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日露戦争
当時、大国だったロシア帝国(帝政ロシア)と、新興(と言えるほどですらなかった)大日本帝国の戦争。
- 年代:1904年〜1905年
- 参加陣営
- ロシア帝国(ロマノフ朝)
- 日本帝国
背景
19世紀末。日清戦争の結果、「眠れる獅子」と呼ばれた清帝国が実際には瀕死の病人だと理解した列強は、この世界に残された最後の空白地帯を帝国主義の原則に則って分割しようとした。
これに対して「扶清滅洋」を唱える義和団の乱が発生、各国はこれに対抗して清帝国領域内に派兵を行った。わけてもロシアは満州に大軍を送り込み、乱の終了後もそのまま駐留する構えを見せた。撤兵を行わないロシアに対し、当初は清が、さらには日本が交渉を行ったが、ロシア側は満州支配のみならず朝鮮半島北部(北緯39度線以北)も窺う勢いだった。
ロシアの進出を止められなければ日本そのものもいずれはロシアに占領されかねないと恐れた明治政府首脳は、10倍以上という国力差を考慮した上でもなお、開戦やむなしとの決断にいたった。
この間の経緯には当時ユーラシアにおいてトルコ、アフガニスタンなどでロシアとはげしく対立(グレート・ゲーム)していた大英帝国との同盟関係もおおきく作用していた。
年表
- 1895年 日清戦争終結、日清講和条約(下関条約)調印。三国干渉。閔妃殺害事件
- 1996年 朝鮮で親露政権成立。小村・ウェーバー協定、山県・ロバノフ協定成立。
- 1898年 西・ローゼン協定成立。
- 1999年 義和団の乱(北清事変)勃発(〜1900年)
- 1901年 日英同盟交渉開始。日露協商交渉打ち切り。
- 1902年 日英同盟締結
- 1903年 日本、英国の諒解を得て日露交渉を続行するも成果を得られず。
- 1904年(明治37年)
- 2月4日:日本、対露開戦を決定
- 2月6日:日本、ロシアと国交断行
- 2月9日:仁川沖海戦
- 2月10日:日露両国、相互に宣戦布告
- 2月24日:第一次旅順口閉塞作戦
- 3月27日:第二次旅順口閉塞作戦
- 5月1日:鴨緑江会戦
- 5月26日:南山占領
- 8月10日:黄海海戦
- 8月14日:蔚山沖海戦
- 8月19日:第一次旅順総攻撃(〜24日)
- 8月30日:遼陽会戦
- 9月19日:第二次旅順総攻撃(〜23日)
- 10月8日:沙河会戦(〜18日)
- 10月15日:バルチック艦隊(ロシア第二太平洋艦隊)、リバウ出港
- 10月26日:第二次旅順総攻撃(〜31日)
- 11月26日:第三次旅順総攻撃(〜1月2日)
- 12月5日:二〇三高地占領
- 1905年(明治38年)
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