わすれな草 (original) (raw)
2024/11/16 記 №36
悪徳業者の言葉巧みな勧誘に騙されて、購入、もしくは契約してしまった後に「しまった!」「やられてしまった!」という経験があるだろうか。しかしそのような時に、助け船がある。「クーリング・オフ」制度である。それを使って助かったと思うことがあったであろうか。当人にとっては本当に有難い制度である。「助かった!」もうこれからは気をつけようと、胸を撫でおろしたに違いない。
ちなみに、「クーリング・オフ」制度について説明されているパンフレットにはこのように書かれている。「クーリング・オフ制度は、違約金を払うことなく、無条件で契約を解除する制度です。」それで、「カシコイ消費者を目指そう!」と。ゆえにこの制度は、危うく悪徳業者の罠にかかりそうになっていた時の救助船である。そして私たち人類は、この悪徳業者にさらされている消費者である。彼ら悪徳の手練手管によって、偽りの罠にはめられている。悪徳業者とは悪魔サタンのことである。彼が罠を置いているのは数か所ではない。全地の至るところに地雷を置いている。このことについてはわ「黙示録」のところで先述したように、龍と表現されている悪魔サタンは、政治機構、偽りの宗教、悪徳商法を行うことによって物質主義を煽りまくった人たちを用いて、多くの国民を欺いてきた。しかし神は、そのような悪魔サタンの手口に騙されないようにと、何度も親切に警告されてきたのだった。天の言葉は言う。
「身を慎んで目を覚ましていなさい。あなた方の敵である悪魔が、ほえるたける獅子のように、誰かを食い尽くそうと探し回っています。」(ペトロの手紙1 5:8 新共同訳)
「悪魔に隙を与えてはなりません。」(エフェソス 4:27 新世界訳)
まさしく悪徳業者に対して注意していなければならない点である。自らが欲望に負けてしまうなら、悪徳であることを見抜くことができないのだ。しかし、真理よりも欲望を満たすことを優先する人たちは、知らずに悪魔の手に落ちることがある。しかし、いったん悪魔の手に落ちたなら、もう救われる道はないのだろうか。いいえ、天の神は、悪魔サタンに騙された人たちに、人間のための「クーリング・オフ」制度を備えておられる。期間内であれば有効である。きちんとした手続きをするなら、悪魔の罠からでも抜け出せることができる。天の言葉は言う。
「悔い改めなさい。天の王国は近づいたからです。」(マタイ3:2 新世界訳)
「神の御心に敵った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします。」(コリントの信徒への手紙2 7:10 新共同訳)
キーワードは「悔い改める」である。誰でも失敗する。罪を犯さない者は一人もいない。その時、自分がそのことにどう向き合うかの問題である。自分で自分の罪を大目にみようとするなら、それなりの偽りが生じる。しかし自分自身に真正面から向き合うなら、誰でも悔い改めることができる。悔い改めは罪の度合いに左右されない。天の言葉は言う。
「『さあ、来るがよい。わたしたちの間で事を正そう』とエホバは言われる。『たとえあなた方の罪が緋のようであっても、それはまさに雪のように白くされ、たとえ紅の布のように赤くても、まさに羊毛のようになる。あなた方がその気になり、本当に聴くなら、この地の良いものをあなた方は食べるであろう。しかし、あなた方が拒み、実際に反抗的になるなら、あなた方は剣で食い尽くされる。えほばの口がこれを語ったからである。』」(イザヤ1:18 新世界訳)
犯した罪が大きくても小さくても、その人が真に悔い改め、それを行動によって表すなら、神はどんな罪でも赦してくださる。人生の間違いを正す機会を与えてくださる。それが神の「クーリング・オフ」である。
私たち人間が犯した罪が赦される、こんなに感謝すべきことが他にあるだろうか。人間社会では、同じ罪びとである裁判官が、他の人の罪を定め、その罪の度合いに応じて服役の期間が定められる。しかし彼ら人間の裁判官には、絶対に正しい裁きをすることができない。したがって冤罪も生じるし、不公正な判決を出すこともある。しかし神の裁きは絶対である。神はその人の心と行動の全て知っておられるので、全き公正を行うことができるのだ。汚れたものを吸うなら肺も汚れてしまうように、私たちは悪魔サタンが放出するあらゆる汚れたものを知らず知らずのうちに吸引している。それを生まれた赤ちゃんの時のようにきれいに一掃できるなら、そうしたいと思わない人はいないだろう。悔い改めとはその汚れを一掃することである。もしクーリング・オフの期間が切れてしまうなら、私たちはただ罪の内に死ぬだけである。何も残らない。
ペテロはこのように記している。
「エホバは約束を果たすのが遅いと考える人もいますが、そうではありません。神は一人も滅ぼされることなく、全ての人が悔い改めることを望んでおられるので、皆さんのことを辛抱しておられるのです。」(ペテロ第二 3:9 新世界訳)
一人でも滅ぼしたくない天の神は、忍耐しながら待っておられる。その期間がいつまで続くのかは誰も分からない。御子イエスも、それは神だけが知っておられることと言われた。したがってその日付が知らされることはない。ハルマゲドンは突然に来る。女に陣痛が臨む時のようであると記されている。それでこの世で、私は神の時を予言しているという者が現れても決してその言葉に耳を傾けてはならないと警告されている。それでイエスはハルマゲドンの時の様子について語っておられる。
「その時、世の初めから今に至るまで起きたことがなく、いいえ、二度と起きないような大患難があるからです。実際、その日が短くされないとすれば、肉なる者は誰も救われないでしょう。しかし選ばれた者たちのゆえに、その日は短くされるのです。その時『見よ、ここにキリストがいる』とか、『あそこに!』と言う者がいても、それを信じてはなりません。偽キリストや偽預言者が起こり、できれば選ばれた者たちをさえ惑わそうとして、大きなしるしや不思議を行うからです。ご覧なさい、わたしはあなた方に予め警告しました。それゆえ、人々が『見よ、彼はは荒野にいる』と言っても、それを信じてはなりません。『見よ、奥の間にいる』と言っても、それを信じてはなりません。稲妻が東のほうから出て西のほうに輝き渡るように、人の子の臨在もそのようになるのです。どこでも屍骸のある所、そこには鷲が集まっているでしょう。』『それらの日の患難のすぐ後に太陽は暗くなり、月はその光を放たず、星は天から落ち、天のもろもろの力は揺り動かされるでしょう。またその時、人の子のしるしが天に現れるます。そしてその時、地のすべての部族は嘆きのあまり身を打ちたたき、彼は、人の子が力と大いなる栄光を伴い、天の雲に乗って来るのを見るでしょう。そして彼は、大きなラッパの音とともに自分の使いたちを遣わし、彼らは四方の風から、天の一つの果てから地の果てにまで、その選ばれた人たちを集めるでしょう』。」(マタイ24:21-31 新世界訳)
それでイエス・キリスト以外の者が予言を語る場合、誰もそれを信じてはならない。それは神が語らなかったことであり、悪魔サタンの罠であることを忘れてはならない。
真実なことは神以外のところからは来ない。
「神は岩のような方で、行うことは完全、
神の道は公正である。
決して不公正ではなく、信頼できる神。
正しく、真っすぐな方。」(申命記 32:4 新世界訳)
かつてこれまで経験したことのない、この混乱した時代、信頼できるのは人間の言葉ではなく、天地の創造主である神の言葉である。そしてその言葉は、人類の始まりから終わりまでを告げておられる「聖書」に収められていた。他のどんな書物でもない。「聖書」は、私たち人間に命を与えた方、真の父からの人類に対する長い手紙であった。それに似せて、改ざんしたり、人間の書いたものを神の言葉だといって嘘をついている書物も無数にある。騙されてはならない。神の御子はただお一人であり、預言者たちも各々ただ一人である。それは、物質的な豊かさを求めるためのものではなく、霊的な喉の渇きを感じる人のためのものである。神が与えようとされているものは、ただ一つ、永遠の命という至宝である。それでイエスは言われた。
「わたしに向かって、『主よ、主よ、と言う者がみな天の王国に入るのではなく、天におられるわたしの父のご意志を行う者が入るのです』。」(マタイ7:21 新世界訳)
それで、信仰は言葉でもなく、知識でもない。神の言葉を行うことである。そのためには、罪を犯さない人は一人もいないのであるから、先ずは「悔い改める」こと、そしてそれを業によって示すこと、これが唯一、ハルマゲドンから救われる道であるとイエスは語っておられる。そしてこのように変化する時間は未だ私たちに残されている。その時間が尽きないうちに、人生のクーリング・オフ、それを使うようにと言うイエスの言葉が聞こえてくるのではないだろうか。
2024/11/5記 №35
2023年 2月20日
騒乱14 天の言葉は閉じられる
■希望
2023年2月6日の朝、トルコでマグニチュード7・8の地震があった。多くの人が亡くなり、そして被災した。ロシアとウクライナは戦争中で逼迫したなか、災害はますます広がり、これからの世界はどうなるのか、人々の不安は増すばかりである。天災は、何時、どこで、どのように起きるのかは誰にも分からない。ただ、起きることが分かっていることが一つだけある。神が定めておられる「神の大いなる日の戦争」であるハルマゲドンである。その日が地上に臨む時、それはかつて人類が経験したこともない大患難となり、それは全地に住む人の全てに及び、誰も決して逃れられないということである。イエスは、その時代の徴を読み解くようにと何度も警告されている。そして21世紀に生きる私たちは、その徴が全地に起きていることを目撃している世代である。そのことは、この世代は、神の時刻表のなかでも、極めて稀有な時代に生き合わせていることを意味している。
では、私たちはどうすれば救われるのだろうか。天の言葉によれば、それは宗教組織でも政治の力、または富の力によるのでもない。囚われていた使徒ヨハネは、流刑の島であるパトモス島で天の声を聞いた。黙示録の言葉である。
「わたしは天で大きな声が次のように言うのを聞いた。
『今や、我々の神の救いと力と支配が現れた。
