えめばら園 (original) (raw)

【まとめ】
・AIの「ハルシネーション」(幻覚)という表現は統合失調症患者への偏見を強化するのでやめたほうがよい(Østergaard & Nielbo, 2023)。
・精神病傾向がある人が生成AIを利用することで幻覚や妄想が生じる懸念がある(Østergaard, 2023)。
・幻覚や妄想の内容を生成AIによって表現することは有効なコミュニケーションツールとなりうる(Østergaard, 2024)

Østergaard & Nielbo (2023)

Østergaard (2023)

Østergaard (2024)

Social Reasons - Richardson - Journal of Applied Philosophy - Wiley Online Library

社会的理由の存在

反論と応答

非理想理論における重要性

自らがその人種に基づいて優越的であると考える者たちのあいだで実際の合意があり、白人とされた人はそうでない人よりも道徳的及び政治的に優越しているとされた。Millsはこの人種契約という考えによって、現存する社会を記述的に特徴付けようとしている。

社会的理由の構築主義

【社会的理由の構築主義】
Xが行為者Aが文脈Cにおいてφする社会的理由であるのは、まさに次の場合である。すなわち、Xが行為者Aがφする理由であるということが、関連する集団Cの観点から含意される場合。

文脈依存性と規範的拘束力

社会的理由の規範性に対する抵抗感とメタ言語的交渉

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ここまでの記述は、痛み(pain)の厳密に情動的(emotional)な性格を理解するためのものだった。では次に、痛みの意欲的(volitional)特性に進もう。これもやはり非常に際立ったものである。*1苦痛の意欲的特性ということで私が意味しているのは、ある状態から逃れるための特定の行為へ向かう刺激のことである(これについては「精神の定義」*2の部分でも説明した)。多くの感情(feeling)は、行為を促すという性質を多少なりとも持っている。ある感情はその感情を和らげるための行為へ駆り立て、別の感情はその感情を継続させたり増大させるための行為へ駆り立てる。前者を我々は痛みと呼び、後者を快楽と呼ぶ。上述したように、情動領域における我々の意識状態を二分するこの大きな区分のあいだには広汎な違いがあるが、なかでも特に際立っており明確な違いは、意欲(Volition)のもとであらわれる。言い換えれば、それぞれが生じさせる行為の本性という点にあらわれる。私たちは痛みを避け、反発し、逃げ出すが、他方で快楽についてはそれを増大させようとしがみついたり努力したりする。強い苦みは、それを軽減するための行動へと私たちを激しく駆り立てるものである。

したがって、例えば身体的苦痛の性格の一部としては、それを軽減したりそこからの解放につながると感じられるあらゆる行為を強力に刺激すること、あるいは、それを強めるあらゆる行為に対して強力に反発させることが挙げられる。動物が一定の状況から逃れようともがくことは、その動物が痛みの状態にあることを私たちに証明するのである。痛みの緩和を感じられるようなあらゆる運動が精力的に続けられ、痛みを深刻化するような運動は精力的に抵抗される。苦しんでいる者は、それを軽減する方法を知っている場合にはそれを行う。そうした手段がわからない場合には、単にもがき続けることで解放の可能性をもとめる。横になることで楽になるならそれが選ばれる。直立姿勢が解放を与えてくれるなら、非常に小さな幼児やまったく不器用な動物でさえ、その姿勢を取って維持しようとする。

意欲の観点から言えば、ある感情が別の感情より優先して私たちの活動を占有すればするほど、前者は後者よりも強い感情だということになる。ある人が混雑した部屋の空気の悪さに苦しんでいるが、冷たい夜風にあたっても苦痛を感じるといった状況であれば、その人が〔最終的に行う〕行為の元となる感情のほうが強いと判断する。この方法からわかるのは行為の動因だけであり、〔感情の〕表現の仕方や、純粋情動の特徴などはわからない。

https://www.hup.harvard.edu/books/9780674032279

【目次】

第8章 バクテリオファージ:DNAを暴いたウイルス

細菌を食べるやつ
スタンダード・オイルとスネーク・オイル*1
生命とはなにか?

