脱脳 (original) (raw)

脳みそが裸だ、

以前インターネットで読んだなにかしらに、「トイレで座っているときに、本当は今大通りの真ん中にいるのではないかと考えてしまい不安になる」というような概要の記事があった。この話における「ケツ」を、「脳」に各々脳みその中で置き換えてください。それが今の私なんです。いや、まったく同じでもないか、まったく同じだとしたら、自分の思考がつねに外に漏れているような状態がイメージされてしまうがそういうことではない。

思考の盗聴が怖いのではなく、脳みそがただ脳みそのままそこにある、それが怖い。

皮膚が透明になり、ピンク色のミミズが絡まっている状態が周りからはっきりと見えてしまっている。そういった様子をイメージする。物体としての脳が衆目にさらされている。

すると、ただ私の動物性が強調されてしまう。その中には思考や人格が入っているはずだが、表面的にはそんなことは現れない。動物、物体としての私の輪郭。

本当の自分は脳みその上のほうに目には見えない形で浮かんでいる。というのが理想の形態なのですが実際には肉体の檻に閉じ込められているためやるせないですね。ここから逃げられない。脱・脳をスローガンに活動していく。いや、「!」

例えば文章や、どんなことを喋ってるかとか、もういっそのこと思考を盗聴してもらってもいいんだけど、そういうものだけで私の人格を構成させたいと思う。構成させたいというか、人格は私が制作に干渉できるものではないから他人に願うしかないのですが…みんな!私の言葉だけを見てくれ!

この場合の「言葉」の範囲は、衣装とか持ち物とかも含みます。つまり自分の意志である程度コントロールできて、意匠を反映させる余地のあるものすべてを「言葉」としています。言葉の意味を拡大させて使うことで言葉の命を奪う。

服にこだわりがないんですけど服にこだわりがないってこともこだわりなので、服で人格を構成されるのは全然かまわない。言葉(この言葉は言葉という意味での言葉)で自分の考えや人格を表現しようとすることが肌に合わない人ももちろんいるだろう。

要は、絵は作者を必要とする必要があるのか、という話です。

私はないと思います。

私の人格には、私の意匠が細部にまで張り巡らされながら、環境の影響も色濃く受けて偶然の力によってのみ表現できる色もふんだんに盛り込まれた、そして何より私の人格とは完全に遊離したひとつの作品であってほしい。

だけどこの絵(私の人格)は何よりも作者(私の人格)を必要とする。 魂は肉体の檻に囚われているし個人は個人という檻に囚われている。

心身問題ではこの感覚を捉えきれないように思う。心にも身体にも帰属意識を持てない。なぜなら心も身体も、「私」の範囲の内側に位置しているからだ。

私が目指している場所は脱脳であり、脱私でもある。

客観的な視点ではなく、完全に客観に立ちたい。どこでもないところから。