神のメシアの権威が現れた。
我々の兄弟を告発する者が、
投げ落とされたからである。
兄弟たちは子羊の血と
自分たちの証の言葉とで、
彼に打ち勝った。
彼らは死に至るまで命を惜しまなかった。
このゆえに、もろもろの天とそのなかに住む者たちよ、喜べ。
地と海とは不幸である。
悪魔は怒りに燃えて、
お前たちのところへ降って行った。
遺された時が少ないのを知ったからである』。」(黙示録 12:10-12 新共同訳)
救いは、イエス・キリストによって悪魔サタンが滅ぼされる時に実現する。そのために、悪魔サタンは自分に残された「時」が短いことに激怒して、神に仕える人たちを捕らえて獄中に閉じ込め、迫害を強めている。第二次世界大戦中にはもっと酷く、悪魔の嵐は世界中に吹き荒れていた。日本でも戦時中の迫害は、戦争に反対する人たちはどんな人でも逮捕されて獄中に放り込まれて有罪になった。この世を支配しているのは悪魔サタンであるから、世に逆らう者は誰でも「罪」の印をつけられたのである。何時の時代でも悪魔のやり方は変わらない。一世紀のヨハネも、神の言葉を語った罪によって囚われたし、21世紀の今日でも、ロシアやその周辺の国々、韓国などでも数年前までは、「聖書」の言葉を語ったという罪で服役している人たちが大勢いた。このようにして世の支配者たちは、彼らは自覚していないとしても、「悪を善と言い、善を悪と言う者」(イザヤ5:20 新共同訳) となって、悪魔に仕えている。したがって、「聖書」によれば、彼ら支配者たちが人類社会を救うことは決してない。
天の言葉は言う。
「ほかの誰によっても救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」(使徒 4:12 新共同訳)
「私たちが救われたのは、王座に座っておられる私たちの神と子羊とのおかげです。」(黙示録7:10 新世界訳)
私たち人間を救うことが出来るのは、創造主である神だけである。それは理に敵うことではないだろうか。創造主であるかせゆえに救う力があるのだ。もしも創造主である神がいないのであれば、人類は自滅するだけであり、救いはどこにもない。そのことはこれまでにも何度も述べてきたことであるが、ここで述べる救いとは、空想の世界へむりやり引き込んでいくような宗教的哲学ではなく、文字通りの「罪」と「死」からの救いである。それは理論的に言っても、人間の造り主しかできないことである。あなたが信じても信じなくてもかまわない。これが「聖書」の「創世記」から「黙示録」に至るまでの一貫したテーマである。ゆえにこれらのことが実現しないなら、「聖書」は偽りであり、イエス・キリストの話も作りごとであり、神も実在しないということになる。
しかし、「聖書」そのものが、そのことを明確に記している。
「もし預言者がエホバの名において話しても、その言葉が実現せず、そのとおりにならなければ、それはエホバが話されなかった言葉である。その預言者は僭越にそれを話したのであるるあなたはその者に恐れ驚いてはならない。」(申命記 18:22 新世界訳)
2024/10/29 №34
■地球家族
理想の家族とはどのようなものであろうか。国家の単位は家族である。家族の在り方が、社会を、世界をつくる。そして今日でも家族とは、血のつながりを意味し、そこはあらゆる愛の原点であり、人格が育まれるところでもある。ゆえに家族の在り方、考え方次第で、その社会も世界も異なってくる。例えば、昔の日本の武家社会のことを考えてみよう。当時の社会には、゛仇討ち゛の制度があった。家族の誰かが、多くの場合は親であったかも知れないが、その人が殺された場合、その子供が仇討ちをするのは当然のことであり、公にもそのための社会制度があった。殺された側の人は、藩主が出す公の文書を持って、困難が伴う゛仇討ち゛への旅に出たのである。子どもが女性の場合でも同じように仇討ちに出る人もいた。そしてその人は、その目的が成就するまで故郷に帰ることはなかった。しかしもちろんのこと、逆に自分が命を落とすこともあったので、仇討ちをする人は、その一事に命と人生を賭けたのである。それが何よりも忠孝であり、価値あることとされていたからだった。階級制度の社会であるから、血筋は何よりも重んじられ、「家」の名誉を守ることは、武士としてなさねばならないことであった。もしその務めを果たさないなら、その人は家名を汚した者、勇気のない者として世間の笑いものにされた。今の価値観からすれば、とんでもない人格否定であるが、これが当時の家族の在り方であり、倫理であり、社会の常識であった。このように、家族の在り方は、時代背景のなかで変わってくる。このように、どのような家族であるかは社会形成に繋がっていく。あのローマ帝国が滅んだのも、家族の崩壊から始まったと言われるゆえんである。
そして今日、世界的にも従来の家族制度は崩壊しつつある。血の繋がりが絆の第一要素であることに変わりはないが、それさえも先祖代々続いてきた「家」を重んじるという考え方と共に薄くなりつつある。それに加えて、家庭から政治の舞台に至るまで、倫理観の欠如は、社会のいたるところに蔓延し、そのことがさらに家族の崩壊を速めている。
その点を考えると、では、「新しい天と新しい地」となる「神の王国」では、家族の形態はどのようになるのだろうか、という質問が起きる。しかし「聖書」には家族の在り方に対する詳述はない。けれどヒントはある。イエスが話された言葉である。それはイエスが弟子たち共に伝道の旅に出ておられた時のことであり、イエスの母マリアとその息子たち(異父兄弟)は、イエスに会うために旅先に訪れたのだった。そのときの様子がこのように描かれている。
「さて、彼の母と兄弟たちが彼のとこにやって来たが、群衆のために傍に行けなかった。けれども、『あなたのお母さんと兄弟たちが外に立って、あなたに会おうとしています』ということが彼に伝えられた。イエスは答えて彼らに言われた。『わたしの母、そしてわたしの兄弟たちとは、神の言葉を聞いて、それを行うこれらの人たちのことです』。」(ルカ 8:19-21 新世界訳)
この時イエスは、わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を行う人である、と言われたのだった。この時点では、イエスの兄弟たちは未だイエスの言葉を信じていなかったようである。それにしてもこの言葉から暗示されることは、新天地での家族関係は、血肉の関係よりも神との繋がりのほうが重視される、ということだと思う。今の体制での家族関係は、血肉の繋がりで構成されているが、神が重んじられるのは、血肉、血統ではなく、神と繋がる霊的な関係である。天の言葉は言う。
「それゆえ、人との前でわたしとの結びつきを告白する者はみな、わたしも天におられる父の前でその者との結びつきを告白します。しかし、だれでも人の前でわたしのことを否認する者は、わたしも天におられるわたしの父の前でその者のことを否認します。----わたしに対するより、父や母に対して愛情を抱く者はわたしにふさわしくありません。また、わたしに対するより息子や娘に対して愛情を抱く者はわたしにふさわしくありません。そして、だれでも苦しみの杭を受け入れて、わたしの後に従わない者は、わたしにふさわしくありません。自分の命を得る人はそれを失い、わたしのために命を失う人はそれを得ます。」(マタイ10:32-39 新世界訳)
イエスのこの言葉で興味深いことは、父、母、息子、娘など、血肉の関係よりも、神やイエスとの関係のほうがより重要であると言われたことである。これは観念的な言葉ではない。文字通りの意味である。なぜなら、イエスはさらにこのようにも述べておられるからだ。
「イエスは言われた。『はっきり言っておく。わたしのため、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子ども、畑を捨てた者は誰でも、今この世で迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子ども、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける』。」(マルコ 10:30 新共同訳)
実際に、一世紀、イエスとその弟子たちも、福音を信じて宣べ伝えたために、すさまじい迫害を受け、最終的には、師であるイエスも弟子たちも、福音のために命を犠牲にされたのだった。迫害の背後にいる者が、一世紀も21世紀の今日も同じ悪魔サタンであるなら、今日でも迫害のために血肉の関係や、物質的なもの、時には命さえも犠牲にしなければならないことに変わりはない。そしてそれらのものを失うことによって得られる報いは、どちらも「永遠の命」である。それで全ての問題の焦点は、「永遠の命」に帰一する。もちろんその考え方がない場合には、福音のために全てを失うことは、ただ愚かな話である。しかしこの聖句では、イエスは明確に、失った全てのもの、そのなかには命さえも含まれるが、それら失ったものは何倍もの報いを受ける、と明確にされた。
この、神が計画されている視点、目的、その原点があるからこそ、今の体制内であっても、血筋関係や物質第一主義よりも、神との関係がより重要であると言われたのである。決して血肉の関係を軽んじておられるわけではない。その証拠に、子どもは親を敬い、親に従順であるようにと教えておられる。
それで、新しい天地での家族関係は、血縁による結びつきではなく、神との関係で形成されていく霊的な「地球家族」であると推論できよう。それはこれまでの既成概念を根本から覆すものであり、人間には想像もできなかったことである。確かに直接命を生み出してくれたのは血肉の親であるが、しかしそれは遺伝子の法則に則ったものであって、真の意味での命の授与者ではない。単に命のルートに過ぎない。それでまさしく地球家族とは、全ての命の父は、創造主であり、宇宙の主権者である神エホバであるという、「創世記」に記されている、神の言葉の原点に立ち返ることである。
