余談:『水滸伝』舞台の宋王朝の朝廷言葉など14:『孤城閉〜仁宗、その愛と大義〜』 (original) (raw)

※補足1:画像は正午阳光官方频道(正午陽光公式チャンネル)で公開されている中国大河ドラマ『清平乐 Serenade of Peaceful Joy(邦題:孤城閉 ~仁宗、その愛と大義)』より引用

※補足2:各単語のカッコ内に発音のカタカナ表記を記載するが、カタカナでは正確な中国語

大赦(ダーシェ/dà shè)

避諱(ひき:皇帝の名前に含まれている漢字を避けて文章や会話をしなければならない中華世界の制度)に反してしまった梁懐吉(りょうかいきつ/liáng huái jí)。トップ画像のように倉庫に閉じ込められて罰の決定を待っていた。一方、それを不憫に思った同じ宦官(かんがん:朝廷の使用人)の張茂則(ちょうぼうそく/zhāng mào zé)が皇后の曹丹姝(そうたんしゅ/cáo dān shū)に直接相談して立ち回り、問題を解決。妃の苗心禾(びょうしんか/miáo xīn hé)が娘を出産する為に「大赦(ダーシェ/dà shè)」が出るので、それによって梁懐吉(りょうかいきつ/liáng huái jí)の罪も許されるという温情の判断がなされた。

この「大赦」は現代日本にも受け継がれて今も存在している制度。日本では「恩赦」という名称の制度となる。主には天皇の即位や改元に伴って実行され、直近では平成から令和に変わる際(2019年)には軽微な罰金刑案件に対する約55万件の復権(免許などの資格停止処分の撤回)、特別な事情による28件の刑罰執行免除が行われた。他国でもこれに類する制度が存在しており、例えば一世を風靡したサスペンス連続ドラマ『プリズンブレイク』では無実の罪で死刑囚となった兄を救う為の恩赦を求める場面があった。

<中国の変容>

中華世界の大赦(特赦制度)は、古代の夏・商・周の王朝時代から始まっている。ここでは幼い者や高齢者、体が弱い者や障害を持つ者などが罪を犯した場合、特定の時期に大赦が与えられるという法律があった。春秋戦国時代を経て秦王朝に至ると、始皇帝を代表とする統治階級が法家思想を強く推奨した事から大赦が一時的に消滅。情状酌量の余地は無く、法を犯した者を徹底的に罰する事によって戦乱後の世界に太平をもたらそうとした。

しかし、秦王朝は内部闘争により敢えなく崩壊。続けて漢王朝になると「天下大赦」の制度が復活した。漢王朝は仁政思想(思いやりのある寛容な政治)を優先したので、民からの支持を得るために「天下大赦」が盛んに行われた。

そして、仁宗のいる宋王朝時代に入ると、『宋刑統』に「罪人を赦すのは特赦の別名であり、赦免は罪の軽重を問わず、軽減措置は重い罪を軽くするものである。」とある通り、ここでも活発に社会の中に特赦の制度が適用されるようになった。皇室の慶弔や季節に応じた大規模かつ一律の「天下大赦」が継続された。また一方で、犯罪の特性や個別の事情に応じた「遇赦不赦」という新概念も登場した。

「遇赦不赦」とは、特赦の対象となる状況が発生しても、特定の罪が非常に重いため、その者には赦免が与えられない事を意味する。他の囚人が赦免を受けることができる場合でも、罪が極めて重大な者や特定の犯罪を犯した者に対しては、赦免が適用されないのだ。宋王朝時代の法律は、謀反や邪教(歪んだ刻逆的な思想を有する新興宗教)の普及、公共施設の破壊など、国家の安定を脅かすような重大犯罪を犯した者に対して、この「遇赦不赦」の原則が適用された。『慶元条法事類』には「奸細や邪教を広めた者、公共施設を故意に破壊した者など、国家の安定を脅かす重大な犯罪を犯した者は、特赦を受けることはできない。」と記されている。

例えば、邪教を信じて殺人を犯した人物がいた場合、朝廷が特赦を発布しても、他の一般的な殺人犯のように特赦を受ける事は出来なかった。仮に、事情に応じてその人物に減刑が行われるにしても、死刑から無期懲役への変更、あるいは処刑方法の軽減(凌遅から斬首など)といった具合に、刑罰そのものは残される事になった。

北宋王朝が舞台の『水滸伝』の英傑たちは、何らかの前科がある者が多い。特に平民であった者が致し方のない理由で山賊に落草し、犯罪に及んだ者が多数いる。また宋江(そうこう/sòng jiāng)の閻婆惜(えんばしゃく/yán pó xī)殺人や武松(ぶしょう/wǔ sōng)の潘金蓮(ばんきんれん/pān jīn lián)殺人など、情状酌量の余地がある事件も多い。こうした場合は「遇赦不赦」は適用されず、特赦の対象になり得た。

