また少し現成公案メモ (original) (raw)

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こんなことに関心を持つ人がいるかわからないし、仏教や道元に関心を持つ人でも、私が何を考えているのかバカみたいに見える人もいるだろうけど、そこはご愛敬で、メモ、と。

諸法の仏法なる時節、すなはち迷悟あり修行あり、生あり死あり、諸仏あり衆生あり。

「諸法の仏法なる時節」という限定節が何を意味しているかが、まず難しい、のだが、これは単に「時節」であり、「時」ということだと思う。ここで現代人が道元を誤解するのは、「時」に対する基本的な認識を異にしている部分が大きいだろう。
道元にあっては、時とは有であり、彼は有時といっている。有るということは時である。ここで、おそらく道元がその前半生で悩んでいた問題は、たぶん、ゼノンパラドックスと同じだろうと私は思う。飛んでいる矢は止まっているということだ。もちろん、道元はゼノンパラドックスは知らないし、その思考の枠組みで考えているわけではない。
ただ、たぶん、道元は、「飛んでいる矢」そのものの有を有時としてみたとき、それが有るということは「飛んでいる矢」であることとして理解していると思う。つまり、有るというのは名辞行為における時間の静止である。時間が静止しているわけではない、名辞が静止したかのような時の様相を示すということだ。
だから、と、やや飛躍するが、「諸法の仏法なる時節」とは、仏法が仏教だどうのという愚論ではなく、コスモスにおける諸存在が諸存在として存在している、まさにコスモス的な名辞の秩序の理法を仏法とかりに呼んでいるだけで、そこには取り分け「仏」という意味合いはない。
「諸法の仏法なる時節、生あり死あり」とは、生や死と名辞される存在がこのコスモスの秩序に現れているウアドクサ、根源的ドクサの状態としてまず提示されているということだ。そしてそれが存在だとされるものだ。
ここでさらに飛躍するのだが、名辞の行為というとき、認識主体や名辞者が問われるし、私も観察者としての独我が問題になると思っていた。昨日瞑想しながらわかったのだが、ここはそうではない。諸存在の生命的な関係(広義のエコロジー)が、自であることで他と関係しあうまさにその関係のインタフェースとして広義の名辞が現れるということだ。名辞行為があるのではなく、自存在が他存在と共存して関わり生の全体性を営むとき、諸存在は自他のインタフェースを持ち、それが名辞に近いものになる。だから、流水にとって岩を転がすとき、そこに広義の名辞がある。この比喩はやや危ういかもしれない。というのは、こうした広義の名辞の行為は生命現象そのものだからだ。
むしろ、そうした生命現象が自他の臨界を生み出して、存在をたらしめるところに仏法の「仏」の意味あいがあるのだろう。
そして、この「諸法の仏法なる時節、生あり死あり」は次の部分に呼応する。

たき木、はひとなる。さらにかへりてたき木となるべきにあらず。
しかるを、灰はのち、薪はさきと見取すべからず。
しるべし、薪は薪の法位に住して、さきありのちあり。
前後ありといへども、前後際断せり。

道元の不死論は、薪は灰とならないということに尽きている。生は死にならない。春は夏にならない。
なぜか。
それらは仏法によって名辞としてその時に存在していて、その一時の位として永遠を得ているからだ。ここは表現を間違うとかなりオカルト的になる。
禅の本質はおそらくすべてここにある。
一時の位の永遠を知覚することが禅そのものだからだ。人の意識は、過去とつながっており、ゆえに時間の流転を知覚するかのような錯覚を持つというか、日常の意識は、運動や変幻を含み込む。しかし、禅によって修証するとき、「一方を証するときは一方はくらし」となる。このとき、時が、前後際断する。
ただ、ここはまだよくわからない。

身心を挙して色を見取し、身心を挙して声を聴取するに、したしく会主すれども、かがみに影をやどすがごとくにあらず、水と月のごとくにあらず。

そしてこれ。

人のさとりをうる、水に月のやどるがごとし。
月ぬれず、水やぶれず、ひろくおほきなるひかりにてあれど、尺寸の水にやどり、全月も弥天も、くさの露にもやどり、一滴の水にもやどる。

ここで、聴取とさとりをうるが別のこととして理解されているのかもしれない。
なので、このあたりの私の解にはまだ自信はない。
文脈を戻すと。

万法ともにわれにあらざる時節、まどひなくさとりなく、諸仏なく衆生なく、生なく滅なし。

「万法ともにわれにあらざる」という時において、無が提示される。ここは時が有であるなら矛盾する。無である時が提示されているかだ。ただ、これはおそらく、運動を含んだ上位の時そのものに無が内包されているということだろう。
諸生命の名辞の関係は存在を提示するがそれらが、自他を意識しない状態では無になる。ここは名辞の比喩がわかりやすい。人類が存在しなくなれば、東京タワーは存在しなくなる。東京駅も存在しない。人類の痕跡すら存在しない、なぜなら、認知しないからだ。そこに生の関係を取り結ぶものがなければ、それは有りながらにして無になる。
字義的に難しいのは、「われにあらざる」で、ここは古来諸法無我として理解されるし、それはそれで間違いではないのでないのだが、道元が開示しているのは、諸法無我の意味であって議論が逆だ。
ここは次の箇所に呼応している。

人、舟にのりてゆくに、めをめぐらして岸を見れば、きしのうつるとあやまる。
目をしたしく舟につくれば、ふねのすすむを知るがごとく、身心を乱想して万法を弁肯するには、身心自性は常住なるかとあやまる。
もし行李をしたしくして箇裏に帰すれば、万法のわれにあらぬ道理あきらけし。