その時、どんなことが起こるのだろうか。今多くの人が苦しんでいる身近なことから考えると、人は皆生まれながらに平等であり、身分の差や貧富の差はなくなる。自然災害で苦しむこともない。いちばんの喜びは、それぞれが生まれながらにもっている才能を、充分に開花させられることであろう。貧しさゆえに、恵まれた才能を伸ばせないということはなくなる。今の体制下では、類まれな才能があったとしても、それすら気づくこともなく、ひっそりと死んで行っている人は少なくない。ある研究によれば、人間が賦与されている能力は、今発揮されている能力の何百倍もの能力だと言う。つまり今一人の人間が生涯に使っている頭脳は、全体の0、1パーセントか、それ以下かも知れないことが分かっている。その能力を例えて言えば、蔵書世界一と言われる中国の図書館の本全てを記憶できるほどの頭脳であるという。それが事実であれば、人間は永遠に生きるように造られたという神の言葉と調和する。もしかすると、各々がもつ能力の分野は異なるとしても、それは永遠に生きるように造られた神の目的と調和することである。人間の身体に宿されている精神的、知的、身体的能力が十分に発揮されるなら、人は皆天才なのかも知れぬ。
いずれにしても、今の体制下では、だれもが自分の能力のほんの一部しか用いないで死んでいるのだ。この理不尽さは、新しい天地で解明される。そして神はもう一度、死者にも生きている者にも、人類の全ての人にそのチャンスを与えられる。このように記されているからだ。「人がただ一度限り死に、その後裁きを受けることが定め置かれている--」(ヘブライ9:27 新世界訳)
そしてその能力を充分に生かして、思いっきり仕事ができる。それが人間の本質的な喜びではないだろうか。そもそも働くことの喜びは神が植えられたものである。そのようにして全ての人が新しい地で、完全なる適材適所で働くなら、地球の生産力は現在の何百万倍、それ以上のものになるにちがいない。地球は永遠のサイクル型に造られているので、無限の可能性を秘めている。そして、全ての人は歓喜する。神がアブラハムに約束されたことが実現するからだ。
「あなたにより、また、あなたの胤によて地上の全ての家族は必ず自らを祝福するであろう。」(創世記 28:14 新世界訳)
胤とはイエス・キリストである。イエスは、新しい天地となった「神の王国」の王として、永遠に続く平和な「地球家族」をつくられる。それが神の約束である。
2024/10/12 記 №33
■羊たちの追憶
想像してみてほしい。果てしなくつづく緑の大地。見上げれば青空にはぽっかりと雲が浮かび、地には花が咲き乱れている。そこはかつて旅人も恐れる大砂漠だった。サソリや蛇などが砂の中に身を潜めており、命を落とした旅人は少なくない。その砂漠平原が花園に変わったのだ。これは夢ではないか。そこに立つ人たちは、それが現実であると信じるには時間がかかる。
その平原の向こうには、美しい森が続いている。そこにはあの美しいレバノン杉が天を奪うかのように真っすぐに伸びていた。そしてその森の中をゆっくりと散策している動物たち。ライオンがいる。トラやチーター、熊もいる。そしてオオカミやジャッカルなども駆け回っている。やっぱりこれは夢に違いない、とまた目をこすってみる。森を抜けると再び広大な草原に出た。遠くに美しいシマウマの群れが見え、ヌーやゾウ、インパラ、キリンなどの草食動物たちがのどかに草を食んでいる。何と幸せな風景だろう。あの恐ろしいハイエナがひょこひょこと歩いており、コブラやニシキヘビでさえそれらの傍で横たわっている。もうあの凄惨な弱肉強食の場景は見られないのだ。やはり地球は新しくなったのだった。預言が実現したのだった。(イザヤ 11:6-9) あの肉食獣と草食獣の残虐な戦いは、「神の摂理」などではなかったのだ。愛らしく涼やかな目をしたインパラが、ライオンやトラに狙われて、その生肉が引き割かれ、命果てるまで貪り食われるという光景はなくなった。どうしてあれが神の摂理などであったろうか。美しくも優しい目をしたキリンの親子。子どものほうがライオンに追われる。母親は子どもを守ろうとするが、決して諦めないライオンがついに子どもの背中に飛び乗る。するともう一頭のライオンが足に噛みついて離さない。ライオンは連携プレーで必死にまといつく。そんなライオンに母キリンが蹴りを入れるが、ライオンの数は増すばかり。そして、ついに子どものキリンはライオンの牙の下に倒れる。そんな残虐な争いなど見たくなかった。象の赤ちゃんもライオンに襲われる。母親を呼ぶ悲しい鳴き声が森に響き渡るのを聞くこともつらかった。ウサギなどの小動物は肉食獣に襲われて逃げ惑う。その姿ほど哀れなものはなかった。彼らは地で襲われ、天からの猛禽にも狙われる。右に左のと紆余曲折しながら逃げ惑うが、最後には力尽きてしまう。時には親が留守にしている小さな巣穴の中まで追いかけて、生まれたばかりの子どもを捕まえ、むしゃむしゃ食べられることがある。急いで帰ってきた親は、成す術もなくその場景を遠くから見ている。親の悲しみが思われて胸が引き裂かれたものだ。どうしてこんな残酷なことが神の御意志であろうか。動物を造った方は、私たち人間よりもはるかに動物を愛しておられる。それがどうして罪深い人間である私たちですら受け入れ難いことを神が望んでおられるのか。何度もそう思ったものである。それは理に敵わないことだった。それに加えて、彼ら動物たちが素晴らしいのは、その生きた芸術品のように素晴らしい姿態ばかりではなかった。彼らには、体に埋め込まれている知恵である本能があった。例えば母性愛である。それは時には理性をもつ人間以上のものだった。子供が危険な場面に直面する時、彼らは躊躇なく自分の命を賭けて子どもを守ろうとする。相手がどんな猛獣であろうとも、勇敢に立ち向かっていく。小さな鳥でさえ、子供を奪った毒蛇に立ち向かって戦うのである。そんな素晴らしい習性が、進化によって培われてきたというなら、そのことが証明されなければならなかった。
裁かれなければならないのは人間である。神は人間のために動物を造られ、人間にその世話をするようにと命じられたのに、人間は世話をするどころか虐待し殺してしまった。木の葉一枚造れない人間が、生きた芸術品である動物たちを銃で撃ちまくったのである。そして、貴重な「種」を絶えさせてしまった。しかし天の言葉は記していた。
「神は谷に水の流れを送り込む。
水は山の間を流れる。
野原の全ての野獣はそれを飲む。
野生のロバは渇きを癒す。
空の鳥は水のほとりに巣を作り、
生い茂る葉の間で歌う。
神は階上の部屋から山々に水を注ぐ。
あなたの行ったことによって大地は喜ぶ。
神は、家畜のために草を、
人のために草木を生えさせ、
土地が食物を生み出すようにする。
心を喜びで満たすぶどう酒を、顔を輝かせる油を、
死にゆく人間を元気づけるパンを。
エホバの木々は潤う。
神が植えたシバノンの杉も。
そこに鳥が巣を作る。
コウノトリの家は寝ずの木々。
高い山々は山ヤギのすみか。
大岩はイワダヌキの避難所。
神は月を造って時を定めた。
太陽は沈む時をよく知っている。
あなたは闇を生じさせ、夜が訪れる。
すると、森林を野生動物が歩き廻る。
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エホバ、あなたの偉業は何と多いのだろう。
あなたは知恵によって全てを造った。
地球はあなたが造ったもので満ちている。」(詩編 104: 10-24 新世界訳)
ちなみにこれを書いたのは、預言者でもあったダビデ王であり、西暦前1070年代の頃と思われる。自然界に対する深い洞察と共に、動物に対する愛で溢れている。そして新しい天地はこの預言どおりに、動物たちの安住の地となった。人間はどうなったろうか。
「悪を行う人のせいで腹を立ててはならない。
悪人をうらやんではならない。
彼らは草のようにすぐに枯れ、
若草のようにしおれてしまう。
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ほんのもう少しすれば悪人はいなくなる。
彼らがいた場所を見ても、もういない。
しかし、温厚な人は地上に住み続け、
豊な平和をこの上なく喜ぶ。」(詩編 37:1-11 新世界訳)
誰でも一度は、悪人のいない地を想像したことがあるかも知れない。もしそうなると、治安の心配をしなくていいので、世界中を自由に歩き廻ることができる。どんなに楽しいことか。そのような世界が実現したのだった。
そして荒地はなくなり、砂漠さえ花々が咲き乱れるところとなった。山には果物がたわわに実って、動物や小鳥たちが集い群れている。餌がなくて互いに奪い合うということも、里に下りてきて人間が作ったものを奪うということもなくなった。人間同士も食糧を巡って争うことはない。そして何よりも嬉しいことは、そこにはもう体が不自由な人達は一人もいないことである。
「荒れ野よ、荒地よ、喜び躍れ
砂漠よ、喜び、花を咲かせよ
野花の花を一面に咲かせよ。
花を咲かせ
大いに喜んで、声をあげよ。
砂漠はレバノンの栄光を与えられ
カルメルとシャロンの輝きに飾られる。
人々は主の栄光と我らの神の栄光を見る。
弱った手に力を込め
よろめく膝を強くせよ。
心おののく人々に言え。
『雄々しくあれ、恐れるな。
見よ、あなたたちの神を。
敵を討ち、悪に報いる神が来られる。』
その時、見えない人の目が開き
聞こえない人の耳は開く。
そのとき
歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。
口の利けなかった人が歓び歌う。
荒れ野に水が湧きいで
荒地に川が流れる。
熱した砂地は湖となり
乾いた地は水の湧くところとなる。
山犬がうづくまるところは
葦やパピルスの茂るところとなる。
そこに大路が敷かれる
その道は聖なる道と呼ばれ
汚れた者がその道を通ることはない。
主御自身がその民に先立って歩まれ
愚か者がそこに迷い入ることはない。
そこに獅子はおらず
獣が上って来て襲いかかることもない。
解き放たれた人々がそこを進み
主に贖われた人々は戻って来る。
とこしえの喜びを先頭に立てて
喜び歌いつつシオンに帰り着く。
喜びと楽しみが彼らを迎え
嘆きと悲しみは逃げ去る。」(イザヤ 35:1-10 新共同訳)
人々は歓喜の声を上げて言う。
「神の言葉はほんとうだった! 神は実在者だったのだ。私たちの一人ひとりを本当に救ってくださったのだ!」と。それにしても戦争はどうなってしったのか? 核の脅威は本当になくなったのか?
