i'm sorry (original) (raw)
霧雨の中を歩く。
3週間ぶりぐらいに、今日はいい日だったなと思いながら仕事から帰った。
笑顔の子どもたちを思い出す。
笑顔のお母さんたちを思い出す。
長かった修羅場の連続がようやく落ち着いてきて、ほっとして冗談を交わす職員のみんなを思い出す。
事件ばかりが続くわけでもない。平穏ばかりが続くわけでもない。
とんでもないことも起こりながら、小さな喜びも散らばりながら、
それぞれにとっての日常が続いていく。
私たちはここで一緒に生きているんだなと思う。
緊急事態が起こった時、どのようにどの手順で動けばいいか、
不安定な複数の利用者さんを落ち着かせながら、鉢合わせしないようにどのように誘導するか、
どこまで見守り、どこまで踏み込むか、
どこまで説明し、どこまでとぼけるか…
様々な出来事が起こり、様々な判断をしながら、適切な対応が求められる。
生きている!という実感はあったが、生きた心地がしない瞬間も多かった。
これまで不安や緊張という陰性感情を抱くことは何度もあったが、
最近の緊急事態の中で、私は多分この職場で初めて、怒りという陰性感情を利用者さんに対して抱いた。
その怒りを抱いたまま私が対応を続けたことで、もう私には対応してもらいたくない、と強く拒絶されてしまった。
そして明くる日に、上司と先輩から指導を受けた。
自分たちもそういう失敗を何度もして、利用者さんと関係修復を試みて、そうやって成長してきたから、これを学びの機会としてより適切な対応ができるようになっていってほしいと言われた。
私の言ったことはもっともなことだし、相手が落ち着いた状態だったら受け入れられたことだったと思うけれど、今の状態ではもっと寄り添う対応をしなければならなかったと思う、と言われた。
同じ職員として、私を守ろうとし、成長させようとしてくれることを感じた。
そして、明らかに向こうがおかしいんだけどね、でも私たちはそういう人たちを相手に支援をするのだから、気をつけていきましょうと言われた。
私は、私の対応によって利用者さんにしんどい思いをさせてしまったことを謝りたいと思ったが、拒絶感が強すぎるので私1人では難しそうだった。
そのことを伝えると、先輩職員が側について、良いタイミングで謝罪の場を設けてくれるということになった。
指導を受けた後、私は落ち込むというよりも、ここまで私に対して手厚くしてもらえたことがありがたくて、嬉しかった。
そして妙に奮起してしまっている自分に気づいて、困った。
緊急事態でも緊張を顔に出さずに、笑顔で利用者さんたちに悟られないよう話せだの、
ギャン泣きする赤ちゃんを泣き止ませる技術を身につけろだの、
相手が無茶を言ってもとりあえずは言うことを否定せずに受け入れて上手に受け流せだの…
そういう利用者対応をしながら、セコムへの連絡、救急車対応、病院への連絡、不審者対応、警察への連絡、警報機の誤作動の停止と復旧、館内放送…
様々な種類の修羅場が同時多発的に起こる。
職員が自分1人しかいない時に、それらを一体どうやってこなせと?
私はそこまでできるヒーローにはなれないし、そういう類の仕事がしたいわけではない。
だけど、利用者さんが不安定になって暴れた時などに突撃できる人員として、より使えるように兵士養成コースに乗ってしまったようだ。
確かに私は、緊急事態に利用者の元へ突撃できるようになった。(職員の中には、絶対に突撃しようとしない人もいる)
思えば、兵士としての訓練は既に始まっていた。
「役に立つことで認められたい、優秀でいたい」という厄介な優越目標を持つ私は、まんまとそのコースを邁進しようとしていた。
だめだ、このままでは死んでしまう!