この「万法のわれにあらぬ道理」が、「万法ともにわれにあらざる時節、生なく滅なし」ということだ。
つまり、ここでは一義的には認識の主体、つまり独我の方法論への否定であり、インド哲学的にはアートマンの否定だ。ただ、この否定が議論上明確になっているわけではない。
そして、私は長く勘違いしていたのだが、この独我というのは、いわゆる独我論的な独我というより、諸存在の自他意識そのものを指すのだろう。諸存在が自他意識を持ち、相互に存在を名辞によって意識する活動全体が、「きし」の常住を表している。
ここで仏教の難所がでるのだが、そうした全一なる存在を道元は常住として見ているのか。基体というか。
ここで道元の本義が出てくる。れいの「一切衆生悉有仏性」だ。これを「一切衆生には悉く仏性あり」と読めば道元は外道だというのだ。
諸存在に仏性があるとするのは仏教ではないと道元は断じる。おそらくその意味での仏性はアートマンでもあるのだろう。
道元は、こう読まないかぎり仏教はないと断じる、つまり、「一切は衆生なり、悉有は仏性なり」。もちろん、漢文としてはこう読めるわけがない。
ここは全一が語られているとも読める。
さらにやっかいなのは、「切衆生悉有仏性」に「如来常住無有変易」が続くことだ。
道元的には、こう読まざるをえない。「如来は常住なり、無あり有あり変易あり」と。実は、これこそがまさに現成公案そのものだからこそ、仏性が事実上、正法眼蔵の巻頭に置かれている。
この「如来は常住なり」の如来は、諸存在の生命活動そのものを指すだろうし、これは後の仏道の運動性そのものだろう。
というか、時間の運動そのものが生命存在の根幹であり、それが運動=生命=コスモス=仏道という、言い方はわるいがアニミズムであるともいえるだろう。やや言い過ぎだが。
その意味で、全一またその人間的な現れである如来は、存在するということになる。そしてそう考えればそこに実体が産まれ、一見仏教ではなくなるかのように見える。
ただ、道元としては、運動を含む時が有であるというのは、有の前提であり、いわゆる実体論的な無限を支えるような実体は否定されているということかもしれない。ここは私もまだよくわからない。

仏道もとより豊倹より跳出せるゆえに、生滅あり、迷悟あり、生仏あり。

ここはすでにもう自動的に理解できる。仏道は「豊倹より跳出」しており、ゆえに、有・無を超出した運動として現れることを言っている。ゼノンパラドックスというより、この運動の世界のありのままを捉えているだけだ。
そして、ようやく人間と仏教と関わりになるのが。

しかもかくのごとくなりといへども、華は愛惜にちり、草は棄嫌におふるのみなり。

一般に世諦と読まれるが、愛惜・棄嫌という「苦」の認識は、記憶と時間の錯誤にあることが提示される。花が散るとき、散るの運動を超えて過去に実体に咲き誇った花は無である。記憶は存在するがそれは存在ではない。
しかし人は運動のなかにあって、仏道を習うしかない。そしてこの仏道はすべての生命的な諸存在の全一のなかにある。苦は必然に内包される。
が、悟りはその有無の構図を自身のなかに宿すこと、前後裁断することで、苦という過去を生きることを断ち切る。苦が解放され、人が「しかあれども証仏なり、仏を証しもてゆく」というのはそのことだ。
と、書いてみて、なるほどなとわかったことがあった。
悟りというのは、そこが到達ではなく、ただ、人がまっき生きるという日常の所作であり、ゆえに。

得処かならず自己の知見となりて、慮知にしられんずるとならふことなかれ。
証究すみやかに現成すといへども、密有かならずしも見成にあらず。見成これ何必なり。

証究すみやかに現成すは禅によって生きる人のあり方そのものであって、禅は「密有かならずしも見成にあらず」だ。仏教をいかように知ろうとも苦から免れない。知によって「見成これ何必ならんか」は否である。よって「しかあるがごとく、人もし仏道を修証するに、得一法通一法なり、遇一行修一行なり」とそれだけのことだ。ただ生きることがただ禅をすることになり、この世界には神秘も解放も存在しない。

しかあるを、水をきはめ、そらをきはめてのち、水そらをゆかんと擬する鳥魚あらんは、水にもそらにも、みちをうべからず、ところをうべからず。

同じ事だ。

以鳥為命あり、以魚為命あり。
以命為鳥なるべし、以命為魚なるべし。

諸存在がただそのあり方として生を営む、よって「諸仏のまさしく諸仏なるときは、自己は諸仏なりと覚知することをもちゐず」ということになる。
ただ、そこに苦はあり、苦を滅する仏の教えがある。
と。
しかし、私はまったく間違っているのかもしれない。
こうして見える道元はとても不思議な姿をしている。

追記
ちょっとテクニカルな部分で追記しておこうかな。
道元とゼノンパラドックスについては、ちょっと勇み足な部分があるので、ここはもう少し丁寧に見たほうがよいのだけど、道元がなぜ薪と灰を持ち出したかについては、龍樹「中論」がある。その意味で、道元が中論を踏まえているともいえる。
このあたりの興味深い議論はこのあたり。考えようによっては珍書。

ついでに。
これはちょっとねなんだけど⇒「ウィトゲンシュタインから道元へ―私説『正法眼蔵』: 黒崎 宏: Amazon.co.jp: 本」