「神は地上の全ての場所で戦いを終わらせる。
弓を折り、槍を砕き、
兵車を火で焼く。
『降伏し、私が神であることを知れ。
私は国々で称えられる。
地上で称えられる。』」(詩編 46:9、10 新世界訳)
戦争を終わらせられるのは神だけであった。人間にはその力がなかった。そればかりか、人間は核を作っておきながら、核のゴミすら処理することができなかったのである。困ってしまい、後先の考えもなく、ただ地中に埋めただけである。人間の知恵の限界であった。こんな大人がどうして幼子に、「おもちゃを片付けなさい」といえるだろうか。しかし神は、その愚かな子どもたちが残したやっかいな核のゴミさえ、地上から取り除いてくださった。そして地球は再び清められ、そこに義なる人たちが永久に住むことになっている。
「義なる者たちは地を所有し、
そこに永久に住むであろう。」(詩編 37:29 新世界訳)
「神は地の基をその定まった場所におかれました。
それは定めのない時に至るまで
まさに永久によろめかされることがありません。」(詩編 104:5 新世界訳)
それでは多くの人々が頼ったあの「神々」はどこへ行ってしまったのだろうか。それらの神は、信じていた人々に何をしてくれたのか? 木石の偶像の前で伏し拝み、「わたしはあなたに沢山のお金をお供えしました。ですからもっと良いことがありますように」と祈っていた人たちはどこへ消えてしまったのか? 物言わぬ偶像も、それを信じた人々も共に恥をかいた。まさしく神の言われたとおりだった。
「彫刻像を崇拝する人、
無価値な神々を誇る人は皆、
恥をかく。」(詩編 97:7 新世界訳)
それでは誰に頼るべきだったのだろうか。天の神は告げていた。
「権力者にも、人の子らにも頼ってはならない。
その人たちには救う力がない。
人は息絶えると地面に戻る。
まさにその日、その人の考えは消え失せる。
(詩編 146:3、4、新世界訳)
頼るべきは、同じ被造物である人間ではなく、わたしたちを造った方であった。私たちは、地球と人間をもっと宇宙的な視野で見なければならなかったのである。
「エホバが神であることを知れ。
わたしたちを造ったのは神であって、
わたしたち自身ではない。
わたしたちはその民、
その放牧地の羊である。」(詩編 100:3 新世界訳)
どんなに威張ってみても、宇宙から地球を眺めておられる神の目には、私たち人間は草原で草を食んでいる一匹の羊に過ぎない。羊は羊飼いに導かれなければ生きていけない。同じように人間も羊飼いが必要だった。それが御子イエス・キリストであった。神は自らを導くことができない人間に、イエス・キリストを通して歩むべき道を教えておられたのである。しかし多くの羊たちはそれを見分けなかった。偽りの羊飼いについて行ってしまった。しかしイエス・キリストご自身ははっきりと明言されていた。
「はっきり言っておきますが、私は羊が通る戸口です。私の振りをして来た人は皆、泥棒や強盗です。しかし、羊は彼らの言うことを聞きませんでした。私は戸口です。わたしを通って入るなら救われ、出入りして牧草地を見つけます。泥棒は、盗み、殺し、滅ぼすためにしか来ません。私は、羊が命を得て生き続けるために来ました。私は立派な羊飼いです。立派な羊飼いは羊のために命を投げうちます。
雇われ人は、羊飼いでも羊の所有者でもないので、オオカミが来るのを見ると、羊を見捨てて逃げます。(オオカミは羊を襲い、散らします。) 彼は雇われ人で羊のことを気に掛けないからです。私は立派な羊飼いで、自分の羊を知っており、私が父を知っているのと同じです。そして私は羊のために命を投げうちます。」(ヨハネ10:7-15 新世界訳)
羊を飼ったことのある人なら知っていることであるが、文字通りの羊は、本当に自分を気遣ってくれる羊飼いが誰であるかを見分ける。知らない羊飼い、本当に自分たちを守ってくれない偽羊飼いをよく知っており、その者には決してついて行かないのだ。羊すらそうであれば、理性をもつ人間がなぜ偽りの羊飼いを見分けられないのだろうか。利己心のためである。利己心がその人の心を鈍らせる。心が暗くなっている人達は真の義を見出すことができない。
「体のともし火は目である。目が澄んでいればあなたの全身は明るいが、濁っていれば全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう。」(ヨハネ 6:22、23 新共同訳)
そしてもう一つ、イエスはが警告されていたことがある。神と富とは決して両立しないという真理である。
「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」(ヨハネ 6:24 新共同訳)
それで、偶像崇拝を武器にして、羊たちを騙してお金を貪るのが、悪魔サタンの正体である。サタンの目的は、羊を保護することではなく、共に滅びへの道に引きずり込むことであった。悪魔の本質は残忍の一言に尽きたのである。
それで結局のところ人類は、たとえどんな生涯を終えたとしても、神が最初の人間夫婦に話された言葉から一ミリも逃れることはできなかったのである。
「あなたは額に汗してパンを食べ、ついには地面に返る。あなたはそこから取られたからである。あなたは塵だから塵に返る。」(創世記 3:19 新世界訳)
2024/10/10 №32
■新しい天地
その時、その情景を見ている人は決して夢を見ているわけではない。確かに、あの古い体制下において、敵わぬ夢として何度も夢みてきたことであるが、それはまさしく人間という生物に埋め込まれていた正しい願望であったのだ。見渡すかぎり、はるか平原の向こうまで、色とりどりの花が咲き乱れて、真っ青に晴れ渡った空には白い雲がたなびき、小鳥のさえずりが眠りを誘うかのように心地よくさえずっている。しかし、ここは確かに旅人が恐れる死の砂漠であったところだ。一歩、そこに足を踏み入れると、蛇やサソリなどが身を隠しており、いつそれらに襲われるか分からない恐怖に満ちた砂漠だった。あの恐ろしかった砂漠はどうなってしまったのか? サフランの花がむせ返るほどに香っている。やはり夢なのかな? 見ると、目が不自由だった人が歓声をあげてはしゃいでいる。しゃべることができなかった人が歓びの声をあげて叫んでいる。耳の聞こえなかった人が互いに話し、足の不自由だった人が小鹿のように丘の上を駆けまわっている。腰の曲がった高齢者もいない。砂漠だった所の真ん中を清らかな川が流れている。
ああ、もしかすると、これが天の言葉が約束していたあの楽園というものなのか! 以前のあの混乱と悪にまみれた世界はどこへ行ってしまったのか! するとの世界こそ長く続いた悪夢だったのか? 天の言葉が思い出される。
「荒野と乾ききった土地は歓喜し、
砂漠平原は、歓びに満ちてサフランのように花を咲かせる。
必ず花を咲かせ、喜んで歓声を上げる。
------
人々は私たちの神エホバの輝かしい栄光を見る。
弱った手を強くし、震える手をしっかりさせよ。
心に不安を抱いている人たちに言え。
『強くありなさい。恐れてはいけない。
あなたたちの神が来て復讐する。
神が来て報復する。
神が来てあなたたちを救う』
その時、目が見えない人は見えるようになり、
耳が聞こえない人は聞こえるようになる。
その時、足が不自由な人は鹿のように跳びはね、
口がきけない人は歓声を上げる。
荒野に水が湧き出て、
砂漠平原に川が流れる。」(イザヤ 35:1-6 新世界訳)
人々は見ることになる。神がこの預言を実現させてくださったことを!
「私は新しいと新しい地を創造している。
以前のことは思い出されることも、心に浮かぶこともない。
私が創造しているものについて歓喜し、永遠に歓びなさい。
------
人々は家を建てて住み、
ブドウ園を造って実を食べる。
建てた家に他人が住むことはなく、
植えたものを他人が食べることもない。
私の民の寿命は木の寿命のようになり、
私が選んだ者たちは働く喜びを存分に味わう。
彼らは無駄に労することはなく、
生まれる子どもたちが苦しむこともない。
彼らとその子孫は、エホバに祝福された民だからである。」(イザヤ 65:17、18 21-23 新世界訳)
これこそ人類社会が願い求めてきた世界である。自分が建てたのにその家に住むことができず、自分が植えて育てたのに、それを食べることができないということはもうなくなる。誰かが富んでいて、誰かが貧しいということもない。神は全てのものを平等に与えてくださる。不公正で苦しむ人もいなくになる。飢えて死ぬ子どもたちはいなくなり、たらふく食べて太った人たちが食べ物を捨てるということもなくなる。神は悪を見逃されることはない。すべてのことを平等に祝福される。天の言葉は言う。
「主があなたに負わせられた苦痛と悩みと厳しい労役から、
あなたを解き放たれる日が来る。
そのとき、------この嘲りの詩を歌う。
ああ、虐げる者は滅び
その抑圧は終わった。
主は、逆らう者の杖と
支配者の鞭を折られた。
かつて彼らは激怒して諸民族を撃ち
撃って止まることを知らなかった。
また、かつては諸国民を支配し
仮借なく踏みにじった。
しかし今、全世界は安らかに憩い
歓びの声を放つ。」(イザヤ 14、3-8 新世界訳)
「わたしは公正を測り綱とし、
義を水準器とする。」(イザヤ 28:17 新世界訳)
「善を行うことを学び、公正に裁き、
虐げる人を正し、
父親のいない子どもの権利を守り、
やもめの言い分わ弁護しなさい。」(イザヤ 1:17 新世界訳)
これらの言葉が示す「神の王国」が建てられる時、山本太郎氏が掲げる理想の国が実現することになる。もし支配者が公正と義を完全に行うことができるなら、全ての問題は解決するであろう。強者が弱者を圧制し、彼らから搾取するという社会はなくなる。不公正に涙を飲まなければならない人たちはいなくなる。
ちなみに今日、不公正な社会で涙し、絶望している人たちは多い。それゆえに自ら命を断つ人たちも少なくない。その数は、世界で年間80万人、そのうち日本では二万人(2019)であり、世界でいちばん多い。さらに自殺未遂者は35万人である。まさしく「人間が人間を支配して苦しむ」というソロモンの言葉の真実性を証しているのではないだろうか。
