加速主義と日本的身体 —柄谷行人から出発して (original) (raw)

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different ≠ another("different ≠ another" - P-MODEL

内分泌のカタストロフィー/思考機能の感覚代行/健忘症の優しい私は/花がいとしい/鳥がいとしい ("趣味の時代" - ハルメンズ

日本的身体

ここ数年、日本の言論界が今さら話題にしている思想「加速主義」や「暗黒啓蒙」に対して、私たちはある種の「もっともらしさ」や「既視感」を感じてしまった。おそらく、加速主義はその成立の現場においては「いかがわしい」思想であったのだろう。しかしこの「いかがわしい」思想も、日本の言語空間に輸入されるとたちどころに口当たりの良い「もっともらしい」思想になってしまう。

この日本という言語空間の「体質」は今に始まった事ではない。例えばアメリカの社会学者デイヴィッド・リースマンが来日した際、大学教授でもなさそうな一般市民が講演に押し寄せリースマンを驚愕させた事態、あるいは、フーコードゥルーズの難解なテクストが「ニューアカデミズム」として「流行」する事態と同じものだ。

もちろん、「思想がその成立現場から離れてしまう」という現象は、日本特有のものではない。例えば、アメリカという風土は、どんな背景を持つ思想であれ、往々にしてプラグマティックな「道具」や「手法」に加工してしまう。しかし、私たちにとっては、外来思想の奥行きや「本来の」価値が理解されないということが問題なのではない。すなわち、日本人の人文知に対するアカデミックな認識やら語学力やらが劣っているという端的な事実は、「批評」の問題とはならない。日本においてより深刻なのは、どんなに「目新しく」、「異なった」(different)思想であれ、それが、日本という場所に対する「もう一つの(another)価値」を持つことがないということである。内部を脅かす異物であるはずの「いかがわしい」思想は、それ自体がまさに外部であることによって逆説的に内部に位置するメインカルチャーを補強してしまうのだ。この風土のなかで、「批評家」や研究者たちは、こうした外来思想を平明に解説し、読者たちの趣味的な好奇心を満たす「輸入業者」として動員されるのである。

しかしもちろんこれは外来思想に限った話ではない。国内においては、例えば敗戦後の焼け跡を称揚した「堕落論」の坂口安吾もまた、時が経つにつれてもともと持っていたはずの「いかがわしさ」をなかったものとされ、戦後の自由と平等を擁護する「戦後民主主義者」としての安吾像へと変貌していった。こうした事情は、少なくとも日本という一個の身体——これを日本的身体と呼ぼう——がもつ深刻な問題である。

加速主義が仮にラディカルな思想だとしても、それは「ラディカルなもの」として紹介されるがゆえに、この凝り固まった身体を粉砕するような破壊力は持ち得ない。「日本的身体」は、エスニック料理を楽しむ品のいい消費者として、あらゆる思想を「現代思想」として美味しく調理して食べている。

この状況では、加速主義は日本の「体質」を強固にするものにしかなり得ないだろう。もしも私たちがかかる現実を理解した上で思想しようとするならば、柄谷行人が言ったように、日本という身体の在り方そのものを変革するような思想のあり方を自覚的な仕方で模索しなければならないはずだ。

日本のポスト・モダニズムは、西洋かぶれの外見を持ちながら、この種のナショナリズムを含意している。それはありとあらゆるものを外から導入しながら、「外部」を持たない閉じられた言説体系である。そこでは、自分の考えていることだけがすべてであって、自分がどう在るかは忘れられている。むろん、どんな人間も他人が自分をどう思っているかくらいは知っているが、それは結局自意識でしかない。他者に対して過敏な者がしばしば“他者“を持たないように、現在の日本の言説空間は「外部」を持たない。いいかえれば《批評》の不在である(「批評とポストモダン」)

ここで柄谷行人が批判しているのは日本のポストモダニズムであり、そこから遡行された京都学派である。柄谷によれば、彼らは一見「西洋かぶれ」の外見を持ちながら、それを規定する日本の風土(すなわち自身の身体)に対して無頓着であった。その結果、彼らは単なるナショナリズムへと陥ってしまう。

柄谷のいうとおり、「私たち」はいつでも、「自分の考えていることだけがすべてであって、自分がどう在るか」を忘れている。つまり、こうした議論の内容の新奇さに気を取られ、新たなものとして対象化して熱中したり、あるいはそれをパロディして「メタ化/ネタ化」した気になっているとき、私たちはまさにその議論の手元的で形式的な反復性、そしてその対象をまなざす我々自身の「手癖」に気づくことができない。つまり、自身の身体の「スタイル」に気づくことができない。