この部分の年表(要約者作製)

第一次世界大戦前夜 トゥオート、ファージ現象を発見
1915年 デレル、ファージ現象の再発見
1920年 ド・クライフ、ロックフェラー研究所に着任。乖離現象の研究に着手
1922年 デレル『バクテリオファージ』。各国にファージ研究チームが組織。マラー、ファージは遺伝子なのではと疑う
1925年 ルイス『ドクターアロースミス』
1926年 マラー、X線照射によりショウジョウバエに突然変異。デルブリュック、量子力学の研究に着手
1934年 エリス(カルテク)、ファージの研究に着手
1935年 デルブリュック、グリーンペーパー出版。スタンレー(ロックフェラー)、タバコモザイクウイルスの結晶化
1937年 デルブリュック、カルテクに異動し、モーガンとの共同研究開始
1938年 ウィーバー「分子生物学」

https://www.hup.harvard.edu/books/9780674032279

【目次】

第6章 ドロソフィラ・メラノガスタ(キイロショウジョウバエ):バナナ、ビン、ボリシェビキ

[本章前半のあらすじ]
ハエあり、どこでも参上*1

[195-3] ハエ部屋は世界中の関心を集めるようになった。[195-4] ハエ研究の大きな利点の一つは、ハエが持ち運び可能で、研究者に簡単に譲れるところにある。[196-1] このことは、キイロショウジョバエが標準生物になることに大いに寄与した。モーガンらはハエと共に関連する知識とテクニックを伝達していき、自由な情報共有はハエコミュニティの不文律となっていった。

[196-2] ハエ部屋を訪れた研究者の一人に、コロンビア大学理学部の修士課程学生だったハーマン・ジョセフ・マラー(Hermann Joseph Muller)がいた。[196-3] マラーは移民の金属工の孫としてニューヨークに生まれた。勤勉な学生で、奨学金をとりコロンビア大学に進学するとすぐ生物学に魅了された。自ら組織した生物学クラブを通じてスターテバントとブリッジスと知り合いハエ研究者を志したが、 [197-1] モーガンの研究室では居場所がなかった。[197-2] 遅れての参加に加え、性格面での不一致があった。気楽な性格のモーガン、スターテヴァント、ブリッジスに対して、マラーは生真面目であった。またモーガンが人道主義的な中道保守であったのに対し、マラーは急進派で、マルクス主義や共産主義思想に魅力を感じていた。やがてマラーは自分の仕事が無視されていると思うようになっていった。出版物に名前がクレジットされるのは実験を行った人物のみというルールは、自分から正当な評価を奪うためのものだと感じられた。だがこの苦悩は、マラーが頭は早いが手は着実なタイプだったことによるのだろう。マラーが複雑で高度な実験を几帳面に行っているあいだ、他の研究者はマラーのアイデアを利用した仕事を先に終わらせていたのだ。マラーは結局、モーガンが自分のキャリアを邪魔したと恨むようになっていった。[197-3] 南部の古い家系に生まれやや貴族的なモーガンとそのお気に入りのスターテバントに対して、ブリッジスはマラーの恨みの矢面に立たなかった。ブリッジスも(表面的にだが)共産主義シンパだったからだ。またマラーはブリッジスを、ショウジョウバエ工場で搾取される労働者とみなしていたようだ。実際、ブリッジスはハエのストックを管理する役割を担う一方で、スターテバントは色盲で突然変異を見分けるのが苦手だったために、理論家としての側面を強くしていった。

[198-1] ハエ研究全盛期の1917年、ロシア革命により世界初の社会主義国家が誕生した。革命に心を奪われたマラーは、1922にソビエト連邦を訪問することにした。[198-2] 当時のソ連は内戦と飢饉から立ち直ろうとする脆弱な国家で、あらゆるものが不足していた。マラーは32本のハエ瓶を携えて訪ソし、当地の生物学者に歓迎された。レーニン政権は科学、とくに生物学に大きな関心を抱いており、ボリシェビキは動植物の品種改良に大きな資金を投入していた。

[198-3] マラーのアイデアに最大の関心を示したのが、ニコライ・コルツォフ(Nikolai Kol’tov)だった。革命以前、コルツォフはツァーリの政権に対する批判によりモスクワ大学を解職されていたが、19世紀の科学的達成を、メンデル主義、生物測定学(biometrics)、化学における最新のアイデアと組み合わせるという新たな生物学の構想により鉄道富豪を説得し、「実験生物学研究所」(後のコルツォフ研究所)を設立していた。[199-1] 実験室革命に触発され、学生に実験技術の修得を推奨しつつも、野外での生物観察を行わせるという珍しい一面もあった。[199-2] コルツォフはアメリカのショウジョウバエ研究に関する講演をマラーに依頼し、その原稿を露訳して出版した。マラーは「研究所」のためにハエのストックを残したが、「研究所」には昆虫の専門家がいなかったため、コルツォフはモスクワ大学時代の旧友、昆虫学者のセルゲイ・チェトヴェリコフ(Sergei Chertverikov)を招いた。

