戒はその滅亡まで続き、それがさらに御家人の財政を圧迫していた。余談となるが、鎌倉幕府はその最期、元弘の乱において、切通しを避け干潟となった稲村ヶ崎から攻めてきた新田義貞軍によって滅亡している。
ムゴい
対馬、壱岐では住民の多くが虐殺され、生き残った者でも高麗国に奴隷として連れ去られたという。
この蒙古こと元の残酷な有様から蒙古い(むごい)と言う言葉が生まれた、と言われている。
しかし実際には「むごし」の語源は「メグシ」と「ムザン」という二つの語である、というのが有力で、他に「無碍(ムゲ)」が形容詞化した、という説もある(吉田金彦編『語源辞典』より)。従って「むごい」が元の残酷な有様から生まれた、というのは、近代に入って排外的な国家主義が隆盛した近代に生まれた俗説であろう。
このタグの解説についてこの解説文は、すでに終了したサービス「はてなキーワード」内で有志のユーザーが作成・編集した内容に基づいています。その正確性や網羅性をはてなが保証するものではありません。問題のある記述を発見した場合には、お問い合わせフォームよりご連絡ください。