この種の、柄谷のいう《批評》の不在は日本においては奇異な事でもなんでもない。むしろ《批評》の不在こそ日本においては常態なのだ。

宣長のいうような自然=生成は、制度あるいは構築を拒絶するかにみえて、それ自体独特の制度であり構築なのだ。もしわれわれが神・超越者あるいはそのヴァリエーションに対して、西欧人のように闘い、挑むのならば、的はずれである。(「批評とポストモダン」)

日本における批評の《不在》は「脱構築」(構築からの脱出)ではなく、むしろ精巧に作られた構築であり、「制度」に過ぎないと柄谷は批判している。 この状況下では、例えば「戦争」に論評を加える知識人を批判して「国民は黙つて事変に処した」と喝破した小林秀雄さえまた、「構築を批判する構築論者」でしかなくなってしまう。私たちに見えないのは、この「自然」という構築物であり、制度を拒絶する制度に守られた日本の土壌であり風土であり、日本的身体に他ならないのだ。ここでは、あらゆる「いかがわしい」思想が「もっともらしい」思想として流通し、「いかがわしい」ものであったことが忘れ去られてしまう。いわば、日本においては「他者」と出会うことなどできないのである。

これは、日本という「身体」であり、日本語という「文体」に強く根付いた問題である。どれだけグローバル化が「加速」し、日本という固有の場所が無くなっていくように見えたとしても、あるいは様々な言説の中で「現代思想」の状況が変わっているかのように見せられていたとしても、この身体の「制度」は未だ残り続けている。

なんでもよく、どうでもいい

加速主義の議論は 「暗黒啓蒙」と言う名からも分かる通り、啓蒙主義を批判しながら啓蒙主義の最たるものである自由主義啓蒙思想に結びつくパラドックスをはらんでいる。しかしそもそも、このパラドックスだけでは加速主義の「いかがわしさ」を論証することはできないだろう。これはちょうど柄谷行人江藤淳を引用して批判している「護憲論者」と同じ身振りに過ぎない。

江藤淳の議論は、その逆の、すべてを憲法から流出させる連中の論理と似ている。あるいは、もっとラディカルである。というのは、後者は、「原理」に固執するようにみえながら、誰がどうみても現状と背反する「憲法九条」をうやむやにしているからだ。本当は彼らは文脈をこえた、同一的な「意味」に固執する人々ではない(無作為の権力)

加速主義を流通させている「のっぺりとした土壌」としての日本の言論空間は、小林秀雄のように原理原則にこだわらないという原理原則に則っている。この原理原則とはすなわち、「護憲論者」のように原理と現場とのズレをうやむやにする「制度」である。この意味では日本人はほとんど全員「護憲論者」でしかない。一言で言ってしまえば日本の言論空間=日本的身体にとっては、あらゆるものが「なんでもよく、どうでもいい」からである。

日本的身体にとっては、新しく持ち込まれた「異なるもの」の材料がニック・ランドだろうがサッカナ・シーだろうが(つまり肉料理だろうが魚料理だろうが)同じであり、どうせ調理して口当たりを良くして食べるのだから、同じなのである。それが「新しい思想」として流通しさえすれば、後は「なんでもよく、どうでもいい」のだ。

むしろこうした流通ルートに「シラケつつノリ」、訳知り顔の紹介者あるいは「批評家」として、読者たちに「美食」を供して名を売り金を稼ぐことの方が、多くの人間にとって重要である(むろんこの流れから完全に身を切り離すことなど、誰にもできない)。このレベルではそもそも日本において近代は未発達であるだとか、資本主義社会が徹底されていないと言った丸山真男小室直樹の議論は「野暮」の二文字、あるいは「ネタにマジレス」というクリシェで片付けられるだけだろう(しかしネタはベタに機能する)。そもそも丸山的な問題意識を持っていたとしたら、この反復性に気付くはずである。

むろん、かかる風土からは絶対に《批評》は生まれない。《批評》は原理主義でも現場主義でもない。《批評》は、原理が必然的に持ってしまう現実とのズレに対する鋭い反省から、はじめて生まれるのである。

柄谷行人クリシェ/差別の問題

ところで、柄谷はこの日本的身体から、自身をどの程度切断しえたのか。柄谷がこの問題を掘り下げたのは、中上健次という切り口からである。柄谷にとっては中上健次は差別小説を書いた単なる小説家ではない。柄谷にとって中上とは「日本近代文学が中心としてきた近代小説という枠におさまらなかった」小説家に他ならない。

中上健次における過剰性は、どんな同時代作家よりも彼を健康にし且つ病的にしている。いっそ彼は「病気」だといった方が良い。「病者の光学」という言葉が彼にはふさわしい。彼において、暴力的なのは、本当は肯定の力だ。が、その肯定力は、どんな否定力よりも破壊的である(「今ここへ――中上健次」)