[199-3] 遺伝学研究のチーフとしては、チェトヴェリコフはありえない人選だったはずだ。
遺伝学については何も知らず、反メンデル主義の強い生物測定学を教えており、実験家ですらないフィールド昆虫学者だったからだ。だがコルツォフにとっては昆虫に詳しいだけで十分であり、生物測定学への関心もむしろ新しいアイデアへのオープンな姿勢と捉えれられた。[199-4] 実際、チェトヴェリコフは勉強熱心で、同僚とともに、最新の遺伝学論文を直接読むことで英語を勉強した。ロシアのハエ研究者もグループを作り、「ドロズ・ソ・オル」(Droz-So-or)として知られるようになった("Droz-So-or"は”sovmestnoe oranie drozofil’shchikov”(ハエ学者の合わさった不協和音)の略で、当時のソ連官僚がやたらと作っていた造語を皮肉ったものである)。このグループはモーガンのグループと非常に似ていたが、1/3が女性という点には大きな違いがあった。

[200-1–201-1] チェトヴェリコフは実験室研究が野生種に関連性を持つかやや懐疑的で、モーガンらが突き止めた微小変異(small mutations)が野生群にも見られるかを検討することにした。20世紀初頭には、「対立遺伝子」のほか、「ホモ接合体」(honozygous)、ヘテロ接合体(heterozygous)などの用語が考案され、両者を区別するためにはホモ接合体をもつ個体と交配させればいいこもとわかっていた。そこでチェトヴェリコフらは、劣性(潜性)遺伝子のホモ接合体をもつとわかっている実験室のハエと野生のハエを交配させることで、野生バエの劣性遺伝子を明らかにしていった。遺伝子のわかっている実験室のハエは、未知の物質の化学組成を調べる試薬のような役割を果たしたのである。その結果、野生バエは遺伝的に途方もなく多様であり、あらゆる劣勢遺伝子をもつことがわかった。

[201-1] ただし、野生バエと実験室バエを同じように扱うことはできなかった。交配がコントロールされている実験室バエは遺伝子の正確な組みあわせを計算することができるが、野生個体ではそうはいかない。そこでチェトヴェリコフは、生物測定学から学んだ数学的テクニックを応用しはじめた。すなわち、採取したハエの遺伝的組成を実験室で決定した後、その結果を統計的手法によって野生に外挿していったのだ。キイロショウジョウバエ野生群が各種の劣性形質をもつ頻度を計算し、ある遺伝子を持つハエが自然淘汰により増えたり減ったりするのはいつかを推測した。

[201-2] 1926年、チェトヴェリコフはグループの最初の結果を「現代遺伝学の見地から見た進化過程の一定の特徴について」(On Certain Features of the Evolutionary Process from the Viewpoint of Modern Genetics)として発表した。この平凡なタイトルには非常に重要なことが隠されていた。これまで対立するものとされていた、生物測定学者たちの理解するダーウィンの自然選択と、モーガンらの理解するメンデルの遺伝学とが、はじめて相補的なものとして提示されたのである。チェトヴェリコフが正しければ、ド・フリースが探していた道、進化を思弁の領域から研究室にもってくる道は見つかったことになる。だが、この研究は当時ソ連以外ではほとんど知られなかった。

マツヨイグサの終わり

[202-1] そのころ、アメリカ人もさらなる発見をしていた。1918年、モーガンはド・フリースに手紙を送り、論文の草稿へのコメントを求めた。ハエの生命機能を担う遺伝子が変異し、生命機能がまったく働かなくなる場合があることを、マラーが見つけたのである。この変異をヘテロ接合でもつ場合には問題ないが、ホモ接合でもつハエは死ぬ。マラーが見つけたのはこのタイプの遺伝子が2つあるハエで、話がさらに複雑である。ある遺伝子にA(働く)とa(働かない)があり、別の遺伝子にもBとbがあるとする。この場合、生きられる個体はAABB、AABb、AaBB、AaBbに限られ、aaかbbを持つそれ以外の個体は死ぬ。致死性の劣性遺伝子の検出は難しい問題だった。マラーが交雑実験から得られたハエを数えようとしたところ、隠れた劣性遺伝子をもつハエを示すはずのメンデル比が崩壊していたのだ。何が起こっているかを理解するのに、マラーは多大な労力を要した。

