逢田梨香子とは、桜内梨子の「海の音」である。 (original) (raw)
こんにちは。黒鷺です。
そいえばこういうの纏めてなかったなーと思ったので、今回改めて言語化してみました。
今年の8月8日の逢田さんのバースデーイベントの話もちょっとだけ入ってます。
ラブライブ!シリーズのキャラクターとキャストの関係性っていっぱいあると思っていて、一概にどれが正解とかはないんですけど、逢田さんと梨子ちゃんは意外と違う人だなって思います。
大事にしているものとか、経験の活かし方とかは、大きな枠で見れば結構近いと思うんですけど、ものの感じ方とか思考の組み立て方とかが全然違う気がするんですよね。
で、違うから悪いとかそういうんじゃなくて、違うからこそ梨子ちゃんでは届かない範囲にアプローチできたりとか、逢田梨香子という表現媒体を使っているからこその表現とかがあったりするんですよね。
というわけで、今回はそういう梨子ちゃんと逢田さんの違うポイントに着目して、その違いによって産まれた表現について解説してみようと思います。
逢田梨香子は「海の音」が聴こえない。
個人的に、梨子ちゃんと逢田さんの決定的な違いだといます。
23年のバレンタインライブの『Marine border parasol』内で、逢田さんが曲中の「海の音が聴こえた!」台詞を「みんなの声が聴こえた!」とアレンジしていました。
アニメ2期12話のタイトルが『光の海』だったりとか、コロナ以降初の声出しだったりとか、1期2話で見つけた「海の音」から『想いよひとつになれ』が産まれていたりとかそういった要素だったり、様々な媒体で梨子の作曲は情景と音を結び付けて行われていることが描かれていたりと、「海の音」が単に潮騒のみを表した言葉ではないと考えるのが自然なものとなっています。
私もそれを聴いた瞬間は、自分たちがペンライトで光の海を作り、そしてそこに声出しが戻ってきたからこそ、私たちの声が「海の音」だったのだと感動したのを覚えています。
しかし、直後のMCでは、逢田さんが「武蔵野には海がないから海の音は聴こえない」とコメントしており、なんでやねーーーん!!!とずっこけました。
で、これって、たぶん逢田さんが曲をちゃんと聴いてないとか頭が悪いとかそういう感じじゃなくて、本当に海の音は聴こえていなかったんだと思うんですよね。
逆に、同じ状況で梨子ちゃんは海の音が聴こえるんじゃないかなって思います。(メットライフベルーナドームで聴こえてたし)
というか、「なんで聴こえなかったか」は、掘り下げて面白いポイントではあるんですけど、「聴こえていないという事実」そのものに意義があるんじゃないかなと思います。
一応、「聴こえていない」と言える根拠とか、なぜそうなってるのかについても触れておきます。
なんで梨子ちゃんに聴こえて、逢田さんには聴こえないのかというと、これって優劣とかそういうのじゃなくて、単純に音楽の作り方とか感じ方が違うからだと思います。
ソロ活動で逢田さんは結構自信で作詞をしている楽曲が多く、それなりの数インタビュー記事での解説もあり、2024年のバースデーイベントではなんか遠山校長のインタビュー形式でさらに深堀りがされるという神イベントもありました。(全曲やれ)
そこでも触れられており、またいくつかのインタビューでも実際に言及されていたのですが、逢田さんが作詞のために物事を考える際、特定の情景に依存しません。
例えば初の作詞曲である『Lotus』は、蓮の花が「泥水を啜って成長する」という知識や、花言葉に「救いを求める」というものがあることから膨らませた曲ですが、これらは、一般化された「蓮の花」から作られていることが分かります。
喩えるなら、辞書から曲作れるんですね。
それに対して、梨子ちゃんは特定の情景から曲を作っているので、あまりそうした言葉から直接膨らませることはありません。スクスタのイベントでは、散った花が風で舞い上がるのを見て、「聴こえた」とスランプから立ち直るようなキャラクターとして描かれていたりします。
沼津を「自分を育てた景色」だと思っていない時期に歌った『夢で夜空を照らしたい』は、作中では黒星しかないように、言葉や理念ではなく、明確に情景に対する思い入れが必要となっています。
逢田さん作詞の2曲目『ブルーアワー』や、『ノスタルジックに夏めいて』を見てみると、梨子ちゃんと近いようでくっきりと差が出ている曲だと言えます。
『ブルーアワー』はファンやスタッフからたくさんの空の写真を送ってもらい、それらを見ながら作詞した曲ですが、梨子ちゃんと同じように情景から作った世界観でも、逢田さんは福薄の情景からひとつの作品を作っているため、そこでは一般化が為されていることが分かります。