柄谷行人は一般的な「今・ここ」と中上健次が肯定する《今・ここ》を峻別する。「今・ここ」とは差別を隠蔽する「同一性」の場であるが、中上が肯定する過剰な《今・ここ》はむしろ、同一性に隠蔽された場である「今・ここ」を破壊し、差異を露呈させる肯定の力だ。しかし柄谷の論旨にもある独断が見えると言わざるをえない。《今・ここ》は、柄谷がいうような「破壊的な肯定の力」ばかりを持つとは限らないからだ。むしろそれは、時に肯定の力によって粉砕されるはずの「否定」の力へと結びつき、対極の「今・ここ」に反転してしまいうるのではないだろうか。

例えば、在日朝鮮人の問題である。在日朝鮮人の差別はもはや「隠蔽」されたものではない。それは、そうした差別(による特権)が「隠蔽されていること」を「在日特権」として糾弾する陰謀論者じみた人間がいることから逆説的に明らかである(むろんそれは特権でも何でもない)。

しかし「在日特権を許さない」人々がいくら最終的には「同一性」(同質性)を目指していたとしても、彼らが根拠とするのは、つねに在日朝鮮人と日本人との「差異」である。彼らこそが、まさに差異が隠蔽された「今・ここ」を粉砕する力、言ってしまえば「破壊的な肯定の力」を利用しているのだ。すなわち、差別主義者は「同一性」のもとに差別を隠蔽するのではなく、むしろ差別を利用する。同一性と差別は、柄谷が言うように必ずしも一致するわけではない。差異が露呈していたとして、相変わらずそれが否定的に働くことはつねにある。

これは柄谷が単に中上健次を誤読しているという問題ではない。重要なのは、むしろ柄谷自身が「加速主義」や日本のポストモダンと同じ病理を抱えているのではないかということである。先に述べたように、柄谷は中上健次の小説を「日本近代文学が中心としてきた近代小説という枠におさまらなかった」小説として評価している。この読み方自体を否定するつもりはない。しかし「近代小説におさまらない」というこの「オルタナティヴ性」が、柄谷行人における肯定的な評価の根拠になっている点が問題なのだ。

つまり柄谷行人にとっては、中上の小説が「近代小説」の枠組みから逸脱するもの、すなわち小説とは「異なるもの」でさえあれば、「なんでもよく、どうでもいい」わけである。中上健次あるいは差別の問題もその地平線の内側からのみ評価されるものであって、そのバイアスの外にある問題はあらかじめなかったこととされてしまう。したがって柄谷行人のテクスト読解は、その対象(中上のテクスト)がいかに「いかがわしい」ものであったとしても、そこから出てくる結論はいつも「のっぺり」とした、単に「もっともらしい」だけのものになるだろう。

なお、この傾向は現在の柄谷をみればさらに明らかである。先に引用したのは護憲論者を批判するかつての柄谷だが、今の柄谷行人は誰がどう見てもかつての彼が批判していた対象に成り下がっている。すなわち、柄谷もまた「『原理』に固執するようにみえながら、誰がどうみても現状と背反する事実をうやむやにしている」日本的身体にのっかった書き手の一人に過ぎなかった(あるいはそうなった)のだ。

さて、中上を論じるにあたって、柄谷行人の正確な「真贋」が「真贋」であるがゆえに見落としているのは、中上健次の小説そのものが持つ「小説としての暴力性」である。柄谷は「日本近代文学が中心としてきた近代小説という枠におさまらなかった」と手癖的に評価してしまうことで、「小説的な暴力性」そのものの異物性をむしろ無視してしまったのだ。

柄谷にとって「小説」は単に近代のドグマでしかない。だからこそ、それと「異なる」中上の「肯定の力」を必要としたのだ。しかし、言ってしまえば柄谷の「小説」観はリアリズムを前提にしたものに過ぎない。

「小説」はそもそも散文芸術であるがゆえに、市民社会に依存しつつも、当の市民社会にとっての「雑文」(=ジャンク)にとどまる*1。しかし、「小説」は、まさにそれ自体がジャンクであり、弁証法から抜け落ちるものであるからこそ、弁証法に対する「内部における外部」として機能しうるのである。この「内部における外部」という構図は、柄谷自身が「脱構築」として見出していたものであるが、それにも関わらず、中上に接する柄谷はこの表裏一体の関係性を見落としている。

「今・ここ」にある日本的身体を問題にしつつも、「近代小説」の二重性を見落とした柄谷の議論は、自身の在り方にいつまでも気づかない日本的身体の問題と通底している。つまり本質的な問題は、「近代」の持つ相反する二重性の中にこそあるのだ。この問題は、「近代」の半面しか見ない加速主義の議論にさえ敷衍できるのである。

different ≠ another

加速主義(とりわけニック・ランド)の抱える問題についても触れておく。日本的身体にも加速主義にも共通する問題は、「異なるもの」をつねに「もう一つのもの」として無批判に受け止めてしまう遠近法である。真に〈EXIT〉しなければならないのはこの地平であろう。