問題が解決したのち、マラーはこの「平衡致死要因」(balanced lethal factors)がド・フリースの育てているオオマツヨイグサにもあるはずだと気づき、実際にそうだと判明した。[203-1] この説によると、交配させても劣性形質が出てこない(死ぬため)のでホモ接合的に見えるが、実際はヘテロ接合(隠れた致死的対立遺伝子をもつ)の植物が現れる。ド・フリースが見つけたと思っていた「新種」は、実際には極めて稀な雑種だったのだ。こうした事例は、ハエ部屋による大量生産以前には検出することができなかった。

[203-2] ド・フリースへの手紙でモーガンは「思い切って考えてみるに、マツヨイグサの変異の問題は、平衡致死要因説によって幸福な解決を見るかもしれない」と結んでいる。ド・フリースは送られてきた論文の余白に「不幸」と書きつけている。[203-3] だが、最悪の事態がまだ待っていた。ハエの研究が進むにつれ、新種を一気に生み出す大変異という考えはますますありそうにないと思われてきた。マツヨイグサの染色体の振る舞いは極めて異常であり、通常のメンデルの法則が完全に崩壊していることが、複数の国の研究者により発見されたのだ。植物の染色体の研究者の中にレジナルド・ラグルス・ゲイツ(Reginald Ruggles Gates)がいた。ゲイツはメンデルの理論の信奉者だったが、その破滅に重要な役割を担うことになった。1906年、ゲイツとアンナ・メイ・ルッツ(Anna Mae Lutz)はマツヨイグサの巨大変異体(ド・フリースが見つけた「新種」)が、通常のオオマツヨイグサ(Oenothera lamarckiana)の2倍の染色体を持つことを発見した。その後数年で、これはオオマツヨイグサによく見られることで、多くの変異体が異常な染色体数を持つことがわかった。[203-4] こうした事例は減数分裂がうまく機能しなかったことに由来する。こうした染色体の重複は動物では稀だが植物ではよくあり、「倍数体(polyploidy)」として知られている。

[204-1] マツヨイグサは倍数植物として初めて同定されたものの一つである。マツヨイグサは有名だったため多くの研究者がこれにとりくみ、倍数体の重要性を明らかにするのに貢献した。雑種の場合、染色体が一致しないためにペアを形成することができない。典型例はラバで(ロバが62本、ウマが64本)、丈夫で頑丈だが不妊になる。だが、減数分裂がうまくいかず、花粉ないし卵の形成過程で既に染色体が複製されている植物の場合、受精卵のなかに各染色体のコピーが2つ存在するため、各染色体はパートナーを見つけることができる。[204-2] その結果、新しい雑種が誕生し、これは同じく倍数体の雑種と交配した場合のみ稔性をもつ。この雑種は親とは非常に異なる外見を持つことが多く、親とは交配できないので、新種に見える。これがド・フリースが見つけたものだった(類似の現象が多くの種のヤナギタンポポでも見られるため、メンデルを困惑させていた)。

[204-3] 倍数体はハエ研究者の別の発見にも関連していた。メンデルの実験では豆の緑色・黄色という明確な対立特徴が用いられていたため、20世紀のメンデル主義者たちは遺伝子をオン・オフスイッチのようなものとして考える傾向があった。だが、ハエの研究によって話はより複雑だとわかってきた。ある遺伝子は別の遺伝子の振る舞いにも影響するのだ。たとえば、乗換えのさいに一部の染色体が二重化すると、ある遺伝子の2つのコピーを持つハエが生じる。[205-1] そしてこの2つの遺伝子は、1つの遺伝子の効果を倍化することがある。これは倍数植物でも起き、その結果として巨大「変異体」が生じたのである。またコムギ(common wheat)は6セット以上の染色体を蓄積しており、その結果より大きくて栄養ある種を生み出すことができる。[205-2] さらにバナナの現在の栽培品種はすべて染色体を2セットではなく3セットもっており、このために大きくて種がない(ラバと同じく不稔)果実を生じさせる。