『ノスタルジックに夏めいて』は、具体的な景色に基づいているという点では近いものの、テーマが先行しているという点で決定的な違いがあります。いわば、景色から「海の音」を感じているんじゃなくて、「海の音」に該当する景色を探しているんですね。
これらのことから、逢田さんの音楽の軸は、梨子ちゃんの「音を聴く」といったものとは異なるものだと言えます。
少なくとも、逢田さんの演じる梨子ちゃんは「海の音を聴いた梨子」を演じたものであったとしても、逢田さんは❝梨子ちゃんと同じように海の音を聴いて同じように感じた過程を「聴こえた」と認識している❞とはいえない、と結論付けることはできそうです。
もうちょっと具体的に言うと、「海の音」を表現する過程で、逢田さんは梨子ちゃんみたいな過程を踏んだ方法、「海の音を聴く」タイプの表現方法を選んではいないということです。こっちの方が正確っぽいですね。
「海の音」は何のメタファーだったのか
さて、こうした「海の音が聴こえる」といった特性は、梨子ちゃんの魅力としてかなりメジャーなものであり、特に主人公が作曲担当であるスクスタではかなり重要な要素として描かれています。
ホーム画面のBGMが、「あなた」が作った曲ではないと推察できるのが梨子ちゃんのみであることから、音楽キャラとしては真姫ちゃんやミアちゃんよりも格上として扱われていることは明らかです。
劇場版以降のAqoursの楽曲の幅が広がったのも、梨子ちゃん(と千歌ちゃん)の音楽的感性、言語的感性がシリーズでもずば抜けているものとして設定されていることが全くの無関係だったとは考えづらいです。
しかし、梨子ちゃんのこうしたセンスが重要な要素として取り扱われているのは、あくまで劇場版以降です。
メタ的な話をするなら、劇場版以降のシリーズの幅を広げるために梨子ちゃんにあらかじめこうした要素を設定しておいてあった、と考えても不思議ではありませんが、これに関してはたまたまじゃないかなと思います。根拠はないけど。
何らかのメタファーを実現させるために、梨子ちゃんにこうした共感覚的な要素を持たせ、それが後から大きな意味を持った設定になったんじゃないかなって気がするんですよね。
真姫ちゃんとの差別化とか、酒井監督の作風とか、いろいろ要素はあると思うんですけど、梨子ちゃんのこの「海の音が聴こえた」シーンで描かれていたことがすべてじゃないかとは思います。
1期のファンブックで、酒井監督は2話の制作ノートの欄に、『ラブライブ!』でいちばん大切にしていることは「心の動きが”かたち”になること」(意訳)だとコメントしています。
また、1期から一貫して千歌たちが何をしようが世界は1ミリも変化しないのだということを大切にしているとも言及されてます。でも、千歌たちが何かに気づけは世界は変わります。「世界が優しくなる」というよりも心境の変化で世界の見え方が変わる、といったほうが正確かもしれません。
で、梨子ちゃんは特にそうしたテーマを担当することが多いんですよね。
『転校生をつかまえろ!』だったり、『友情ヨーソロー』、『はばたきのとき』、『犬を拾う。』だったり。
特に、「海の音」のシーンも、「ものの見方が変われば世界は変わって見える」シーンとして象徴的だったと思います。
事実ベースだと、水中で「何も見えない」のは下を向いているからで、水中から太陽を見上げれば光が見えるというシーンですが、「目線を変えれば景色が変わって、求めていた答えはすぐそばにある」みたいに整理すれば、梨子ちゃんに共感覚的な要素がある理由も分かる気がします。
音楽を大切にしていて、そして音楽で躓いているキャラクターで、そして、沼津の外からやってきたキャラクターだからこそ、沼津の景色の中でまた大好きだった音楽に向き合えるようにならなければいけないんです。
むしろ、ラブライブ!サンシャイン!!ってここからスタートしてるんじゃないかなって思います。
この「海の音」が、「なにかをつかむことでなにかをあきらめない」ことや「だいじなひと」がいることに”気づいて”、そしてピアノが大好きだった”自分を取り戻す”曲。
つまり何かに気づくことで世界の見え方が変わった梨子ちゃんを象徴する曲へと進化していくからこそ、その「気づきのきっかけ」は沼津の景色じゃなきゃいけないんです。
ラブライブ!サンシャイン!!という作品が沼津の内浦を舞台として選び、作り手のインスピレーションに影響を与える以上に重要な役割を果たしている場所だからこそ、その「聖地」と「テーマ」を結び付ける強力なつながりが必要だったんだと思います。
梨子ちゃんのこうした「景色から音が聴こえる」という特性は、こうした背景でうまれたんじゃないかなと思います。