人類はさまざまな社会体制をつくってきた。主に、資本主義、社会主義、共産主義や、その他多くの社会体制を試みてきたが、何も成功しなかった。どんな体制も人々を幸福にしなかった。どの場合も、支配する者と支配される者がおり、利己的な「欲望」が渦巻いていた。「欲望」という人間が決して捨てることができない「罪」を、人間はついに征服することができなかったのである。人間は理想的なシステムを考えることはできる。しかし実行する力は持っていなかったのである。天の言葉は預言していた。
「人は自分の道を定めることができません。自分で自分の歩みを導くことができないのです。」(エレミヤ10:23 新世界訳)
では、誰が導けるのだろうか。論理的に言って、人間を設計して造った方のみである。決して、同じ人間が他の人間に勝ってこれを導き教えることはできないのである。
それではどうすれば良いのだろうか。さらに天の言葉は言う。
「この事物の体制に合わせて形つくられるのを止めなさい。むしろ思いをつくり直すことによって自分を変革しなさい。それは、神の善にして受け入れられる完全な御意志を自らわきまえ知るためです。」(ローマ 12:2 新世界訳)
鍵は社会の変革ではなく、社会を構成している人間自身の変革である。換言すれば、それは悪魔サタンが形づくったこの体制に合わせてつくられていた人格を脱ぎ棄てることであり、同時に神が求めておられる新しい人格を身につけることである。悪魔サタンの価値観から神の価値観に転換することである。
人間がいちばん価値あるものとして崇拝してきた「お金」はもういらない。それは人を自由にしたのではなく、逆にそれはとんでもなく人を不自由にしたのだった。人間はそのことに気づかなかった。自由になるためにと思って必死に働いた。そのためには正義も振り捨てなければならなかった。だが、お金は何ももたらさなかった。自由も喜びも。苦しみだけを残して去って行った。結局のところ資本主義は間違っていたのである。天の言葉は言う。
「怒りを時、憤りを捨てよ。
自分も悪事を謀ろうと、いら立ってはならない。
悪事を謀る者は断たれ
主に望みを置く人は地を受け継ぐ。
しばらくすれば、主に逆らう者は消え去っている。
貧しい人は地を受け継ぎ
豊かな平和に自らを委ねるであろう。」(詩編 37:11 新共同訳)
「見よ、正義によって一人の王が統治し、
高官たちは公平をもって支配する。」(イザヤ 32:1 新共同訳)
新しい地は、公正を土台とする支配である。今、正しく生きようと奮闘している貧しい人たちは報われて地を受け継ぐ。正義の礎の上に樹立される「神の王国」は、お金が動かす世界ではない。資力の多寡によって人間の幸福度が測られるような世界ではない。新しい地で評価される規準はただ一つ、「義」のみである。それゆえに、今の体制下で生きる全ての人々に天の神は言う。
「---これらのことを絶えず教え、また、こうした勧めを与えていきなさい。もし誰かが、他の教理を教え、健全な言葉、すなわち、わたしたちの主イエス・キリストの言葉に同意せず、また、敬虔な専心にかなう教えに同意しないなら、その人は誇りのために思い上がっているのであり、何も理解しておらず、疑問を挟むことや、言葉をめぐる論争で精神的に病んでいるのです。そうしたことから、そねみ、論争、ののしりの言葉、悪意の疑いが起こり、また、思いが腐って真理を奪い取られ、敬虔な専心を利得の手段と考える人々の、ささいな事をめぐる激しい言い争いが起こります。確かに、自ら足りて敬虔な専心を守ること、これは大きな利得の手段です。わたしたちは世に何かを携えてきたわけではなく、また、何かを運び出すこともできないからです。ですから、命を支えるものと身を覆うものとがあれば、わたしたちはそれで満足するのです。しかし、富もうと思い定めている人たちは、誘惑と罠、また多くの無分別で害になる欲望に陥り、それは人を滅びと破滅に投げ込みます。金銭に対する愛は、あらゆる有害な事柄の根であるからです。ある人たちはその愛を求めて信仰から迷い出、多くの苦痛で自分の全身を刺したのです。しかし神の人よ、あなたはこうしたことから逃げ去りなさい。そして、義、敬虔な専心、信仰、愛、忍耐、温和な気質を追い求めなさい。信仰の闘いを立派に戦い、永遠の命をしっかりとらえなさい。----
今の事物の体制で富んでいる人たちに命じなさい。高慢になることなく、また、不確かな富にではなく、わたしたちの楽しみのために、全てのものを与えてくださる神に希望を託すように。そして、善を行い、立派な業に富み、惜しみなく施し、進んで分け合い、自分のため、将来に対する立派な土台を安全に蓄え、こうして、真の命をしっかりとらえるようにと。テモテよ、あなたに託されているものを守り、聖なる事柄を汚す無駄話や、誤って知識と唱えられているものによる反対論から離れなさい。ある人たちはそうした知識を見せびらかそうとしたために、信仰からそれていきました。過分の御親切があなた方と共にありますように。」(テモテ第一 6:2-12、17-21 新世界訳)
この聖句は、パウロが若いテモテに書いた手紙の一部である。テモテを息子のように愛していたパウロの愛情が切々と伝わってくる。健全な言葉だけを守るようにと述べている。なぜなら、健全な言葉とはイエスの言葉であるので、それに同意できない場合、それは真理に対して疑問をさしはさんでいることになるからだ。それでその人は、誤った知識を振りかざすことによって、言葉の論争をしていることになる。さらにその人は精神的に病んでいる、とも述べている。いかにも論理的な思考の持ち主であったパウロらしい論法である。また、興味深いのは、敬虔な専心を物質的な利得の手段にしてはならない、そのようにするなら、それはサタンの罠にはまることであるという。しかし、多くの人たちがそのようにして、金銭に対する愛のために身を滅ぼし、苦痛で全身を刺したのである。ゆえに不確かな富にではなく、神の力に信仰をおくようにと。物質は何も生み出さないが、神への信仰は永遠の命に至るからである。イエスは言われている。「富んだ人が神の王国に入るよりは、ラクダが針の穴を通るほうが易しいのです。」(マタイ 19:24 新世界訳)
2024/10/04 記 №31
2023年 2月7日
騒乱13 新・地球物語
■宇宙の法則
2022年11月8日、皆既月食と天王星食があった。442年振りということである。前回は安土桃山時代ということになるが、その頃、どれだけの人が空を仰いだことだろうか。そしてどのように思ったことだろうか。いつもと違う夜空の様子に恐れを覚えたに違いない。しかし、今日でもこれら壮大な天体ショウを見る時、畏怖の念を感じずにはいられない。確かに今日は、当時よりも理論的な知識は増し加わったかも知れないが、宇宙に対する神秘性に於いては、何ら変わるところはない。宇宙の法則はどこまでも深く、人間の知恵が及ぶような領域ではない。それでも人間には、未来を想像する力がある。宇宙を見上げる時、さまざまなことを考える。天の言葉は言う。
「神は全てを適切な時に美しくした。
神は人に永遠を思う心を与えた。
それでも人は、真の神の行いを
決して知り尽くすことはできない。」(伝道 3:11 新世界訳)
星空を見上げて゛不思議゛の念を感じない人はいないだろう。私も子どもの頃、地球もあの無数に煌めく星の一つに過ぎないということを知った時、感動したことを忘れない。その日の夜は、夜が更けていくのも忘れて、星空を眺めていたものである。さまざまな空想にふけった。箒に乗って空を駆け巡ることができたらどんなに楽しいだろうと思ったものだ。と同時に、表現することもできない神秘に打たれてなかなか眠りにつけなかった。
その同じような気持ちを、古代の王ダビデは次のように詩っていた。
「あなたが指で造った天を仰ぎ、
あなたが並べた月や星を眺めて思う。
死にゆく人間が何者なのであなたは心に留めてくださるのか。
人の子が何者なので気にかけてくださるのか。」(詩編8:3、4 新世界訳)
宇宙は不思議に満ちている。皆既月食ひとつにしても、宇宙は何百年、何千年、何万年、それ以上の悠久の時間が少しの誤差もなく動いていることを教えてくれる。いったい宇宙はどうなっているのか? 誰がその法則を定めたのか? その不思議を誰が解き明かしてくれるだろうか。
少し科学の本を開いてみよう。科学が進歩すればするほど、宇宙、そして地球の造りにおいて驚嘆させられるばかりである。地球は宇宙のなかで針の穴ほど、それとももっと微小な存在である。それでもその位置は、広大無辺の宇宙のなかのその一点にあってこその地球である。命の満ちる星である。それは太陽系に属しており、軌道はほぼ円形、太陽から1億5000万キロの場所に位置している。その位置だけが宇宙における生命区域である。そればかりではない。地球がその一点に留まって命の営みが行われるためには、月が必要だった。月による干潮が地上の命を保たせている。その意味では地球と月は全くの一対である。
このように命の星は、宇宙そのものの奇跡があって存在する。そして言うまでもなく、地球そのものについても無数の奇跡が重なり合っていなければならない。例えば四季の訪れである。それも地軸が23・4度傾いているおかげであるが、いつもその奇跡に感謝しているわけではない。そして自転の速度も絶妙に定められている。今以上に速くても遅くても、昼夜の長さが異なってきて、地上での一日24時間のサイクルに合わせて造られているあらゆる生物の体は不調をきたして生きていけないだろう。さらに私たちは、宇宙からくる致死的な放射線や流星体から守られなければならない。その役割を果たしているのが磁場と大気である。それがあるので太陽風、太陽フレアなどの危険を避けることができている。これも偶然のなせる業だろうか。
地表で行われていることは何か。生命に不可欠な水の循環がある。地表の水は蒸発して雲になり、雲は雨や雪となって地表に戻ってくる。その水があるので食物が作られる。そしてまた水は大気に戻る。そしてこの過程で起きているのが光合成である。この仕組みによって酸素がつくられ、生き物たちはその酸素を吸って二酸化酸素を吐き出すが、その二酸化炭素が光合成によって再び酸素に変えられる。こうして全ての生き物たちが生きられるようになっている仕組みをつくったのは誰だろうか。誰もつくらなくて偶然に組み合わさったのだろうか。しかもそれらの仕組みが少しの誤差もなく秩序正しく動いている。どこからそんな力がくるのだろうか。偶然というなら、その言葉には、答えが解らないという意味合いがあることを認めなければならない。決して科学的な言葉ではない。