②歴史と創作の調和

現実の歴史でも、仁宗の娘が起こした騒動に深く関わる事になる宦官の梁懐吉(りょうかいきつ/liáng huái jí)。このドラマでは彼の幼少期の人生に関わる創作が大いに適用されており、この場面もそのひとつだ。大赦を受けて無罪となった幼い梁元享が、皇后の曹丹姝(そうたんしゅ/cáo dān shū)から本名のままだとまた避諱(ひき)が起こる可能性があるとして、「你以后 就叫梁怀吉吧(あなたはこれから、梁懐吉と名乗ると良い)」と言った。

この「怀吉(懐吉)」というのが、特赦という福气(幸運)による救われた人を表す名前として上手に機能をしている。日本の漢字としても理解出来るので何となくイメージが付くとは思うが、それぞれの漢字は次の意図を表現している。

- **「懐」**(huái):「心に抱く」「思いを寄せる」「懐かしむ」という意味を有する。感情や思い、愛情を心に抱いていることを示す字である。

- **「吉」**(jí):この字は「吉祥」「幸運」「良いこと」という意味を持つ。一般的に「吉」は幸運や縁起が良いことを象徴している。

よって、「懐吉」という名前は、「幸運や良いことを心に抱く」「幸福を思い慕う」という意味を持つと解釈できる。特赦の出来事に関してはあくまでも創作なのだが、実際の名前が上手に創作部分と結びついている。

③衙門(ヤーメン/yá mén)

梁懐吉(りょうかいきつ/liáng huái jí)には生き別れの兄、梁元生(りょうげんしょう/liáng yuán shēng)が登場。この兄弟の出来事も創作であり、この創作の兄については少々強引で、あまり上手に物語と絡んでいなかった印象がある。それはともかく、この場面は聊城(山東省)で生活をしていた梁元生(りょうげんしょう/liáng yuán shēng)が不義の事件の訴えを起こす場面。叔父の妻と腐敗役人の県令が密通しているという内容であった。

彼が駆け込んだのは「提點刑獄司(ていてんけいごくし/tí diǎn xíng yù sī)」という組織。これは宋王朝時代において登場した、各地方での犯罪取締り、監獄の管理、官吏の監督、農業や軍事の管理など、幅広く司法及び治安維持の実地的な役割を担う機関であった。特に彼らは犯罪の事実調査、それによる冤罪回避の機能を果たしていた。何度か廃止と再設置が繰り返された後、仁宗の明道二年(1033年)に常設機関となった。

ただ、この機関は大規模かつ重要な案件を担当する機関である為、梁元生(りょうげんしょう/liáng yuán shēng)が訴えるような一個人の不貞行為の取り扱いは無い。これは現代人で言うなれば、軽微な災難に遭った際、警察ではなく高等裁判所に駆け込むような状況なので、民が訴えを起こす際の手順に誤りがある。提點刑獄司の官吏(役人)は門前で仁王立ちし、「申冤告状该去县衙门(冤罪や不正を訴えたいのなら、まず県の衙门[役所]に行きなさい)」と彼に冷たく告げた。

だが、梁元生(りょうげんしょう/liáng yuán shēng)は食い下がった。「その衙门の役人の長官(県令)が不貞行為の相手なのです!彼らは幼い弟をどこかに売り飛ばしたのです!」と。この「市民を助けるべき公人が、先陣を切って市民を虐げている状況」は現代社会でも非常によくある話だ。

※画像:百度百科「衙门(旧时对官署的称谓)」より引用。清王朝時代の衙门(衙門)を再現した空間。中央や右端にいる女性は一般の観光客だろう。

「衙門(ヤーメン/yá mén)」は、現代で言うなれば地方の市役所、警察署、裁判所がセットになったような機能を持っていた「官署(役所)」だ。日本語の読み方では「衙門(がもん)」と呼ぶ。もともとの名称は、発音が同じ「牙門(ヤーメン/yá mén)」。これは古代の軍営の門を指す言葉。軍の指揮官たちが猛獣の爪や牙を自分たちの執務場所の門に飾る風習があり、そこから「牙門(ヤーメン/yá mén)」という名称が生まれた。

「衙門(ヤーメン/yá mén)」の名称が用いられるようになったのは、漢王朝末期からと言われている。この頃も「牙門」は軍隊の門の別称として用いられていたが、次第に官府でも使用されるようになったらしい。『武瓦聞見記』には、「近代では武力を重んじ、官府を『公牙』、府門を『牙門』と呼ぶようになり、次第に『衙』という字に変わった」と記されている。

