覚醒した人 (original) (raw)
マタイの福音書 17 章1−8節
1) それから六日目に、イエスはペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。
2 ) すると、弟子たちの目の前でその御姿(みすがた)が変わった。顔は太陽のように輝き、衣(ころも)は光のように白くなった。
3) そして、見よ、モーセとエリヤが彼らの前に現れて、イエスと語り合っていた。
4) そこでペテロがイエスに言った。「主よ、私たちがここにいることはすばらしいことです。よろしければ、私がここに幕屋を三つ造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」
5 ) 彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲が彼らをおおった。すると見よ。雲の中から「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞け」という声がした。
6) 弟子たちはこれを聞いて、ひれ伏した。そして非常に恐れた。
7 ) するとイエスが近づいて彼らに触れ、「起きなさい。恐れることはない」と言われた。
8) 彼らが目を上げると、イエス一人のほかにはだれも見えなかった。
イエス様が「エルサレムに行き長老、律法学者たちから多くの苦しみを受け、捕らえられ十字架にかけられ殺されて三日目によみがえる…」という話を弟子たちに伝えてから6日が経ち、イエス様はペテロ、ヤコブ、ヨハネの3人を連れて高い山に登りました。
ルカの福音書9:28−36によるとそれは祈るためであったと記されています。
またこの山はヘルモン山と言われていて海抜2,850もある山でした。
頂上まで登ったとは考えにくいですが、ちょっとした登山であったと思われます。
その山で不思議なことが起こりました。
それは非常に神秘的な出来事であり、私たちの理性で説明のつくものではありません。
それを理解しようとする者は、ただうやうやしく神の栄光と臨在を頭を垂れて受け止める以外ないと思います。
この出来事はイエス様にとって、とても重要なことでした。
父なる神の計画である人類の救い、十字架にかかるという重要な任務遂行へ向けてのセレモニーであったかもしれません。
律法を神から受け取った偉大な指導者モーセ。
そして、人類の救い主である神の御子救い主イエス様。
時空を超えて一同に会する場面はまさに神がセッティングしたもの。
その状況は、人間の言葉では表現できないみ顔、み姿、み衣が太陽のように光り輝くとしか言いようのない状況だったのではないかと想像できます。
イエス様の十字架の道は、そのように神の栄光に満ちた出来事であるということです。
この出来事を私たちはどう受け止めたらいいのでしょうか?
ルカの福音書9:28−36によると、この変貌の出来事が起こったとき、3人の弟子たちは眠たくて仕方なかったとあります。
私たちは、人生において起こる多くのことを、ボーっとして見過ごしてしまうことが多々あります。
精神を眠らせておかないように、いつも魂を目覚めさせ、主に魂の目と耳を傾けているようにしましょう。
神様は、いつも私たちに素晴らしいことを起こしてくださっています。
私たちの魂がいつも覚醒していれば、ヘルモン山で3人の弟子たちが体験したような神秘な体験ができるかもしれません。
イエス様は神の子であり、救い主です。
いつでも私たちのそばにいて、私たちを守っていてくださるのです。
〜【覚醒した人】 マタイの福音書 17章1ー8節