天の言葉は言う。
「これは何者か。
知識もないのに、言葉を重ねて
神の経綸を暗くするのは。
男らしく腰に帯をせよ。
わたしはお前に尋ねる、私に答えてみよ。
わたしが大地を据えた時、お前はどこにいたのか。
知っていたというなら、理解していることを言ってみよ。
誰がその広がりわ定めたのかを知っているのか。
誰がその上に測り綱を張ったのか。
その柱はどこに沈められたのか。
誰が隅の親石を置いたのか。
そのとき、夜明けの星はこぞって歓び歌い、
神の子らはみな歓びの声をあげた。
海は二つの扉を押し開いてほとばしり、
母の胎から溢れ出た。
わたしは蜜雲をその着物とし、
濃霧をその産着としてまとわせた。
しかし、わたしはそれに限界を定め
二つの扉にかんぬきをつけ、
「ここまで来てよいが、超えてはならない。
高ぶる波をここでとどめよ」と命じた。
-----
お前は海の湧き出るところまで行き着き、
深淵の底を行き巡ったことがあるか。
死の門がお前に姿を見せ、
死の闇の門を見たことがあるか。
お前はまた、大地の広がりわ
隅々まで調べたことがあるか。
その全てを知っているなら言ってみよ。
-----
お前は雪の倉に入ったことがあるか。
霰の倉を見たことがあるか。
災いの時のために、
戦いや争いの日のために、
わたしはこれらを蓄えているのだ。
光が放たれるのはどの方向か。
東風が地上に送られる道はどこか。
誰が豪雨に水路を引き、
稲妻に道を備え、
未だ人がいなかった大地に
無人であった荒地に雨を降らせ
乾ききったところを潤し
青草の芽が出るようにしたのか。
雨には父親がいるだろうか。
誰が露の滴りを産ませるのか。
誰の腹から露は出てくるのか。
天から降る霜は誰が産むのか。
水は凍って石のようになり、
深淵の面は固く閉ざされてしまう。
すばるの鎖を引き締めることがお前にできるか。
時がくれば銀河を繰り出し
大熊を子熊と共に導き出すことができるか。
天の法則を知り
その支配を地上に及ぼす者はお前か。
お前が雨雲に向かって声をあげれば
洪水がお前を包むだろうか。
お前が送り出そうとすれば
稲妻が「はい」と答えて出て行くだろうか。
誰が鳩に知恵を授け
誰が雄鶏に分別を与えたのか。
誰が知恵をもって雲を教え
天にある水の袋を傾けるのか。」(ヨブ記 38:2-11 16-19 22-37 新共同訳 )
この挑戦的な神の言葉にどのように答えられるだろうか。進化論者は、長い時間をかければ進化すると言う。もしそうであれば、神のこの問いかけに答えなければならない。宇宙と地球に見られる悠久の法則がどのようにしてできたのかを! 神は言われる、知っているなら答えてみよ! と。
この聖句を記したのはモーセであり、紀元前1400年代のことであった。その頃、古代イスラエルの民は、「約束の地」であるカナンの地を目指している旅の途中であり、彼らに見える風景と言えば、何もない荒野と見上げる天空に描かれる星空だけであった。どんなに賢い人でも、ここに記されているほどの宇宙の法則についての深い洞察はできなかったと思う。確かに天の言葉が述べている通りである。「聖書全体は神の聖なる力によって書かれたもの」(テモテ第二 3:16 新世界訳) と。
それにしても神がモーセに、自然を読み解く力が与えられたのであれば、もう一つの結論に導かれる。では、その自然界のおかげで生きている全ての命にも、歩むべき道を教えてくださっているので、と。でも、それはどこにあるのだろうか。天の言葉は言う。「あなたの言葉は真理そのもの。あなたの正しい法規は全て永遠に存続する。」(詩編 119:160 新世界訳) そう、神の真理について、また自然界に抱く人間の疑問について解き明かしているのは、「聖書」のみである。宇宙と地球の法則について言えば、、それを定めたのは誰でもなく、それらのものを造った方である。そしてそれらのことを伝えるために、御子イエス・キリストを地上に派遣されたのであった。
2024/09/19 記 №30
2022年9月7日
騒乱12 「黙示録」は啓かれる
■「地球は青かった」
矢は 1961年4月14日、人類史上、初めての宇宙旅行を成功させたのは、ロシアの宇宙飛行士ユーリィー・ガガリーンだった。人工衛星のボストーク一号に乗船した彼は、大気圏外を108分で一周した。そして、無事に地球に帰還した時の彼の有名な言葉が、「地球は青かった」であった。そして、「神様はいなかった」である。もっともこの言葉のフレーズは、新聞記事の見出しに使われたものであって、実際には暗黒の宇宙に蒼く見えた地球の様子がこまごまと描写されていたようである。いずれにしても、宇宙から初めて地球を眺めた時の感動を伝えている。人類もその映像から、自分たちはこんなにも美しい星に住んでいたのかと感動したものだった。それ以後、私たちはあの暗黒の宇宙で燦然と輝いている地球の写真をしばしば目にするようになり、その感動を語りつづけてきたのである。この一枚の写真によって、人類はまた宇宙に対して、新たな一歩を踏み出したのである。
天の言葉は言う。
「天について言えば、天はエホバに属する。
しかし、地はというと、
神はこれを人の子らにお与えになった。」(詩編 115:16 新世界訳)
人間が、実際に宇宙へ行ってみてからいっそうこの言葉の意味がよく解った。宇宙に無数の星があっても、地球のような星がやたらにあるわけではなく、地球は豊かな水のある特別な星で、確かに人間が住むための星であったということが立証されたのだった。あの神秘的なまでに美しい地球の写真を見て、「素晴らしい偶然だ!」と言う人はそんなに多くはないと思う。第一、地球を外から眺めることにすら科学の粋を集めて懸命に研究しているのに、地球そのものの存在については偶然にそこにある、と言って何の疑問ももたないことは、極めて非科学的なことである。カガリーンが神を見なかったと言ったのは、言葉の綾であり、彼自身が不神論者であったか否かの問題ではない。
ちなみに、神は私たちが地上で見ているような感覚で、つまり肉の目で見えるような存在ではない。天の言葉は言う。「未だかつて神を見た者はいない。父の懐にいた独り子である神、この方が神を示されたのである。」(ヨハネ 1:18 新共同訳) また、神はモーセにこのように言われたのだ。「私の顔を見ることはできない。人は私を見てなお生きていることはできない。」(出エジプト 33:20 新世界訳)
例えば、人間の目は鷹の目に及ばない。象の耳に及ばない。犬の臭覚に及ばない。人間には理性が賦与されているが、獣には人間が持たない優れた器官が無数にあることを忘れてはならない。私たちはついそのことを忘れて、宇宙に出て行っても人間中心の考えや見方こ、地球の物差しで物事を測っていることを覚えていたい。
■ヨハネが見た幻
では、私たち人間はどのようにして地球のこと、神のことなどを知るのだろうか。地球から飛び出して、地球の姿形は見たけれど、地球がなぜ存在するようになり、そしてそこに生きている私たち人間は、どこから来て、どこへ行くのか、生きている意義が何なのかについては知ることがてきない。そして理性をもつ人間はそのことを切に知りたいと思う。ゆえに、人間はさまざまな哲学を生み出したきたのだ。しかしそれはあまりにも多く、結局のところどの説も真理とは言えない。どのようにして真理を見つけるのだろうか。もしこの質問に答えてくれる方がいるとしたらそれは誰なのだろう? 同じ人間でないことは確かである。人間はみなこの地球にだけ生きる生物であり、地球外の知識を持った人はいないからである。偉大な哲学者も、お釈迦様も、親鸞も、日蓮も、どんな宗教の宗祖であっても、みな女から生まれた人間であり、この地球で生まれ育った地球人であるからだ。それでは誰が宇宙の真理を教えてくれるのだろうか。天の言葉は言う。
「真理について証しすること、このために私は生まれ、このためにわたしは世に来ました。真理の側にいる者はみなわたしの声を聴きます。」(ヨハネ18:37 新世界訳)
この言葉は、宇宙の主権者、神エホバの御子であり、地上でマリアの子どもとして誕生したイエス・キリストが無実の裁判にかけられる前にユダヤの総督であったピラトに語った言葉である。天の言葉によれば、人間が真理を知り得る方法は、自らの哲学で推論するのではなく、神の御言葉を伝えるために天から降ってきたイエス・キリストを通して知るようにと記されている。またイエスはこのようにも言われた。「わたしの教えはわたしのものではなく、わたしを遣わした方に属するものです。」(ヨハネ7:10 新世界訳)
確かに人間は、地球を外から見て初めて地球の姿を知ったのであるから、その外見だけでなく、それに伴って、地上で起きている森羅万象につてもに伴ったそれなりの事柄が秘められているにちがいない。そう考えるのが道理である。そうであれば、何よりも人間が探し求めている「真理」についても、創造主であるなら、造った者としてそれらのことを人間知らせる必要がある。そのためにこそ神はイエスを地上に派遣されたのであった。そしてその全てを使徒ヨハネに伝えた。それが「黙示録」である。
その冒頭はこのように始まっている。
「イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神が僕たちに示すためキリストにお与えになり、そしてキリストが天使を送って僕ヨハネにお伝えになったものである。ヨハネは神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち自分の見たすべてのものを証しした。この預言の言葉を朗読する人と、これを聞いて中に記されていることを守る人たちは幸いである。時は迫っているからである。」(ヨハネの黙示録 1:1-3 新共同訳)