私を愛したハエ*2

[205-3] ショウジョウバエは研究室という生態学的ニッチをいまでも活用し続けている。ただし、科学の流行に対応していく必要はあった。第二次世界大戦後、より小さく単純な生物が好まれたことで、ハエの時代が終わると思われたこともあったのだ。[206-1] だがハエの個体数はその後急速に回復し、1970年代には新種の遺伝的研究が可能になったことで新たな脚光を浴びた(後述)。今日も、世界中の研究室でハエは飛び回り続けている。[206-2] ハエにより染色体と遺伝の精確な関係を解き明かされたのに影響され、多くの研究者があらゆる動植物の染色体を研究し始めた。その結果、連続的な変異と断続的な変化の間の鋭く思えた区別が崩壊することになった(次章)。

[205-4] 1915年、モーガンと学生は自らの発見をまとめた『メンデル的遺伝のメカニズム』The Mechanism of Mendelian Heredity)を出版した。モーガンらは遺伝粒子が染色体上にあると考えていたが、ハエの繁殖ペースの速さのお陰で、この主張を裏付ける大量の証拠を集めるのには数年しかかからなかった。同じ主張は以前にもなされていたが、モーガンたちはより優れた証拠を出すことができた。その説得性は、研究成果が実験室実験に由来すること、[207-1] また結果を確認したい人にはハエのストックを喜んで送っていたことによって、非常に高かった。とはいえ、英国ではベイトソンが抵抗しており、このためにハエの英国進出は長年遅れた。メンデル的染色体理論への最も強力な反対は、予想されるように、ナチュラリストとフィールドワーカー、とくに生物測定学者たちから出てきた。牛乳ビンでの繁殖はハエにストレスを与えて変異させるため、実験結果は野生のハエには関係ないとされたのだ。モーガンはこうした批判を軽蔑しており、「真の対立は自然の不自然な取り扱いと自然な取り扱いの間にあるのではなく、コントロールされ検証可能なデータと、抑制のない一般化との間にあるのだ」と論じた。

[207-2] とはいえ、最も同情的なナチュラリストであっても、ハエ部屋での発見が野生での進化にどう応用できるのかよくわからなかった。チェトヴェリコフの研究を知っていればすぐに理解できたはずだが、チェトヴェリコフは自身のアイデアを発展させるために必要な実験を完遂できなかった。スターリンが政権を握った後に逮捕・粛清された数百万人のうちにチェトヴェリコフもいた。[208-1] 1929年にチェトヴェリコフは国内追放となり、モスクワとレニングラードへの出入りを禁止され、学校教師として生きることを余儀なくされた。殺されなかったのは幸運だったが、遺伝学についてはそれ以上発表することはできなかった。

[208-2] チェトヴェリコフの学生がその仕事をしばらくは続けていたが、ルイセンコがソビエトの生物学の支配権を握ると、ドロズ・ソ・オルは壊滅させられた。ルイセンコは一種のラマルキズムを支持して正統派遺伝学を退け、アメリカ遺伝学とのつながりが明白なブルジョア「ハエ愛好家」たちより自身の見解のほうがマルクス主義的だと主張していた。1930年代の飢饉のさい、迅速な解決を約束していたルイセンコを指導部が支持し始め、最終的にルイセンコはメンデル遺伝学を非合法化するまでの権力を得て、多くの遺伝学者が出奔、逮捕、処刑されたのだった。[208-3] チェトヴェリコフが逮捕されドロズ・ソ・オルが離散したとあっては、その研究もソ連外では知られないままでもおかしくなかった。だが、何人かがそれを西側で出版した。そのうちの一人が、英国の生物学者J. B. S. ホールデンだった。ホールデンは〔マラーと同じく〕左派シンパで、やはり1920年代にソビエトを訪問し、国家による科学の援助の手厚さに非常に感銘を受けていた。数年後、ホールデンは国際遺伝学会でチェトヴェリコフと会い、いくつかのロシア語の仕事の英訳を手配し、英国の学生に読むよう勧めた。ホールデンは生物測定学の道具立てを遺伝学に応用する可能性に興奮したが、そのための方法を解明するにはさらに多くの数学と、そしてモルモットが必要だった。

https://onlinelibrary.wiley.com/doi/10.1111/bioe.13260

体外生殖が家父長主義を永続させるという懸念
生殖の自律への脅威?
子供を養育する権利
妊娠の絆の価値から妊娠する権利へ
妊娠する権利の性格

https://onlinelibrary.wiley.com/doi/10.1111/bioe.12404

1. 序

2. 生物学的な親にならない権利

【A. 「生物学的な親」の権利による論証】

3. 遺伝的プライバシー権

【B. 遺伝的プライバシー権による論証】

4. 所有権

【C. 所有権からの論証】

5. 生物学的親が胚の今後について意見を違える場合

6. 結論