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動物化

フランスの哲学者コジェーヴが『ヘーゲル読解入門』において
人間と動物の差異を「欲望」と「欲求」の差異として定義したことに由来する用語。

以下は東浩紀の用語としての記述。

「欲求」とは、特定の対象をもち、それとの関係で満たされる単純な欲望を意味する。たとえば空腹を覚えた動物は、食物を食べることで完全に満足する。欠乏ー満足のこの回路が欲求の特徴であり、人間の生活も多くはこの欲求で駆動されている。しかし人間はまた別種の渇望をもっている。それが「欲望」である。欲望は欲求と異なり、望む対象が与えられ、欠乏が満たされても消えることがない。…動物の欲求は他者なしに満たされるが、人間の欲望は本質的に他者を必要とする。…したがってここで「動物になる」とは、そのような間主体的な構造が消え、各人がそれぞれ欠乏ー満足の回路を閉じてしまう状態の到来を意味する。コジェーブが「動物的」だと称したのは戦後のアメリカ型消費社会だった…。アメリカ型消費社会の論理は、五〇年代以降も着実に拡大し、いまでは世界中を覆い尽くしている。マニュアル化され、メディア化され、流通管理が行き届いた現在の消費社会においては、消費者のニーズは、できるだけ他者の介在なしに、瞬時に機械的に満たすように日々改良が積み重ねられている。(P126-127)

東浩紀『動物化するポストモダン』(講談社新書1575)


最後の人間

歴史的闘争から解き放たれ、安逸と退屈のなかで凡庸な消費者になりさがってしまう人間のこと。すべてのパターンがすでに既知になったのだから、それを適用に引用してリミックスして消費していく姿が再現なくリプレイされていく世界を当然視する。コジューブにしたがって、物質的に充足されたなかで惰眠をむさぼる「アメリカ的動物」ともっぱら無意味な形式と反復と洗練に没頭する「日本的スノッブ」に分けることができる。人間は死を賭けることができるからこそ人間であり、戦争はそのための最高の試練であるが、核の出現とともに、人間が人間であるために必要な戦争が不可能になってしまったことと、最後の人間の出現は、密接に関係している。

浅田彰
フランシス・フクヤマとの対談
歴史の終わりと世紀末の世界 小学館 1994年 28-30頁


以下はヘーゲルの欲望論。
http://www.ne.jp/asahi/village/good/hegel.htm

自己意識―主人と奴隷の弁証法

1. 生命;欲望

a) 欲望は外的対象へと向かう。例えば食欲は、その対象を食らい尽くす。それによって対象は消滅する。しかしそれと同時に、欲望も消滅する。
自然の欲望(動物的欲望)は、「対象を否定することによって自己を否定する」ということの繰り返しである。
(それは外から(=「私」の知らない所から)やって来る。私は欲望に「襲われる」。欲望が去ると、私は自己に帰る。これは欲望が動物的欲望だからである。)

b) これに対して、人間的欲望は、持続する欲望である。「自分が相手から認められることを認める」という二重の構造を持つ。
(「愛」とか「自尊心」等が、この典型である。他者からの承認を必要とする。このように、ヘーゲルの言う「自己意識」とは、本来は、他の「私」において「自己」を意識する「私」の意識を言う。)


http://www.netlaputa.ne.jp/~eonw/sign/sign57.html

話を戻そう。人間は他者と関わる上で、その関係の中から様々なエロスを受け取る。その最たるものは何かといえば、それは私の考えでは、自分が自分として承認されること、である。ヘーゲルが「欲望とは他者への欲望である」といったのも、これがわかれば理解出来るだろう。

精神分析家のラカンはヘーゲルの哲学を、コジェーブを通じて知ったそうだが、このラカンにおいてはなぜか「欲望とは他者〝の〟欲望である」と、話がねじ曲がっている。この違いが、コジェーブによるものか、ラカン自身によるものか、私は知らない。確かに、他者と接するうちにその相手から何らかの影響を受け、その相手の欲望を自分の内に引き写してしまうことはあり得るかもしれない。しかし、それは欲望の本質を示すものではなく(あらゆる欲望に共通するものではなく)、せいぜい他者関係の在り様を指し示すに過ぎないものだろう。

ヘーゲルが「欲望とは他者〝への〟欲望である」といったことの意味は、他者に対して承認を求めるという、人間の普遍的な在り方を示したものである。なぜこのようなことが起こるのかというと、私の考えでは、人間は生まれついて以来、他者から様々な「意味」を受けとって世界像を構築するからであり、またその世界像の中に「自己」を置くからである。つまり世界像を構成する様々な意味や、その世界内存在としての「自己」の意味は、他者との間の意味の共有、つまり間主観性によって支えられる。「私」は他者からの承認が得られないとき、世界の意味や「自己」の意味に対する確信が揺らぎ、無意味な存在であることに耐えられなくなるのである。ここから考えれば、ラカンのいう「欲望とは他者〝の〟欲望である」ということは、あくまでも二次的な現象に過ぎない。もちろん、ある種の欲望もまた他者からの承認を得ることで、安心や、場合によっては誇りさえ持つことが出来るだろう。しかし、人間の欲望は必ずしも「他者の」欲望である必要はなく、それは必ずしも人間の存在を脅かす問題にはならない。


関連語:スノッブ ラカン ヘーゲル コジェーヴ

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