ヨハネが「黙示録」の啓示を受けたのは、西暦96年のことである。ヨハネは神の証をした為に、時の皇帝であり、キリスト教徒を迫害したことで有名なドミティアヌス帝(ローマ帝国第11代皇帝、後に元老院議員によって暗殺される。)によって有罪とされ、エーゲ海に浮かぶパトモス島に幽閉されていた。そのような逆境にあった時の神からの啓示であったから、それは高齢のヨハネをどれほど歓喜させ、励ましたことであろうか。その啓示は幻によって与えられた。この「黙示録」は、実のところ、この地上に生きている、また過去に生きたことのある全ての人類にとって、いちばん重要な情報である。ヨハネが見たものは、これから世界に起きること、そしてこの世界がどのように終わるか、また、その後にどんな新しい世界が地上に起きるかの全てについての預言だからである。この預言は書かれてから、(現2024)1926年経っており、イエスやその使徒たち、またそれを信じてきた無数の人々によって代々伝えられてきたが、その情報を信じてきた人は地上に生きてきた人々のほんの僅かである。それはなぜなのか? それはこれまで述べてきたように、この世の支配者である悪魔サタンが、その音信にベールをかけて、神の栄光が伝わらないようにしてきたからである。それは中世からつづく宗教戦争、迫害、拷問、殺人などの黒い歴史が示す通りである。
では、悪魔サタンが人を殺すほどに嫌った神の音信とは、どのようなものであったのか。このことだけは、絶対に知らせてはならないと必死に隠してきた神の世界をヨハネは命を賭けて後世に残してくれたのだった。その幻を紹介していきたいと思う。但し、描写はかなり抽象的で難解である。けれどここでは「黙示録」を解読するわけではなく、そんな紙面もないので、その意味するところだけを簡略に触れておく。全文は、是非ともお手持ちの「聖書」からお読みくださいますように。
ヨハネが見た幻の記述は、イエス・キリストが、天の神から七つの封印された巻物を受け取ることから始まっている。そしてその巻物が啓かれるたびに驚くべきことが次々に起こる。それは、これまでにあったこと、またはこれから起こることなどである。最初にヨハネが見たものは、白い馬に乗っているイエス・キリストの姿であった。天の言葉は言う。
「見よ、白い馬がいた。それに乗っている者は弓を持っていた。そして彼に冠が与えられ、彼は征服しに、また征服を完了するために出て行った。」(目録6:2 新世界訳)
聖書では、馬は戦闘を表している。白色は、汚れのない義にかなった神聖さを表しており、弓、冠、征服という言葉から、この白い馬に乗っておられる方はイエス・キリストである。彼は諸国民、全て人を裁き、悪魔サタンが支配するこの世界を征服するために出て行く。
第二の封印が開かれた。天の言葉は言う。
「すると、別の火のような色の馬が出て来た。そしてそれに乗っている者には、人々が無残な殺し合いをするよう地から平和を取り去ることが許された。そして大きな剣が彼に与えられた。」(黙示録 6:4 新世界訳)
戦争がある。それは諸国間の残忍な戦いである。第三の封印が開かれた。天の言葉は言う。
「見よ、黒い馬がいた。それに乗っている者は手に測りを持っていた。そしてわたしは、四つの生き物の真ん中から出るような声が、『小麦一リットルは一デナリ、オリーブ油と葡萄酒を損なうな』というのを聞いた。」(黙示録 6:5 新世界訳)
飢饉が起きるという預言である。ちなみにヨハネの時代、小麦一リットルは一日分の食料であり、また一日分の賃金であった。異常なまでの物価高を示唆している。オリーブと葡萄酒は必需品であったが、それも無くなることを意味している。飢饉は第一次、第二次世界大戦中にもあったことであり、何千万という人々が餓死した。そして今日でも世界中では飢饉は常時に起きている。
世界的な飢饉状況について、ユニセフ(国連児童基金)、国連食糧農業機関、国連世界食糧計画などの報告(2019)によると、世界で慢性的な飢饉に苦しんでいる人々は6億9千万人で、世界人口の8・9%、アフリカのみでは、19.1%が飢餓状態である。飢えのために夜も寝付くことのできない子どもたちは何億人もいる。加えて、コロナのパンデミック感染によって世界の飢饉は上昇の一途をたどっているという。そしてロシアとウクライナの戦争。現時点(2023年1月)では、既に20万人以上が犠牲になり、祖国を脱出した人は、500万人を突破したと伝えられている。そして戦火による被害は、原発の攻撃に加えて穀倉地帯にも及んでおり、食糧不足は拡大するばかりである。「黒い馬」は世界中を疾走中である。
そしていよいよ第四の封印が開かれた。天の言葉は言う。
「見よ、蒼ざめた馬がいた。それに乗っている者には゛死゛という名があった。そしてハデスが彼のすぐ後に従っていた。そして地の四分の一に対する権威が彼らに与えられた。長い剣と食糧不足と、死の災厄をもって、また地の野獣をもってそれを殺すためであった。」(黙示録 6:8 新世界訳)
第四の封印が開かれて、そこから飛び出してきたのは、蒼ざめた馬である。その上に乗っているのは「死」である。ハデス(墓場)がその後に続いている。「死」には、「地の四分の一」の権威が与えられている。といっても、実際に地上の何人が「火のような馬」「黒い馬」「蒼ざめた馬」の犠牲になるのかは記されていない。しかしこれらの災厄は、これまで地上で起きたことがなく、これからも起きないほどの大規模な患難となる。(マタイ 24:21 )
それからヨハネは、次々に幻を見、第16番目の幻まで見る。それらのなかには、人類に対する神の裁きがあること、将来、地上に建てられる「神の王国」で、イエスと共に千年間、王として治める14万4千人が集められることなどの預言がある。また、神の怒りの七つの鉢が地に注ぎ出されて、サタンの今の世界体制が完全に終わることも預言されている。そのなかでも圧巻は、悪魔サタンがこの世界をコントロールするために、主なる道具として用いてきた「野獣」として表されている政治組織と、「大いなるバビロン」と呼ばれている、偽りの宗教世界帝国の滅びである。
ヨハネは記している。
「私が見ていると、一匹の野獣が海から上がってきた。十本の角と七つの頭があり、角には十の王冠があり、頭には神を冒涜する名が記されていた。私が見たその野獣はヒョウに似ていたが、足は熊のようで、口はライオンの口のようであった。そして龍から力と座と権威を与えられていた。」(黙示録 13:1、2 新世界訳)
ここには、10本の角と七つの頭をもつ奇妙な野獣が出てくる。その野獣の頭には十の王冠が載っている。これは何を意味しているのだろうか。預言者ダニエルの預言が説明している。「---巨大な獣は地上で権力を持つようになる四人の王です。」(ダニエル 7:17 新世界訳) とあり、獣で象徴されているのは、世界強国のことである。ちなみに7つの頭は、実際に人類史のなかに現れた七つの世界強国である。それらの国とは、エジプト、アッシリア、バビロン、メディア・ペルシャ、ギリシャ、ローマ、そして後に現れることになっていた第七世界強国である英・米である。ダニエルがこの夢と幻を見たのは、バビロンの王ベルシャザルの第一年のことであり、彼はユダ王国がバビロンによって滅ぼされた際、(紀元前607頃) バビロンの地へ捕囚となっていたのである。(紀元前536頃)
このダニエルが見た野獣と一致して、ヨハネもその野獣の上に立っている女を見た。ヨハネは記している。
「そして天使は、聖なる力によって私を荒野に連れて行った。そこで私が見ると女が緋色の野獣の上に座っていた。野獣は神を冒涜する名で覆われており、七つの頭と十本の角があった。女は紫色と緋色の布の衣服を着て、金と宝石と真珠で身を飾り、金の杯を持っていた。その杯は極めて深いなものと、彼女の性的不道徳の汚れで満ちていた。女の額には謎めいた名が書かれていた。『娼婦たちと地上で極めて不快なものの母、「大いなるバビロン」という名である。女は聖なる人たちの血とイエスの証人たちの血に酔っていた』。」(黙示録 17:3-6 新世界訳)
この女は、「大いなるバビロン」と呼ばれている偽りの宗教組織である。彼女は金や宝石で身を飾り、神を冒涜している野獣と手を組み、獣に権威を与えて、霊的な姦淫を犯してきた。また、真の神に仕える人たちを迫害し、殺すことによってその血に酔っている。彼女はまさに娼婦である。ちなみに彼女は、第二次世界大戦中は、ドイツのナチと手を組み、ナチを褒めたたえ、戦争を祝福し、互いの利を貪り合ってきた。今日でもそのことは変わらない。偽りの宗教組織の母である「大いなるバビロン」は、諸国にあって政治と深く関わっている。政治機関は、偽りの宗教に貪り食われ、彼らに操られている。彼らは国民ではなく、娼婦に仕えて国民を食い物にしている。それらのことは、実際に日本でも起きていることである。国民の目から隠されたところで、偽りの宗教と政治は、金と権力に於いて互いの利を貪り合ってきたのではなかったろうか。そして、その関係はどのように展開していくのだろうか。天の言葉はさらに驚くべき預言をする。
「天使はさらに私に言った。『あなたが見た水、娼婦が座っている所は、さまざまな種族や群衆や国や言語の人々を表しています。そして、あなたが見た十本の角と野獣は、娼婦を憎み、破滅させて裸にし、彼女の肉を食い尽くし、彼女を火で焼き尽くします。神がご自分の考えを彼らの心に入れて実行させたからです。神の言葉が成し遂げられるまで、彼らが自分たちの王国を野獣に与えて、自分たちの一つの考えを実行するようにしたのです。あなたが見た女は、地上の王たちを支配している大きな都市を表しています』。」(黙示録 17:15-18 新世界訳)
野獣と娼婦である、つまり、政治と偽りの宗教の母「大いなるバビロン」は、互いを利用し合う蜜月関係にあったが、やがて野獣は、その霊的姦淫関係が自分たちにとって不都合に思えてくると、娼婦を疎ましく、憎むようになる。それは神が野獣にそのような考えを心に入れられたからである。神はそのようにして、野獣を通して「大いなるバビロン」を滅ぼされる。そして天の言葉は言う。
「その後、私が見ると、大きな権威をもつ別の天使が天から降ってきた。その天使の栄光によって地は明るく照らされた。天使は強い声でこう叫んだ。『彼女は倒れました! 大いなるバビロンは倒れました。彼女は、邪悪な天使たちの棲み処、あらゆる汚れた空気がこもる場所、あらゆる汚れた忌まわしい鳥が潜む場所となりました。彼女の性的不道徳の欲情の葡萄酒によって全ての国の民が酔わされ、地上の王たちは彼女と性的不道徳な行為をし、地上の商人たちは彼女と甚だしく贅沢な暮らしによって富を得たのです』。」(黙示録18:1-3 新世界訳)