加速主義の抱える問題は、「差別がない」時代に「差別をいう」ことがラディカルであるかのように錯覚している、露悪的で幼稚な心象である。オルタナ右翼が、たかがポリティカル・コレクトネスに差別を、民主主義に自由を対置した程度でダークでタブーな「現実」を発見した気になっているのなら、その凡庸さにはつい笑いが込み上げてしまう。それは「オルタナ」などではなく、単なる現実追認であり、大多数の人間が持つよくある差別意識に過ぎないからである*2。また、彼らの「技術的進歩」にまつわる議論についても凡庸と言わざるをえない。それは、単なるリニアな時間性、すなわち二〇世紀の哲学が批判してきた「目的論」あるいは「終末論」の安易な変奏に過ぎないのではないだろうか。

この点で、私たちは当然だが(少なくとも『資本主義リアリズム』の時点での)マーク・フィッシャーの方を相対的に評価する。フィッシャーは「もう一つのもの」を希求しつつも、むしろ安易な「オルタナティヴ」をリアリズムと同等に批判し、原理と現実のズレに直面した「加速主義者」であった。

しかし、ランド的=オルタナ右翼的「暗黒」趣味では、「相関主義」を超えるどころか、単に議論をポストモダン以前に、もっといえばカント以前にまで差し戻してしまうだけだろう(もっとも、彼らはそれでいいというかもしれないが)。このような「反動」は「新しい」反動などではない。それは「今・ここ」の遠近法に無自覚・共犯的な単なるルサンチマンである。だからそれは何の「異化」効果も持たないし、いつしか忘れられるのみだろう。このような「新しいもの」は、これまでもつねにすでに忘れられてきたのだ。

「差別」は実際にある。しかしそれはもはや「同一」の空間によって、すなわち「同調圧力」によって隠蔽され、抑圧されるものではない。それはむしろ「黙つて事変に処し」ていることによって自明なものになった土壌=身体から「他者」をながめ見た時に、その「遠近法」的差異によって強調され、発見され、作り出されるものなのだ。

健忘症=潔癖症を超えて

ここまでにも何度か触れたように、日本的身体、日本という「制度」は、遠近法を利用している。この身体は、どんな「異なる」思想であれ、既視感のうちに包摂してしまうだろう。一方、この身体は、日本人のアイデンティティを実際に脅かしかねない「在日」の、その己に似た相貌についてはアレルギーを引き起こす。すなわち、そこにある「差異」=「距離」を極端に強調し、体外へ排出しようとするのだ。そのようにすることで、制度はいつまでも自分の身体を「固有=清潔」(propre)なままに守り続けている。

この身体の身振りのうちで、どんなトピックも、いずれも「なんでもよく、どうでもいい」退屈な趣味の問題へと還元され、いつのまにか忘れさせられてしまうだろう。かかる**健忘症=潔癖症**こそ私たちは批判しなければならない。新たに現れてくる様々な影。しかしそれは繰り返されてきた問題であって、実は「目新しい」ものでも「いかがわしい」ものでも「もう一つの」ものでもなかった。「目新しい」ものはいつでも、「差異化という差別」を生む「もっともらしい」ものでしかなかった。

この「遠近法」を狂わせるために、私たちは自分たちの身体の関節を、そして自明となっている文体の流れを脱臼させなければならない。差し迫った問題は、加速することではない。からだ(身体=文体)をどのようにして変えるか、これである。 それはおそらく、「新しいもの」や、「奇異なもの」、あるいは「マイナーなもの」を持ち出すことによっては不可能だろう。そうした諸々は、「趣味」に陥ってしまうに過ぎず、その時点で既に無毒化されているからだ。言い換えれば、それは日本的身体の「健康」に従事しているのである。

だから、「あの思想はもはや古くなったので、新たな枠組みが必要だ」と「状況分析」を述べ、何かを「批評」した気になるのはもうやめよう。むしろ私たちは、一見「アクチュアリティ」からかけ離れ、「終わった」、「遅れた」と思われているつるりとした過去の資料に目を向けるべきなのだ。そこにこそ、日本的身体の見せかけの統一性=単一性を複数化し、リニアな時間を脱臼させる、抵抗の手立てを見いだすことができるはずだからである。

もはや「風流」として自明のものとなった記憶の中からこそ、身体を不意打ちし、時間の関節を外し、「いかがわしさ」の幽霊が到来する。資本に内包されてしまう「もっともらしい」様々なる意匠を超えて、今そこに幽霊が徘徊している。

しげのかいり左藤青 共同執筆)

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