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小中華思想

日本、朝鮮、越南など、中華文明圏の中にあって、漢族とは異なる政治体制と言語を維持した民族と国家の間で広まった思想。

自国を中華と位置づけるが、中華性と漢族性との違いはどこにあるのか、またその思想をどれほど公にするか、また中原の王朝に対してどのような態度をとるかは時代により状況により変化する。

日本では、天皇号、朝鮮通信使を朝貢扱いにすること、朝鮮蛮族観、征夷大将軍号、江戸時代の小中華思想、アイヌ差別、尊王攘夷運動などが、小中華思想に基づく日本中心の小規模な華夷秩序の例である。

朝鮮では、高麗時代前期に国内で皇帝を称したこと、豊臣秀吉の朝鮮侵略前後から江戸時代までの知識人を中心とした日本への侮蔑感・反感、対馬の藩主を属国として扱ったこと、満州族侵略などが小中華思想に基づく朝鮮中心の小規模な華夷秩序の例として挙げられる。

越南では、キリスト教暦10世紀以降の中原王朝からの独立以降、国内向けには皇帝を称し、他のインドやイスラームの影響を受けた近隣諸国を野蛮人扱いした。キリスト教徒に対しても、その文明を野蛮なものとみなし、宣教師やフランスがラテン文字で漢字やチューノムに基づく越南語を破壊しようとした動きに激しく抵抗した。これらが越南における小中華思想に基づく小規模な華夷秩序の例である。

小中華思想と、自国・自民族の悲漢族的要素への評価は複雑である。一方でそのような要素を非中華のものとして捨て去るべきだという意見もあったが、同時に小中華である自国への自負心から、非漢族的なものについてもそれを誇りを持って記述すべきという学者もいた。日本の頼山陽の日本外史の執筆、朝鮮における考証学の流行の中で朝鮮の習俗、歴史、文化などが広く記述の対象となったこと、越南のいくつかの王朝におけるチューノムの公用文化などに見られるように、小中華思想が非漢族的な文化の記述や称揚に結びついた例もある。小中華思想は一方で軍事的・文明的大国である中国への尊敬と事大という面と、自国への誇り(独自の自民族優越主義)との二焦点を持っていた。この二焦点の一方の極端にのみ走った知識人は日本、朝鮮、越南、いずれにおいても主流とはなりえなかった。

もとは小中華思想に起因するものであっても、独自の自民族優越主義の中に入り込んで、一見中華性を薄められた思想も存在する。日本の国学や、キリスト教暦21世紀初頭の漢字使用に基づく日本語優越論・日本人優越論もそのひとつ。前者は、中華思想の枠組みをトレースし、その根拠を幻想の中で美化された日本においたという意味で、自国の中華性を誇示する小中華思想から、中華の漢族性を最大限抜き取った思想といえる。後者はすでに中華文明の要素である漢字・漢文が日本の言語の深いところまでしみこんでしまい、それを中華のものと意識しなくなったことに由来する。漢字・漢文から『中華性』更には漢族性を抜き取ろうとするのは明治時代から盛んになった。また、明治日本の天皇崇拝もさかのぼれば(王朝保守を目的とする)儒教や小中華思想に起因する。朝鮮でも、いまや族譜や儒教など独自の自民族優越主義の中に入り込んでしまい、中華性を意識されることは少ない。しかし漢字については日本とは対照的であった。越南はもっとも中華文明から離れたが、小中華思想に起因する周辺民族への侮蔑意識は、現在でも中華性を意識されない国民国家的ナショナリズムの一部として現れている。

ちなみに、小中華思想が中国という軍事的・文明的超大国(文明の中心)への事大・崇拝と、自国への誇りの二焦点を持ったものであるのに対し、事大・崇拝の対象が西ヨーロッパに切り替わったものは、脱亜入欧である。明治以来第二次世界大戦までの日本では、中華と西ヨーロッパという二つの文明の中心を意識しながら、(できうることならば小中華であり、小欧米でありつつ、両者を止揚し超越した存在としての)日本の他の民族に対する優越性を何とかして強調しようとする動きが知識人の間に広く存在した。これは日本の朝鮮、中国、東南アジアや西ヨーロッパ・アメリカへの侵略や覇権争いを支える思想的基盤となった。このとき、中華思想や欧米中心主義の差別性は日本中心となるように加工された形で受け入れられた。

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