限られた私の人生を、ここで終わらせたくもないし、こんなことに費やしたくもない。
だって私は、この仕事でとても傷ついているから。もう本当に耐えるのが辛い。
友だちに向かって言語化をしていくうちに、やっと私は自分の正直な気持ちを認めることができた。
力を抜きながら、無理せずにね、と、私のためを思ってくれる人たちは口を揃えて私に言う。
そう、それが私の苦手なことだから。みんなには見えているんだね。
私は愚かにも、いつも目の前のことに一生懸命になってしまう。
視野狭窄になって、でも自分では周りを見えていると思い込んで、
自分はどうしたらいいのかって、いつも私は私のことばかりを考えている。
カウンセリングもそう。利用者対応もそう。
もしも私が、あの時、子どものことをどうでもいいと言って自分のしんどさばかりを訴える彼女に対して、
怒りでなく慈しみの気持ちを抱いて向き合うことができていれば、
彼女の苦しみを自分のこととして受け止めることができていれば、
私は私の伝えたいことを伝えられたかもしれない。
そこまでできなかったとしても、彼女を怒らせ、より苦しませてしまうことはなかっただろう。
一生懸命なのは私のいいところなのだけれど、と上司は言われたけれど、
私が私のことについて一生懸命になることは自己執着だ。
私が相手のことについて一生懸命になっていれば、それはきっと良いことだろう。
相手のために私にできることは何か、それを考えている限り、私は苦しまずにいられる。
彼女の苦しみを増やしてしまったことを申し訳なく思った。
許してほしいとは思わない。ただ、私にあなたを傷つける意図がなかったということを伝えたいと思った。
彼女に拒絶された次の日から、先輩職員が何度も機会を持ちかけてくれ、私は謝ろうとしたけれど、彼女は無理ですと言い、私への拒絶を続けた。
私は彼女の子どもたちに対してはいつも通りに接しながら、彼女を刺激しないようにそっとしていた。
今日は私が彼女の子どもを預かっていた。
彼女が迎えに来られた時、先輩職員さんが彼女の隣に居たこともあって、
私はさりげなく「お帰りなさい」と言って子どもを引き渡した。
「ありがとうございました」と彼女は普通に言い、私の腕から子どもを抱っこした。
「あの…」私が彼女の視線をとらえると、一瞬目をそらした。
先輩職員さんがうなずいて、私の方を見るよう彼女を促した。
「先日は、しんどい思いをさせてしまって本当にすみませんでした。」
「いえ、そんな、恥ずかしいです、ありがとうございます」
彼女の真意はわからない。
けれど、私が顔を上げると、彼女は照れて笑っているように見えた。
とても、ほっとした。
その後、夜にもう一度子どもの預かりを終えて引き渡した時は、事務室前で彼女の上の子も一緒に雑談をして、
ちょうど帰宅した他の利用者さんも一緒に、子どもたちの成長についてにこやかにおしゃべりすることができた。
私に対して普通に接しようとしてくれて、とてもありがたかった。
私が彼女に拒絶されてから、1週間目だった。
きっと私よりも、彼女の方が気まずい思いを抱え続けていただろう。
不器用な方だ。
そして、私と違って、彼女を支えようという仲間が彼女にはいない。
もう二度と彼女を傷つけることのないように、彼女がどんなことをしようとも、私は彼女のためにできることを考え続けたい。仲間でいようとし続けたい。
失敗から学ぶということを、上司や先輩職員は、より良い対応を身につけるという意味で言われたのだと思う。
それは確かにそうなのだけれど、
私は、私のことを考えるのではなくて(つまり良い対応をできる私になろうとするのではなくて)、いつでも彼女のために私にできることを考えようと思う。
アドラー心理学の考え方はいつもシンプルだ。
でも、それを実践するのは私にはとても難しい。
また別の家の子どもたちのお世話で、今日は小さな子にご飯を食べさせた。
「Mさんが食べさせてくれる時はいつもたくさん食べれるんですよ。Mさんのこと大好きだもんね」
彼女の真意もわからない。
でも、わざわざそう言ってくれることが、嬉しかった。
私は本当に愚かなんだろうな。
抱っこして、美味しそうにご飯を食べるJくんがとても可愛くて、
それを見つめるお姉ちゃんの優しい顔が可愛くて、嬉しくて、
本当に本当に困ったちゃんのお母さんの笑顔が嬉しくて、
なんでもない日常の食事さえ、私たちの介入がなければままならない大変な事態なのに、
私がここに居て、この家族の中に居て、嬉しいなって思えてしまった。
私はどうかしてる。
でも、本当はこのお母さんだって、ごく普通の幸せを願っているんだとわかるし、彼女なりに一生懸命頑張っているのも、わかる。
この家族が普通の日常を送れるようになるかどうか、私にはまったく想像もできないけれど、
滑り落ちそうなこのギリギリの状態でも、幸せを感じられる瞬間があることを、共に感じた。
本当は、可愛い子どもたちが過酷な状況で生きているのを見るのは、辛い。
そんな境遇の子どもたちがいなくなって、全ての子どもたちが当たり前の安全で安心できる環境で生きられるようになってほしいと願う。
その私の自己執着による苦しさをようやく言語化してみて、苦しみが減った。
いつも「やっと気づいた」って同じことを書いているような気がするけれど、全然、まだまだ、自分では気づいていなかった。
私はここにいると悲しすぎるから、感じないように頑張っていたみたい。
私はもうこれ以上強くなれないし、なれなくていいと思えた。
頑張り続けてきたんだろうな、私も。
私は兵士にはなれないわ。
私はここにいなくてはならないような存在でもない。
役立たずでいよう。
あと半年、悲しい日常の中から楽しいことを拾い集めて、みんなで一緒に愛でていこうと思う。
タイトルは、Ichika Nitoの曲。
優しいギター。今日はずっとIchikaの曲を聴きながら書いていた。
わずかでも、楽しいひとときが私を支えてくれている。
逃避するというのではなくて、エネルギー源という感じだろうか。
そして疲れ果てて帰る家では、好きな音楽をかけて、体に良いご飯を食べて、ゆっくりと休む。
だから、自分の心地の良いように整えるよう努めている。
そこに大したエネルギーが要らなくなった。
当たり前のことを当たり前にできることは、ものすごいことだと思う。
そうやって小さな自信をつけたりしながら
どうしようもなく兵士のように生きていくしかなさそうな自分に呆れながら
そんな私を愛してくれるたくさんの人たちに感謝をしている。
自分で仲間を作って、居場所を作っていけるのが素敵だよと言ってもらったことについて、よく考えてみた。
もう必要以上に落ち込んだりしないで、愚かな私を認めて、愚かな私を大事にしようと思う。