背任疑惑の疑惑 (original) (raw)

たった二文字の違い

さて、前回のブログ上告棄却に際しての花菖蒲ノ會の見解に対する所感 - 神道研究室で私は三審制のことを「当事者が望めば原則3回まで反復審理を受けることができます」と述べました。この「原則」には「例外として2回しか審理を受けられないケースもある」という意味が含まれています。反対に「原則」という二文字がないと「例外なく3回審理が受けられる」という意味になります。たった二文字ですが、あるか、ないかによって大きく意味が変わってくるのです。

花菖蒲ノ會の見解

花菖蒲ノ會が発した「令和6年10月2日最高裁判所第三小法廷による上告棄却・不受理決定を受けて」の以下の文章には不可解な点がいくつもあります。

・懲戒処分の無効確認訴訟では、令和4年に最高裁神社本庁の全面敗訴が確定したが、この訴訟を通じて、神社本庁の不適切な不動産売却や背任疑惑、特定の企業との癒着、恣意的な人事の問題などが次々と明るみとなった。しかし、その後もなお田中氏ら執行部は誰も責任も取らず、代表役員からの謝罪すらない。

ここで「背任疑惑」が「明るみになった」と述べていますが、なぜ「疑惑」なのでしょうか?「田中恆清が職舎売却において背任行為をした」と確信しているなら「疑惑」ではなく、「背任の事実」と書くべきです。「疑惑」をつけるということは、①執筆者が「背任はあったかもしれないし、なかったかもしれない」と思っているか、②「司法に背任行為は認定されなかったが背任の疑惑をかけられた過去があった」という意味で書いている、のどちらかです。いずれにせよ、この文章の執筆者が「田中恆清氏が背任した」と断言できないから「疑惑」という二文字をわざわざつけているのです。

過去のブログ神社本庁職舎売却をめぐる背任疑惑を裁判所はどう判断したか - 神道研究室でも指摘しましたが、裁判所は背任行為は認められないと判断していますし、検察も不起訴にしています。「田中恆清氏は背任行為をしていない」というのが司法の判断なのです。だから逮捕されていません。花菖蒲ノ會はこの裁判を知っているはずですし、判決文も読んでいるはずです。花菖蒲ノ會の重要な見解を執筆する人間が重要な判決を読んでいないということは考えにくいので、「背任疑惑」とわざわざ「疑惑」をつけて書いた理由は②だと考えるのが自然です。

この書き方だと現在進行形で「田中恆清氏には背任疑惑がかけられている」という誤解を読者に与えかねません。そのような誤解が広まることは、本人や家族にとって愉快なものではなく、人権・人道的観点から考えて非常に配慮に欠ける表現方法だと言わざるを得ません。

もし田中恆清氏が背任行為をしたと本気で思っているのであれば、「疑惑」などつけず、またSNSの非公開グループではなく公開の場・媒体で「田中恆清は職舎売却で背任行為をした」と堂々と書けばいい。できるのであれば。

代表役員って誰?

あと、花菖蒲ノ會は代表役員の謝罪を求めていますが、代表役員とは誰のことですか?花菖蒲ノ會は統理から指名を受けた芦原髙穂氏が総長(=代表役員)だと主張してきました。なら花菖蒲ノ會が謝罪を求めるのは、田中恆清氏ではなく芦原髙穂氏のはずでは?

ところが、この文章では明らかに田中恆清氏に対して代表役員からの謝罪がないと批判しています。ということは、この文章において花菖蒲ノ會は田中恆清氏が代表役員であることを認めていることになります。主張が矛盾しています。

国語力

国学の基礎は言語学・古典文学・国史です。そのため神職には高い国語能力が求められます。神職の資格取得に際し、戦前戦後を通じて国語や歴史の知識が要求されていることからも、この点は明らかです。

もし「疑惑」の二文字に気がつかず、「田中恆清は職舎売却で背任行為をした」と誤読してしまった神職がいたとしたら、国学の研鑽が足りません。

ここからは一般論ですが、インターネットが普及してからというもの、「紛らわしい表現をつかって読解力の足りない読者をミスリードしようとしているのではないか」と思われる悪質な文章をよく見かけるようになりました。そうした被害を減らすためには、一般人の国語力を高める必要がありますが、この数十年間、英語や数学が優先され、国語教育が等閑視されている感があります。