こう仮定すると、「海の音が聴こえる」といった感性をもっていない逢田さんがなぜ24年現在の「桜内梨子」を作り上げることができているのか、説明ができる気がします。
「海の音が聴こえる」という梨子ちゃんの特性は、現在ではラブライブ!シリーズの音楽の幅を広げる重要な特性であると同時に、聖地とテーマを強固に結びつけるための設定であるとも考えられます。
梨子ちゃんが「海の音が聴こえる」ことで表現されたテーマはたくさんありますが、大きな目で見れば「自分が変われば世界の見え方が変わる」ことです。
それならば、逢田さんが梨子ちゃんを通してそうしたテーマを表現しているなら、「海の音が聴こえる人」ではなくても、「海の音が聴こえる梨子ちゃん」を作り上げることができていると説明ができそうですね。
空と海とが溶け合った世界
ここの部分について、具体例を列挙してちょっとずつ説明しようかなって思ってたんですけど、先日の沼津でのファンミーティングを見て、これでいいかなって気がしました。
『水面にピアノ』のパフォーマンスを昼夜両方見たんですけど、発声というか、声の張り上げ方が梨子ちゃんというより逢田さんだったんですよね。
あっ、個人活動の歌唱でよく見る歌い方だ!って。力の入れ方とか、ロングトーンの伸ばし方とか、梨子ちゃんとして歌ってるときはそんなにやらないことを何度もやっていて。
地声と裏声の切り替えとか、あんまりAqoursだとやらないんですよね。
ラブライブ!は仕草を重ねるのではなく、こころを重ねるパフォーマンスをすることが最近は当たり前となってきており、敢えて違う動きをすることで気持ちが同じであることを示す表現も頻出しています。(というか、たぶんこの先駆けが4thの『想いよひとつになれ』だと思います)
『水面にピアノ』の歌詞を読み込むと、この曲に込められた願いは、歌がどこまでも広がっていくこと、物語を終わりにしないことだと考えられます。
そして、その景色が水面の波が広がっていくという情景に準えられているのですが、沼津ファンミでの『水面にピアノ』で表現されていたのって、この情景だったと思うんですよね。
何故かというと、桜内梨子の曲を逢田梨香子の声で歌うという行為が、そのまま梨子ちゃんの起こした波が逢田さんに影響を与えるということに重なるからです。
そうすることで、何が起こるかというと、ライブパートで表現されているものが、「梨子ちゃんが曲に込めた願い」ではなく、梨子ちゃんが曲に込めた願いが「実際に広がっていく情景」になるんですよね。
確かに、逢田さんは水面の波を見つめることと未来のことを考えることをダイレクトに繋げて表現するタイプの人ではありません。
しかし、未来のことを考えている梨子ちゃんの願いを背負いながら、「梨子ちゃんの夢を叶えようとする」ことはできるんですよね。
そして、逢田さんがそうした梨子ちゃんの夢を叶えるために歌っているその姿からは、「海の音が聴こえる」んですよね。だって、逢田さんが歌う姿は、『水面にピアノ』でメタファーとして用いられている水面の波と同等の意味を持つからです。
「桜内梨子の演技」だったらこれって実現しないんですよ。逢田さんは確かに桜内梨子役なんですけど、あの曲中はどちらかというと「桜内梨子に影響された人」、歌詞に準えるなら、梨子ちゃんの歌に重ねる「みんなの声」だったんじゃないかなって思います。
桜内梨子役の逢田梨香子さんが、桜内梨子の声ではなく逢田梨香子の声で歌うことで、ステージの上には、「梨子ちゃんが願う姿」ではなく、「世界中に広がっていく歌」「終わらない物語」が顕現します。要は、ステージの上に梨子ちゃんの歌に影響された逢田さんがいるんですね。まるで、波が重なっていく景色のように。
こう見ると、この『水面にピアノ』のパフォーマンスって、情景がそのまま表現になっているという点で、すごく梨子ちゃんらしいパフォーマンスだと言えます。
『水面にピアノ』の曲のテーマや、実際にテーマとなっている情景を考えたら、梨子ちゃんの声で歌うよりもむしろ逢田さんの声で歌う方が趣旨に合っているんじゃないかなと思いますね。
で、ラブライブ!って、「向こうの世界にキャラクターがいる」と「こっちの世界にキャストがいる」というダブルスタンダードを上手く使うことで、現実と創作を深い絆で結んでしまえるのが魅力でもあります。
先ほどまで散々、『水面にピアノ』は逢田さんの歌い方で歌ったことを根拠に、この曲は「梨子ちゃんを表現」したのではなく、「梨子ちゃんの感性で切り抜いた願いや夢を、現実の情景として再構成した」ような表現であると書いてきましたが、いくら逢田さんの声で歌っているとはいえ、歌い手が逢田梨香子である時点で、それは桜内梨子であると言えてしまいます。
