本渡第一映劇について | 本渡第一映劇【公式】 (original) (raw)
本渡第一映劇の歴史
1945年(昭和20年)
中央館が開館(1932年昭和7年開館の説あり)
1960年(昭和35年)
木造2階建、座席数は本渡市最大の850席、邦画・洋画問わず上映
1963年(昭和38年)
4月
5月
中央館
中央館前のにぎやかな様子。「アラモ」の看板が見えるので昭和38年(1963)4月だと思われる。中央館は3階建で、当時天草一の大劇場だった。「チャップリンの黄金狂時代」「世界残酷物語」の看板が見えるので、昭和38年(1963)5月だと思われる。たくさんの自転車が見えるが、観覧者のものだけではなく、映画館が流行ってる風に見せるため近所からかき集められた自転車も多かったとのこと。
1965年(昭和40年)4月1日
改築工事を行いて建物を半分に縮小し洋画専門館の本渡第一映画劇場として再開館
昭和40年4月1日開館
昭和40年4月1日に休館していた栄町の中央館が金子雅俊氏により第一映画劇場と改名し、新たに開館しました。洋画封切り館として再発足し、第1回上映の「アラビアのロレンス」の初日には映画館の周囲に幾重にも入館待ちの行列ができました。天草における本格的な洋画専門館は初めてだったため予想以上の入館者が押し寄せ、その後も多くの観客を集め続けました。
昭和46年10月1日より館立て直しのために休館し、昭和47年1月1日にリニューアルオープンしました、再開第1回上映として西部劇「シェーン」の試写会が行われ、併設された喫茶店も開店しました。
本渡第一映画劇場は平成2年9月に閉館し、本渡における常設映画館がなくなりました。しかし、天草シネマ倶楽部による「天草シネマパラダイス」が平成3年8月24日・25日に期間限定の映画祭という形で行われました。
天草シネマ倶楽部の活動と努力によって、平成10年1月1日より再び第一映劇で映画が見られるようになりました。参考資料:みくに新聞・天草新聞・天草毎日新聞
調査資料提供:天草市立天草アーカイブス
1977年(昭和53年)
1990年(平成2年)9月
休館
1991年(平成3年)8月
3日間の「天草シネマパラダイス」映画祭を開催
1991年(平成3年)11月
立見も出た本渡第一映劇満員の入場者(第2回天草シネマパラダイス/平成3年11月)
平成2年9月、映画「天と地と」を最後に本渡第一映劇は休館となった。平成2年に東京から帰省した柿久和範氏は、映画館を復活させる目的で、仲間を集め天草シネマ倶楽部を結成。金子雅俊社長を説得して館を借り受け、平成3年8月に「第1回天草シネマパラダイス」を開催、11月には「第2回天草シネマパラダイス」を開催して計5本の映画を上映した。特に第2回では1千人を超える入場者を記録し、黒字開催となった。天草シネマ倶楽部は、収益を元に平成4年本渡第一映劇にスクリーンを寄贈した。その後天草シネマ倶楽部は、第3回、第4回の「天草シネマパラダイス」や「定期上映会」を続けた。また平成4年からは、天草映画館復活委員会が結成され、八代第一映劇の協力を得て常設開館に向けた上映活動も開始された。そしてついに、平成10年、柿久和範氏を経営者とする新生本渡第一映劇がスタートした。平成11年には本渡第一英劇を会場として「第1回天草映画祭」が開催され、現在へと繋がっている。第3回(平成13年)には、高倉健が、第5回(平成15年)には宮沢りえが受賞者として来島し、市をあげた取り組みとなっている。また平成14年から平成20年には本渡第一映劇主催で「名画座番外地」が開催され、平成19年には千葉真一が来館しトークショーが行われた。平成21年には「天草シネマパラダイス」も復活している。
本年2月に天草ロケが行われた映画「女の都 ワッゲンオッゲン」は本渡第一映劇でも大好評を博している。本渡第一映劇は、この22年間に延べ100人を超える会員や各機関そして市民の支援を受け、約1,000本の映画を20,000回以上天草で上映し続けてきた。映画は、本物の芸術作品を最も安価に体験できる手段で、地方にこそ必要な文化施設である。本渡第一映劇の功績は大きく、今後も本渡第一映劇が上映を続け、天草の人々がフイルムで映画館で映画が見れるよう強く希望したい。参考資料/みくに新聞・天草毎日新聞・熊日新聞ほか
調査資料提供/柿久智保子
1998年(平成10年)
再開館
1999年(平成11年)10月
第1回天草映画祭を開催
2001年(平成12年)10月7日
第3回天草映画祭グランプリ(風の賞)高倉健・降旗康男・木村大作 来館
2007年(平成19年)11月18日
「千葉祭」開催 千葉真一 来館