偽りの宗教組織の母である、娼婦と関係を持って利を貪ったのは政治組織だけでなく、地上の商人たちも同罪であった。彼らも娼婦と不道徳な行いをして彼女から富を得ていたのだった。しかし神はいつまでもそんな地上の有り様をいつまでも見逃しておられはしない。神は悪に対して報復される。それで全ての人に「大いなるバビロン」から出て、そこから離れるようにと警告されている。(黙示録 18:4-8 新世界訳)
その時、それまでの間、彼女と霊的姦淫を犯し、不正な行為で得た富で贅沢をしてきた地の王たちと、地の商人たちは、彼女が滅ぼされるのを見て、彼女のことで泣いて悲しみ、自分の体を打ち叩いて言う。「残念だ、残念なことだ、大きな都市、強力な都市であるバビロンよ、あなたの裁きがひと時のうちに到来したとは!」(黙示録18:10 新世界訳) 娼婦である「大いなるバビロン」は、地まの王たちや商人たちと結託して、心霊術にふけり、地の国民たちを惑わしてきたからである。
そしてまた別の天使が言う。
「ヤハを賛美しなさい。救いと栄光と力は神のものです。神の裁きは真実で正しいからです。性的不道徳によって地上を腐敗させた大娼婦を、神は処罰し、彼女の手についたご自分の奴隷たちの血の復讐をしました。」(黙示録19:1,2 新世界訳)
この「大いなるバビロン」と「野獣」の両方を裁かれるのは、天から再び降りてこられるイエス・キリストとその軍勢である。ヨハネはその裁きの情景を幻で見た。
「また、私は天が開かれるのを見た。すると、見よ、白い馬がいた。そして、それに乗っている者は忠実、また真実と唱えられ、その者は義をもって裁き、また、戦う。彼の目は火の炎であり、頭には多くの王冠がある。彼には記された名があるが、彼自身の他は誰もそれを知らない。そして彼は血の降りかかった外衣で身を装っており、その唱えられる名は神の言葉である。また、天にある軍勢が白い馬に乗って彼の後に従っていたが、彼らは白い上等の亜麻布を纏っていた。そして、彼女の口から鋭くて長い剣が出ている。それによって諸国民を討つためである。また、彼は、鉄の杖で彼らを朴する。また、全能者なる彼の憤りの怒りの葡萄搾り場も踏む。そして彼の外衣に、実にその股のところに、王の王、また主の主と書かれた名がある。わたしはまた、ひとりのみ使いが太陽の中に立っているのを見た。彼は大声で叫び、中天を飛ぶすべての鳥に言った。『さあ、来なさい、神の大きな晩餐に集まれ。王たちの肉、強い者たちの肉、馬とそれに乗る者たちの肉、そしてすべての者、すなわち自由人ならびに奴隷、及び小なる者と大なる者の肉を食べるためである。』そしてわたしは、野獣と地の王たちとその軍勢が、馬に乗っている方とその軍勢に対して戦いをするために集まっているのを見た。そして野獣は捕らえられ、それと共に、野獣の前でしるしを行い、それによって野獣のしるしを受けた者と、その像に崇拝をささげる者を惑わした偽預言者も捕らえられた。彼らは両方とも生きたまま、硫黄で燃える火の湖に投げ込まれた。しかしそのほかの者たちは、馬に乗っている者の長い剣で殺された。その剣は彼の口から出ているものであった。そして、すべての鳥は、彼らの肉を食べて満ち足りた。」(黙示録 19:11-21 新世界訳)
悲惨な情景である。サタンの体制を支えてきた政治組織である野獣、それを支えてきた人々、また政治組織と組んで偽りの言葉を繰り返してきた偽預言者たち、すなわち偽りの宗教世界は裁かれる。彼らの腐肉は、神の大いなる晩餐に集められた鳥たちが来て飽きるほどに食べる。そして最後にこの世の体制の゛神゛として人々を欺いてきた悪魔サタンが裁かれる。ヨハネは、鍵と大きな鎖を持ったひとりの天使が天から降って来るのを見た。
「それからわたしは、ひとりのみ使いが底知れぬ深みの鍵と、大きな鎖を手にして天から降って来るのを見た。そして彼は、悪魔サタンである龍、すなわち初めからの蛇を捕らえて、千年の間縛った。そして彼を底知れぬ深みに投げ込み、それを閉じて彼の上から封印し、千年が終わるまでもはや諸国民を惑わすことができないようにした。これらのことの後、しばらくのあいだ解き放たれるはずである。---さて、千年が終わると、サタンはすぐにその獄から解き放たれる。彼は出て行って、地の四隅の諸国民、ゴゴグを惑わし、彼らを戦争のために集めるであろう。それらの数は海の砂のようである。そして彼らは血いっぱいに広がって進み、聖なる者の宿営と、愛されている都市を取り囲んだ。しかし、天から火が下って彼らをむさぼり食った。そして、彼らを惑わしていた悪魔は、火と硫黄との湖に投げ込まれた。そこは、野獣と偽預言者の両方がすでにいるところであった。そして彼らは昼も夜も限りなく永久に責め苦に遭うのである。」(黙示録 20:1-3、7-10 新世界訳)
このように悪魔サタンは、一時的に千年間捕らえられるが、もう一度解き放たれる。それは千年の間、神の王国を経験しても未だサタンに欺かれる人たちがおり、彼らは神の王国に留まることができない人たちである。楽園に入ることは決して易しいことではない。しかし悪魔サタンはこのようにして、千年王国が終わった後に完全に滅ぼされる。それは6千年以上も前に、「エデンの園」でサタンが反逆したときに神が定めておられたことだった。
それからヨハネが見た幻は、いよいよ復活してきた死者たちが裁かれる情景であった。
「また私は、大きな白い王座とそれに座っている方を見た。その方の前から地と天が過ぎ去り、もはや見られなくなった。さらに見ると、死んだ人が大きな者も小さな者も、王座の前に立っており、数々の巻物が開かれた。死んだ人々は、数々の巻物に書かれている事柄に基づき、各自の行いに応じて裁かれた。海はその中の死者を出し、死と墓もその中の死者を出し、その人々は各自の行いに応じて裁かれた。死と墓は火の湖に投げ込まれた。火の湖は第二の死を表している。命の書に名前の書かれていない者はみな、火の湖に投げ込まれた。」(黙示録 20:11-15 新世界訳)
死者たちは、墓の中や海の中から復活し、その後、千年王国でどのように生きたか、その行いによって裁かれる。そして命の書に名前が書かれた者には、第二の死はもうない。彼らは信じられないような祝福のなかにいる。ヨハネの幻は、祝福がどのようなものであるかを説明する。
「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、---そのときわたしは、玉座から語りかける大きな声を聞いた。『見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとく拭い去ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである』。すると、王座に座っておられる方が、『見よ、わたしは万物を新しくする』と言い、また、『書き記せ、これらの言葉は信頼でき、また真実である』と言われた。また、わたしに言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。渇いている者には、命の水の泉から値なしに飲ませよう。勝利を得た者はこれらのものを受け継ぐ。わたしはその者の神になり、その者はわたしの子となる。しかし、臆病な者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、淫らな行いをする者、魔術を使う者、偶像を拝む者、すべて嘘を言う者、このような者たちに対する報いは、火と硫黄の燃える池である。それが第二の死である。」』」(黙示録22:1-8 新世界訳)
今の体制がすべてであると信じている者にとっては、単なる妄想でしかないことであろう。死者が復活し、そして裁かれ、命の書に書かれた人たちには死も悲しみも涙もないと言う。彼らにはもう第二の死はないのだ。墓もいらなくなり、死者を葬るということも、葬られるということもなくなった。それらの人たちとは、「---イエスについて証言し、神について語ったために処刑された者たちだった。野獣も、野獣の像も崇拝せず、額と手に印を受けなかった者たちである。」(黙示録20:4 新世界訳)
彼らの忍耐と信仰が報われたのである。ちなみにアベル (アダムとエバの息子。兄のカインに殺された。) 以来、エホバに対する信仰ゆえに迫害され、命を奪われてきた人はどれほどであろうか。日本でも徳川時代に隠れキリシタンは、おおよそ50万人いたと言われているが、彼らが迫害ゆえに流した涙と、奪われた命は確かに神によって報われるのである。日本のキリシタンゆえに殺された命について、キリスト教の歴史は、「血の花束」として記されている。そのような人たちが悪魔サタンと闘った世界は消え去り、神によって新しい天と地がつくられる。神はその真実さを、「書き記せ、これらの言葉は信頼できるものである」と神ご自身の証印を押しておられたからである。神はアルファであり、オメガであった。神は全ての始まりであり、終わりであったことを人類は知ることになるのだ!
ヨハネはこれらの幻を、神について語ったために閉じ込められていた冷たい石室のなかで見たのだった。不条理に満ち、そのために苦しんできた無数の人々の疑問と悲しみを知っておられる神は、素晴らしい結末を約束されている。そのことを知ったヨハネの歓びはどれほどのものであったろうか。しかも神はその人類始まって以来の最高の福音を、パトモス島で流刑中の身であった老齢のヨハネに啓示されたのである。神のこの計らいには、ただ感動しかない。それでヨハネは、「黙示録」の最後をこのように結んでいる。
「この巻物の預言の言葉を聞くすべての者に、わたしは証する。これに付け加える者があれば、神はこの書物に書いてある災いをその者に加えられる。また、この書物に書いてある預言の言葉から何かを取り去る者があれば、神はこの書物に書いてある命の木と聖なる都から、その者が受ける分を取り除かれる。
以上、すべてを証する方が言われる。『然り、わたしはすぐに来る。』アーメン、主イエスよ、来てください。主イエスの恵みがすべての者と共にあるように。」(黙示録22:18-21 新共同訳)
創造主である神は言われる。どのような宗教であれ、神エホバに逆らって、「聖書」の言葉に一言でも付け加える者がいるなら、また、一言でも取り去る者がいるなら、その者が受ける分は何もないと。これが天の言葉である。