このダブルスタンダードによって、梨子ちゃんとは違う逢田さんの感性や経験を活かしながら、『水面にピアノ』に込められた未来の情景を「海の音が聴こえる桜内梨子の姿で」表現することができるんですね。
仮に逢田さんに海の音が聴こえないからといって、「海の音が聴こえる梨子ちゃん」を表現できないわけじゃないんです。逢田さん自身が「梨子ちゃんが海の音を感じるような景色」になればいい。
そういう表現方法もあるんですね。
こうした表現方法って、実は梨子ちゃんの表現としてまた別の要素も含んでいたりします。
梨子ちゃんって、様々な媒体で沼津に馴染むのに苦労している描写があるキャラクターです。
過去記事でガッツリ触れたのでこのあたりは割愛しますが、すくなくともアニメでは、梨子ちゃんが「今まで自分を育てた景色」である内浦を、心の底から自分の故郷だと思えるようになったのは劇場版の終盤です。
つまり、「自分自身が景色になる」って、梨子ちゃんの表現としては重大な意味を持つものだったりするんですよね。彼女が沼津の一部になるまでの苦悩だとか、それらを乗り越えて自分が沼津の人間だと心の底から思えたことは、間違いなく彼女を代表する魅力のひとつなので。
そう考えると、この曲を「逢田さん自身が水面の波になる」という形で披露できたのは、沼津でのファンミーティングだったからかなと思ったりもします。
考えすぎじゃない?と思うかもしれないんですけど、結構そう考えられる要素は多いんですよね。今回はギルキス以外では初のスタンドマイクによる、歌唱力が強調される形での披露となったのですが、スクフェスで梨子ちゃんは、「歌うのは苦手」とコメントしています。
サ終してしまったのでスクショを録りに行けませんが、ホーム画面の汎用コメントなので、意外とみんな知ってると思います。
また、この曲では少なくとも何らかの形で登場しそうな「ピアノ」というキーアイテムが、振り付け以外で登場しません。
そうしたことからも、最初からこの曲が「梨子ちゃんのピアノ」ではなく「逢田さんの歌唱力」で構成された楽曲だったんじゃないかなって思うんですよね。
そういったパフォーマンスを見たのもあって、梨子ちゃんの「海の音が聴こえる」という特性は、逢田さんが海の音が聴こえるようになるという形ではなく、梨子ちゃんにとって「海の音が聴こえるような景色」を、梨子ちゃんの想いを背負った逢田さんが描くという形で表現されているのかなと思います。
最近のラブライブ!は、演じるのが難しいキャラクターなのか、キャストの表現のレベルが高すぎるのかは分からないんですけど、こうした高次元の表現を当たり前のように見せてくれるなと思います。
自分の推しキャラだと、歩夢ちゃん、きな子ちゃん、梢センパイは「キャラクターがやらないこと」をやっていたとしても、行動理由だとか行動の芯の部分が「キャラクターと重なるもの」だったりして、それによって表現の幅を大きく広げることに成功しているキャラクターだと思います。
たぶん、シリーズ内で見ても大西亜玖璃さん、鈴原希実さん、花宮初奈さんはぶっとんでる人だと思っていて、そういう人に対して「演者も含めてこのキャラクターが好き」という感情を抱いているなと思います。
最初期からずっと梨子ちゃんが好きで、ソロデビューしてから逢田さんも追ってるんですけど、最近までこれって偶然だと思ってたんですよね。
好きなキャラの演者だから興味を持ったとはいえ、そこから5年間ずっと好きな理由と、梨子ちゃんが好きな理由は全く別々なんだと思ってました。
でも、今回『水面にピアノ』を見て言語化して見ると、やっぱり梨子ちゃんが好きな理由と逢田さんが好きな理由も関係あったんだなって思いました。
逢田梨香子さんは、私にとっての「海の音」です。逢田さんが演じているから、私の大好きな梨子ちゃんはさらに素敵なキャラクターになっているんだと思います。
「りこちゃん」に出逢えてよかったです。大好きです。
2024年9月19日
桜内梨子ちゃんの誕生日に寄せて。
参考資料
※具体的な言及があるもののみ掲載。(全て載せるとラブライブ!シリーズの全ての資料を載せることになるため)
なぜ桜内梨子の音楽は美しいのか 前編『Brightest Melody』 - #てつがくのドンカラス
なぜ桜内梨子の音楽は美しいのか 中編 『想いよひとつになれ』 - #てつがくのドンカラス
なぜ桜内梨子の音楽は美しいのか 後編 『Next SPARKLING!!』 - #てつがくのドンカラス
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