10年ひとむかし 97 工業地帯を訪ねるようになった (original) (raw)
吉井川の取水堰と右岸の江戸時代からの干拓地を歩いた1日目が終わり、倉敷駅から水島臨海鉄道に乗って今夜の宿へと向いました。
高梁川の河口にある水島臨海工業地帯まで干拓地の西側を通る鉄道で、いつか乗ってみたいと思っていたことと、工業地帯の夜景を見てみたいと思い今回の宿泊先を決めました。
途中、倉敷駅の地下道に「くらしき百景」という写真が展示してあり、水島工業地帯のコンビナートの夜景が輝くように写っていました。
私が工業地帯に行ってみたいと思うなんて10年ひとむかしの変化だなあ、と思いながらホテルの窓の外を眺めました。
コンビナートの夜景を眺めるには残念ながらちょっと遠かったのですが、工場が操業していても空はきれいで夕陽が山へと落ちていくのを眺めました。
夜更けにガラガラと走行音が聞こえたので外を見ると、工業地帯から長い長い貨物列車が通過していきました。
真っ暗な夜空に、煙突などの赤いランプが点滅しているのが見えました。
2016年ごろから都内の川や湧水を訪ね歩くようになったのですが、かつて玉川上水の近くに住んでいたことから水に関心があったことが理由でした。
いつのまにか川がきれいになり、あの工業地帯で公害がひどかった記憶がある東京湾内も美しい公園でぼっと海を眺められるようになりました。
公害だけでなく近寄りがたかった工業地帯が、夜景を楽しむイベントも行われはじめて隔世の感がありますね。
*田んぼと工業地帯の境界線が気になるようになった*
散歩から全国への遠出をするようになり、四日市を通過した時の空の青さと川の美しさは、「いつの間に」と驚くものでした。
そして工業地帯のすぐそばに田んぼがあったことが印象に残りました。
工業化の時代に、ぎりぎりのところで農業を続ける模索をしていた場所がある。
それもまた水田は健在と思う一つの理由だったようです。
あちこちの工業地帯の変化を見てみたいと思うきっかけは、水田との関係もあるかもしれません。
そして、どこでも水田や畑を潰して工業地帯にしていったのだと思い込んでいたのですが、岳南鉄道に乗って湧水巡りをしたときに、浮島ヶ原の歴史を知ることになりました。
「田んぼが先で工業地帯があと」だけではない、それぞれの地域の歴史とその時代の選択や葛藤があることを知りました。
そして2023年9月に、子どもの頃はまだ工場からの煙で空がくもっていた記憶のある水島臨海工業地帯のそばを通るバスに乗ってみました。児島駅から山の中の道を抜けると目の前にドーンと工場が見えはじめましたが、周囲は森のような木々で囲まれ、運河は遊歩道になっていて空もきれいです。
その運河のそばにやはり田んぼがありました。
経済成長と引き換えに公害に苦しんだ同じ半世紀を生きてきたはずなのですが、工業地帯のそばで田んぼを維持することについて全く知らないままで過ごしてしまいました。
少し歩いただけでは何もわからないのですが、まずは工業地帯のそばにある田んぼを歩いてみたい。そんなまた無謀な計画が密かに進行中です。
工業地帯についてやそのそばを歩いた記録も溜まってきました。まとめておこうと思います。
私の覚書なので、工業地帯について一文しか書かれていないものもありますし、タイトルも違うものもあります。
<2014年>
<2015年>
<2017年>
<2018年>
<2019年>
<2020年>
<2021年>
<2022年>
<2023年>
<2024年>
「10年ひとむかし」まとめはこちら。