続く唐王朝時代の封演の著作『封氏聞見記』巻五の「公牙」という条には、次のように説明されている。「近代では府廷を公衙と呼んでおり、公衙は古代の公朝と同じ意味である。この言葉は元々『牙』と書かれ、『詩経』には『祈父は王の爪牙』と記されている。祈父は司法を司り、武備を管理し、猛獣の爪牙を象徴として守護としたため、軍の大旗を『牙旗』と呼び、軍が出征する際には牙旗を掲げた。軍中の命令はすべて牙旗の下で行われ、これが府朝と同等の役割を果たしていた。近代では武を尊重するため、官府を『公牙』、府門を『牙門』と呼んでいたが、次第に字が変化し、『衙』となった」。

この唐王朝以降、「衙門」という言葉が広く使われるようになり、北宋王朝に入ると人々はもはや「牙門」という言葉を知らず、「衙門」のみを使うようになった。そして、この「衙門」からは多くの派生語が生まれた。例えば、「衙役」は衙門の中で働く役人、「衙内」は衙門の警備官を意味する。それらの職員は科挙に合格しなくても就職する事が出来た。主には責任者である官吏(科挙合格者)の子弟が直接任じられる事が多かったらしい。斜めに考えれば、才能や美徳がなくとも人脈さえあれば、このような割の良い職を得る事が出来たという訳である。

水滸伝』に登場する林冲(りんちゅう/lín chōng)を陥れたのは高俅(こうきゅう/gāo qiú)という朝廷の役人。「高衙内」という名称でも知られている。つまり、彼は衙門の中で働く役人であった。だが、彼のような遊び人が科挙に合格出来る訳がない。この奸臣(腐敗役人)は人脈にかじりついて上手く世渡りをして出世したのである。当時はこのような奸人が大勢いたので、「冗官(無意味に溢れかえった、税金を食い潰すだけの堕落役人)」が大きな社会問題になっていた。仁宗は後に、范仲淹(はんちゅうえん/fàn zhòng yān)と共にこの「冗官」の改革に挑む事となる。

④威~~~~~武~~~~~~(ウェイ~~~~~イ~~~~~)

※こちらは『開封府~北宋を包む青い天』の第三十五集に出てくる衙門(ヤーメン/yá mén)の一場面。手前にいるのは仁宗治世において活躍した功臣の包拯(ほうじょう/bāo zhěng)。奥にいる白い服の男性は犯罪者。その両側に棒を手にした衙内(衙門の警備員)たちが横一列にずらりと並んでいる。先ほどの清王朝の衙門を再現した場所の画像でも、両側に棒を持った警備員が立っているのが確認できる。

衙門で裁判が開かれる時、両側に立っている衙内たちが棒でドンドンと床を叩きながら、一斉に次のように合唱する。「威~~~~~武~~~~~~(ウェイ~~~~~ウ~~~~~/wēi~~~~~wǔ~~~~~)」。中国の歴史ドラマを観ているとよく登場する場面なのだが、その知識を知らないと、一体何が始まったんだと面食らってしまう。そして、知識がなくても真似をしたくなる奇妙な魅力のある儀式である。ウェイ~~~~~ウ~~~~~

この「衙門喊的威武(衙門で叫ぶ威武)」というのは、心理戦術の一部であったらしい。この儀により、犯人に重圧をかけて自白を引き出しやすくするのだ。どこか滑稽なようにも見えるが、実は非常に合理的であるとも感じる。「集団に囲まれている」「武器(棒)で激しく地面を叩く」「全員が一斉に声を出す」という四面楚歌の状況に置かれた犯罪者は、かなりの心理な圧迫を感じる事だろう。

具体的には、「威~~~~~武~~~~~」の儀には次の作用があると考えられている。

  1. **心理的圧迫**:

衙門で裁判を開始する際、左右の衙役(役人)は「威武」と大声で叫び、手に持つ「殺威棒」で強く地面や壁を打ち鳴らす。この音と声は容疑者に強烈な心理的なプレッシャーを与える。特に、心にやましいことがある罪人や、気の弱い者は、恐怖から自白しやすくなった。

  1. **「威武不能屈」**:

一方で、「威武」という言葉は、犯人に「威武(力)によって屈してはならない」という意味も含まれている。つまり、罪を犯していない者は、圧力に負けて偽りの自白をしてはならない、という警告の意味合いも持っているそうだ。「君が無実なら、堂々と話せ」という鼓舞の性質も有するという訳だ。

※おそらく、この「威武」は戦国時代、孟子とその弟子が著した『孟子・滕文公下』に登場する言葉に由来すると思われる。ここには「贵不能淫,贫贱不能移,威武不能屈。此之大丈夫。(富貴に惑わされず、貧賤に動じず、威武にも屈しない。これこそが真の大丈夫である)」とある。この文章から、「威武不屈(揺るがない意志を持ち、権勢や武力に立ち向かう意)」という成語も生まれている。

⑤補足:ウェイ~~~~~ウ~~~~~関連事項

先ほどの場面で、衙役が「也要云县衙门 击鼓去告(だから、お前は県の役所に行って鼓を打ち鳴らし、訴え出ろ)」という台詞も述べた。これは正式な訴状の準備が出来ない者に対する救済措置の事。盲や切迫した状況にある者が、正式な訴状を提出せずとも直ちに裁判を受けたい場合、衙門に設置された大きな太鼓を打ち鳴らす事で「私には訴えがある!」という事を通知できた。これを「撃鼓升堂」と言う。「升堂(シェンタン/shēng táng)」は裁判の開始を意味している。

※画像:百度百科「惊堂木」より引用。

このような裁判の場で用いられる「驚堂木(惊堂木)」という道具についても補足をしておきたい。これは現代の法廷で用いられるハンマー(ガベル)と同じような道具。正式名称は「気拍」と呼ばれ、また「界方」や「抚尺」とも評される。長方形の硬い木片で角や棱(稜)があり、騒がしい法廷を厳粛に正す目的、役人の威厳を高める目的、被告人を威圧する目的などに使われた。

⑥仁宗:俺は種馬か!

苗心禾(びょうしんか/miáo xīn hé)の出産が終わり、初めて娘を得た仁宗はとても嬉しそう。しかし、すぐに彼の顔が曇る。朝議の場では重臣たちが喜ぶどころか、険しい顔をして「息子がいない、世継ぎがいない、これは大きな問題だ」「早く皇族から養子を迎えて皇太子を立てるべきだ」と追及されてしまう。ここで改めて、仁宗は皇帝である自分が穏やかな個人の生活とは無縁であるという事を痛感する。

皇后の曹丹姝(そうたんしゅ/cáo dān shū)は彼の疲弊を目にして食事に誘ったが、仁宗は「どうせお前は誰を皇太子に立てるのか気にしているんだな」と八つ当たり。気持ちが分からない訳ではないが、これは彼女を心の底から失望させるには十分な言葉であった。曹丹姝(そうたんしゅ/cáo dān shū)は彼が自分を辛苦を共にする妻として求めていない事、自分を単なる正しき国母としてしか見ていないのだと感じ、静かな悲しい怒りを抱えながら福寧殿(ふくねいでん/fú níng diàn)を後にした。

仁宗は仁宗で、やるせない怒りを抱えたまま夜間の宮中を散歩。そこで彼が出会うのが張妼晗(ちょうひつかん/zhāng bì hán)。後に仁宗が寵愛する事になる妃で、仁宗は彼女が小さな頃にたまたま出会っていたという設定になっている。彼女は創作の人物。彼女を演じているのは王楚然。登場人物の関係をかき乱す自分勝手な役柄を演じる事に長けている女優で、本ドラマでも終盤までかなり不快な存在感を示し続ける。この「不快な人物を表現する」というのはかなり高度な演技力が必要だ。

それはそうと、世継ぎ問題がクローズアップされた事で、30歳の仁宗は鬱屈とした気持ちを抱えながら妃の名を一斉に書き出した。そして、精力増強の漢方の処方と、1日おきに別々の妃のもとへ侍寝(性交渉)する準備を整えてくれと宦官の張茂則(ちょうぼうそく/zhāng mào zé)に指示した。「俺は种马(ツォンマー/zhǒng mǎ:種馬)か!」という叫びが聞こえてくるような場面である。

ちなみに、宋王朝時代には種馬を用いた馬の品種改良が盛んに行われていた。特に種馬として有名な品種は次のようなものだった。

- 1. **西北蕃馬**

吐蕃やその周辺地域(現在のチベットや青海の青藏高原一帯)の馬。吐蕃、回鶻、党項、藏牙族など西北の少数民族から購入されていた。現在のチベット馬の祖先であり、宋王朝で取引される主要な馬であった。

  1. **西馬**

主に秦凤、永興軍、河東路周辺の少数民族の政権が存在する地域(現在の陝西、山西、甘粛、寧夏の一部)の馬。西馬は「秦馬」とも呼ばれ、特に陝西府谷で産出されるものが最も質が高いとされた。

  1. **河北本群馬**

契丹馬と河北地方の在来馬を交配して作り出された新品種です。主に河北地方に分布しており、この馬は土地に適応しやすく、病気が少ないため、優れた品種として知られていた。

  1. **東馬**

主に京東地域、現在の山東全域、河南東部、江蘇北部に分布していた馬。特に山東地方で多く生産され、質も非常に高い馬であった。

※今回の題材としたのは中国大河ドラマ『清平乐 Serenade of Peaceful Joy(邦題:孤城閉 ~仁宗、その愛と大義)』の第十四集。YouTube公式の公開リンクは次の通り。

www.youtube.com

作品紹介

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著作紹介("佑中字"名義作品)

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